誰もいない街で ①
「………………痛かったら言ってくれ」
「ふ、う……っ うん……大丈夫」
しっとりと柔肌が汗ばむ。体の奥から湧くような熱い息が、シドルクの耳にかかる。
滾るような体温が、混ざり合う。
太ももの間に誰かがいるなんて初めてで、こそばゆい。
「シドルク、いいよ…………そのまま動いて?」
恥じらいを捨て、ぎゅうっと脚を絡ませる。
乱れた息づかい、うなじに染みついた汗の匂い。
慣れない体勢に戸惑いながら――――サフィは体の全てを預けた。
「…………行くぞ」
「うん……っ」
ゆっくりと、労わるようにシドルクが動き始める。
サフィの足首を優しく掴み、少し、また少し前に踏み出す。
「三、四…………五人っ! よし、二歩下がって」
「こうか」
「よしよし。んーっと…………だめ、みんな違う」
「わかった、降ろす」
シドルクはそう言うと、上半身を傾けないように腰を落とした。
体勢を低くし、肩車からサフィを地上に降ろす。
「ここでもないかぁ……。あの人、お当番は結構多かったんだけどな」
サフィは、布きれを貼りつけた板を持ち、木炭を削ったペンで何かを描きこんでいく。王宮の大まかな見取り図だ。金纏宮を表した長方形を、王の額が一周ぐるっと囲んでいる。その円のあちこちに「✕」があった。
この数日、サフィも漫然と「孫娘ちゃん」を演じてきたわけではない。
暇を見つけては「王の額」に足を運んで、衛兵の配置などを自分の目で確かめてきた。今描かれている「✕」も、その多くはサフィ一人で調べた成果だ。
そして今、サフィは「
もし今夜も壁の上で警備をしているなら、交渉次第では味方にできる可能性がある。以前、サフィは彼が味方につく可能性を否定したが、それは「脱走」が発覚して白洲の場に引っ立てられた後の話。今ならまだ穏便に、何事もなかったようにサフィを帰還させてくれるかも知れない。
「その男は当てになるのか?」
「うーん…………壁の穴を探すよりは、って感じかな。どっちみち『王の額』は全部見なきゃいけないし」
「…………穴はともかく、居眠りする見張り番くらいは見つかるかもな」
「そうそう! それじゃ次の場所いってみよっか!」
二人が今いるのは「王の額」から見て西北西、道をはさんだラクダ小屋の裏。
「王の額」をただ一周するだけなら、サフィが歩いても一時間ほどで済む。しかし見つかる危険が非常に高い。シドルクの土地勘を頼りに、目立たない裏道を経由しながら要所要所を巡っていくのが正解だ。
足りない時間を補うだけの「乗り物」もある。
「また裏道に入る。乗ってくれ」
「うん、お願い」
シドルクはサフィを両手で抱えあげた。由緒正しき「お姫様抱っこ」。そのまま猛牛よろしく地面を蹴り、真夜中の裏通りを突き抜けていく。
両腕に抱かれながら、サフィは
肌着の
どこを見ても乱れは一切ない。
「…………いや、分かってた。分かってたよ」
「どうした? 一旦止まるか?」
「なんでもないっ! 行って!」
シドルクは話しながら疾走し続ける。もはや人間というより馬の速度だった。夜明けまでの時間が限られる中、なりふり構ってもいられず、最速の移動手段である「お姫様抱っこ」を二人は選んだのだ。
「…………そういえば」
抱えられたサフィが、シドルクの腕をそっと撫でる。
「ケガ、もう平気なの?」
「ああ」
サフィは思い出す。シドルク自身、昼間の一件では負傷者の一人であり、特に左肩の裂傷は酷かったはずなのだ。にもかかわらず、そんな気配を全く感じない。よく見れば、まぶたの上の傷も塞がり、血の臭いもしない。
「ほんとに平気? 痛いの我慢してない?」
「我慢してない。もう治った」
どうやら瘦せ我慢ではなかった。心配するサフィも、この健脚ぶりを見せつけられれば呆れてしまう。
「ほんと…………どうしてこんなに丈夫なんだか」
ふと、シドルクの太い指がぴくりと動いた。
「――――――どうして、だろうな」
「…………?」
彼にしては珍しく、生の感情らしいものが
話している間も、人目のない裏通りを駆けていく。昼には小規模ながら行商人の
突然、シドルクが急停止をかけた。
「むぐぅ……⁉」
慣性によって胸板に押し潰されるサフィ。何が起きたかも分からず、シドルクの腕から地面に降ろされる。
先を見ると、とある建物の間口からは煌々と明かりが漏れていた。にぎやかな騒ぎ声も聞こえてくる。
「しまった、この先は…………」
その建物から男が一人、ふらふらと出てきた。
「ういいいぃぃぃ酒の神様ありがとォ~ってか…………ぶげッ!」
男は路地の向かいの壁にぶつかると、ずるずると地面にへたり込む。
「あれって…………酔っ払い?」
「悪い……忘れてた。この先にある店は全部、
かつて「酒」は「水」の代用品として日常的に飲まれていた。
だが、秩序を重んじるマーハの法典は一般庶民が酒を飲むことを禁じ、飲んでいいのは婚礼や葬儀、祖霊祭といった祭事のみと限定した。
そうは言っても、金払いのいい豪商やキャラバンを呼びこむには酒が不可欠。商魂たくましい料理屋や宿屋は知恵を絞り、「異国の神をいつも祀っている」という建前を考えた。ゆえに、酒場はどこも「
王宮としても酒場から上がる営業税は欲しい。最近では酒場を黙認するどころか、こっそり来店する役人や兵士もいた。
「偉大なる
「乾ぱぁぁぁぁい!」
とても
酒場を開いている店は、ざっと見た限り、この先の裏通りに何軒も連なっていた。
「この道を通らないと遠回りだ…………どうする」
シドルクは尋ねたが、すでにサフィの姿は無かった。
サフィの足は、ふらふら誘われるように酒場の明かりの前まで進んでいた。まぶかな
(わあぁぁ……!)
ランプの灯で満たされた広い酒場。酒臭さが鼻につくが、
客はみんな楽しげだった。赤ら顔で歌いだす若い男、寝転がってイビキをかく中年男、大きな
そして。
酒場の中心にある舞台に―——―踊る女性がいた。
歳は二十歳くらい。羽根飾りをあしらった派手な衣装で、肌の露出がとても多い。
「ぎゃはははははははは! 姉ちゃんええぞ!」
「こっち見ろこっちィ! おぉら、ご褒美やっからよォ!」
泥酔客たちが野次を飛ばし、次から次へと金貨を投げこんだ。気前のいい客に向かって色っぽく目線を送り、女の踊りは過激さを増す。なまめかしい脚線美をアピールし、観客の男たちを煽っていく。
そんな混沌の世界をながめ、サフィは目を輝かせた。
(すごい……! 王宮の外にもいるんだ、踊り子って……!)
もはや、サフィの瞳には一人の踊り子しか映っていなかった。
踊り子の所作一つ、一挙手一投足を目で追ってしまう。
(基本の振りつけは「
酒場を照らすランプよりも光に満ちた瞳。店をのぞくサフィの存在に、客はまだ誰も気づいていない。
サフィは、指先がムズムズ
「…………うぅ~、一緒に踊りたい……」
気を抜けば、今にもふらふらと酒場の舞台に登りかねない。
もちろん、こんな衆人環視の中で踊ろうものなら、これまで逃げ隠れてきた数日間は水泡に帰すわけだが。
「おおぉぉ? 嬢ちゃんも踊り子かい?」
「ひゃいッッ⁉」
後ろから声をかけられ、しかも図星を突かれて心臓が止まりそうになる。
振り向くと、さっき壁にぶつかった酔っ払いがいた。へたり込んだままサフィを見上げ、今も目線はぐらぐら揺れている。
「いいモンだろぉ? 今時はな、どこの店でもキレーな踊り子ちゃん呼んでよ、ああいうのやってんだよ」
「へ、へえ…………どこでも?」
「およよよ? 嬢ちゃん、よく見りゃ結構なベッピンじゃねえかぁ?」
「………………わっ! わっ、あっ!」
ゆるんだ
「あの姉ちゃん、ここらで一番の上玉でよぉ……。へへ、いい体してるよなぁ?」
泥酔状態になった男はデリカシーの欠片もなかった。
「嬢ちゃんも踊り子だってんならよ、あれくらいイイもん見せねえとなぁ?」
ぴくり、とサフィの肩が上がった。
「ふぅぅん………………見たいんですか……?」
「はえ……? え……?」
酔っ払いは目を見開いた。酒場の明かりを背負った少女。逆光がシルエットを黒々と塗り潰していく。
「こっちは狭い部屋で練習もできなくて溜まってるのに……。今だって……今だって必死に我慢してたのに…………。うふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……♡ でも、仕方ないよね?」
「え、あ…………ひっ……」
物々しく変貌していく存在に、酔っ払いは尻餅ついたまま動けない。
「どーしても見たいって言われたら…………
「そ、そんなこと言ってねえ――――」
狂気じみた笑顔を浮かべ、サフィは酒場の方へと振り向く。舞台の踊り子を見れば、相変わらず衆目を浴びながら色っぽいポーズを披露している。
(うん、今の足さばきも綺麗…………上手。とっても上手だよ。だから—―――)
ランプの明かりに一歩を踏み出す。その眼光は、もはや真昼の太陽よりも
もう止まれない。
華々しく
(だから――――――わたしにも
瞬間、サフィの足は浮いた。
自分では一歩も動いていない。しかし、酒場の明るさが猛スピードで流れて消えていく。
「誰も外を見てないなら、そのまま走り抜ければよかったんだ」
裏通りの暗闇を縫うように駆けていく。喧騒は遠ざかり、あっという間に
「………………あのさ」
「ん?」
「今の、ずっと見てたの?」
「見てた。昔、山育ちの奴隷が言ってた話を思い出した」
「…………なんて?」
「『笑った猛獣が一番怖い』」
マーハの静かな夜道に、猛獣の平手打ちが響き渡った。
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