マルシャの憂患

 ある日の昼過ぎ。金纏こんてんきゅうの右翼殿、三階。


 ある窓辺に、ぼんやりと外をながめるマルシャがいた。

 そばには小さな一本脚のテーブルがあり、紅茶と菓子が置かれている。シンプルな陶器のポット、カップ、小さな壺入りの赤砂糖、黒イチゴとバターを練り込んだ焼き菓子「クック」。王宮暮らしの人間なら誰でもたしなむ、ごく一般的なティータイムの組合せだ。


「サフィ…………どこに行っちゃったんだろ」


 クックを一口かじりながら、マルシャは呟いた。

 居室の窓から見えるのは、変わり映えのない庭園の景色。ナツメヤシの細い葉が噴水のように伸び、花を愛でるための遊歩道プロムナードには大理石が敷かれている。円い水盤は飽きもせずに青空ばかりを映し、庭池にはルリスイレンが藍色に咲いている。砂漠を吹き渡る熱風も、「王の額」の内側まで吹きつけてはこない。

 今日の奉仕は午前中で終わり、今夜は踊り子として出演する宴もない。午睡でもしたくなる長閑のどかな午後。

 しかし、マルシャの胸中は穏やかではなかった。

「駄目よ、『どこに行った』とか。誰かに聞かれるわ」

「うん…………そうだけどさぁ……」

 ベッドに腰かけたネフリムが、渋みのある紅茶を一口ふくんだ。


 三日前の夜に別れたのを最後に、同室の仲間――――サフィを見ていない。


 もともと、サフィが夜中に一人で練習しに行くのは珍しくない。それが本番の舞台で踊ってきた直後であっても。ただ、夜明けには勝手にベッドに戻っているのが普通だった。

 そして二人は、サフィの失踪を誰にも明かしてはいなかった。

 もちろん事故に巻き込まれた可能性も考えた。王宮内で疑わしい場所は二人で探し回り、それとなく聞き込みもした。常に話題に飢えている女官カルファの界隈で、もしも人身に関わるような事件があれば耳にしないはずはない。他の可能性としては人さらいだが、「王の額」の鉄壁ぶりを考えると可能性はゼロに近い。

 つまり。

 一番ありうる可能性が――――「サフィ自らによる脱走」になってしまう。


 今日までの三日間、どうにかサフィの不在を誤魔化してこられたが、そろそろ限界が近い。三日も姿を見かけなければ当然いぶかしむ者も出てくる。そんな状況で「同室の二人すら行方を知らない」と知れれば、すぐさま王宮中に伝わって大騒ぎになるだろう。

 脱走した女官カルファに下される罰は――――当然、二人も知っている。

 

「でもさ…………大饗宴、もう三日後なんだよ?」

「そうね」

 マルシャは砂糖入りの紅茶を一口飲み、追憶する。

 目に浮かぶのは、いつか手を差しのべてくれたサフィの笑顔。


 幼い頃、マルシャは落ちこぼれだった。

 踊り子だった母親からの強い後押しもあり、六歳の時点で踊り子になることを選ばされたマルシャ。運動が不得意なうえに同世代よりも発育が遅かった彼女にとって、稽古の時間はひたすらに苦痛だった。こっそり抜け出しては好きな写本でも読んで時間が過ぎるのを待った。

 踊りシャルキィなんて要らない。一生できなくていい。

 そう願い、ひたすらに稽古から逃げ、隠れ、無関心を貫いてきた。

 そんな時、「もったいないよ!」の一言で稽古場のすみからマルシャを引っぱり出したのが、二歳上のサフィだ。

 どんな言い訳をして逃げようとしたか、どんな愚痴を垂れながら引きずられたかは記憶にない。覚えているのは、心の底から楽しそうに踊るサフィの顔だ。その姿に憧れるようになり、一緒に踊って、次第にマルシャは踊りシャルキィの楽しさに目覚めた。猛稽古の果てに秘められた才能を開花かせ――――ついには、瑠璃組エル・ラズリとしてサフィと同じ舞台に立つまでになった。

 マルシャにとって、サフィは姉のような存在であり、恩人であり、一番の憧れだ。

 

 だからこそ、マルシャは思う。

 踊りシャルキィに全てを捧げていたサフィ。あのサフィが、大した事情もなく「脱走」を――――踊り子の立場を失いかねない禁忌タブーを犯すとは、どうしても考えられない。

 だから、マルシャとネフリムには根拠もない確信があった。


 三日後の大饗宴の舞台までに、サフィは必ず戻ってくると。


「そうは言っても、手は打たなきゃね」

 三つ目・・・のカップに注いだ紅茶を飲みほし、ネフリムは一息つく。テーブルには、厨房の番人でもあるトルマーラが用意してくれた紅茶とクックが残っていた。

 ネフリムは思考を巡らせる。

 サフィの不在を誰にも悟らせず、大饗宴までの猶予を確保するための策を。


「そうねぇ、あれの使い時かしら」

「??」

 ネフリムの目には、齧歯類よろしく菓子をほおばる同居人が映っていた。

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