星が墜ちた日 ⑤
忍び足で、するすると夜の王宮を抜けていく。
火の気が消えている煮炊き場を通り、植えこみに身を隠し、ところどころ巡邏の兵士をやり過ごす。そんな場合じゃないと思いながらも胸は高鳴っていた。ひとたび石敷きの通路に出れば、なめらかな大理石の舞台を滑るように音もなく駆け抜ける。
程なくして、サフィは目的地に到達した。
見上げるばかりの切石積みの壁。そこは、王宮を囲んでいる城壁「王の額」の真下だ。
基礎部分はとても分厚く、奥行きは家一軒分ほど。その一部は内側に空洞があって、城壁の上まで登るための階段が隠してある。サフィは、隠し階段の入口を一つ
入口から忍びこむと、真っ暗な階段を手さぐりで登っていく。地上五階分ほど登り、頂上に近づいたあたりで油煙の匂いがして、小さな火が見えた。衛兵用のランプの灯火だ。
「おーい、来ましたよぉ」
「お、おお……! 遅かったな」
待っていた若い衛兵が、サフィの声を聞きつけて階段を降りてきた。
「そ、それで、どうだった?」
「ちゃーんと渡せましたよ。香油もしっかり効いてたみたいです」
「そ、そうか………何か、おっしゃっていたか……?」
「『
「は、ははは…………あの御方らしいな。目に浮かぶよ」
階段に座りこむ衛兵の顔は、嬉しそうでも寂しそうでもあった。
「でも良かったんですか? 差出人も書いてないし…………あれじゃ返事だって」
「ああ、良い、良いんだ」
衛兵は、顔の前で小さく手を振った。もう十分だ、これ以上を望めば罰があたる、といった風に。
三か月前、この衛兵とサフィは秘密の取引を交わしていた。
衛兵が求めたのは――――「ある人物」に、彼が書く
この三か月間、彼がどれだけ思い悩んだか、どれだけ推敲に推敲を重ねて一通の
「はああぁあ、でもなぁ……」
サフィは、わざとらしく肩を落として見せた。
「もう渡しちゃったし…………ここに来られるのも最後ですね?」
最後をあえて疑問形にして、目くばせする。衛兵はといえば困り顔で、丸っこい
「…………勘弁してくれ。今までの三回だって、もしもバレたらと思うと気が気じゃなかったんだ。まず間違いなく審問官の世話になる」
「あははは、審問官って怖い人ばっかりですもんね」
サフィが衛兵と交わした交換条件。
それは、彼が「この配置」についた夜にだけ、サフィを城壁の上に登らせること。
すでに三度、彼はサフィの要望を叶えてくれた。今いる階段にしろ頂上にしろ、当たり前ながら衛兵以外は立入厳禁。露見すれば二人とも大目玉を食らう。
「…………冗談です。それじゃ、最後に今夜だけ」
お辞儀をすると、サフィは衛兵の脇を抜け、一段飛ばしに駆けていく。
「0時には次の番兵が来るからな! それまでに降りろよ!」
駆けあがっていく後ろ姿に、衛兵は眩しそうに目を細めた。
頂上に出ると、頭上いっぱいに
夜風が吹いて、サフィの汗ばんだ肌を撫でる。
一日の寒暖差が激しい砂漠では、
サフィが立っている最上部は、さすがに基礎部分ほど厚みはないが、それでも荷馬車がすれ違えそうな程度の幅がある。
「最後かぁ…………ここ、お気に入りだったんだけどな」
眼下に広がるのは、普段は目にすることのない大都市マーハの街並み。ちらほら見える屋敷から光が漏れ、平らな屋上の家々は月明かりの色に染まっている。
この場所は特別だった。
すぐ内側に建っている大鐘塔のおかげで、サフィの立っている位置は王宮のどこからも死角。城壁に立っている一番近い衛兵からも距離がある。夜闇と風の音も味方して、見つかりかけたことは今まで一度もない。
千人以上が暮らす王宮にあって、誰の目にも触れない場所。
これこそ、サフィが望んだものだった。
見納めになる夜景を、どうせなら刻限まで眺めていたい…………と、迷いが生まれた。ぱんっ!と両手で喝を入れる。
月夜の地平線を見つめ、つま先を構える。
疲れは感じない。むしろ、言い知れない高揚感に胸が躍っている。
すぅ――——…… 右手を前へ、呼吸を静める。
まぶたに甦るのは幼い日の情景。
踊り子――――ルベリエラ=ウル=ジルヴァの姿。
「
瞬間。
サフィの脚は、重さを失った。
つぅ――――と、つま先が滑る。ゆるやかに旋回する。
ゆら――――と、爪のなぞりが軌跡を残し、月の輪を描きだす。
無いはずのヴェールの幻影が現れ、薄雲のように流れていく。
儚げで、たおやかで、羽毛のように軽く。
灰色の瞳は、月の女神が憑いたように澄んでいた。
宴で披露したダイナミックな動きとは真逆。どこまでも静謐で、しかし、要求される技は高みを極める。次第にステップは複雑さを増し、難度は際限なしに上がっていく。わずかにも流麗さを欠けば、紙一重のバランスは崩れ去る。
サフィは覚えている。
踊り子見習いだった六歳のサフィは、あの夜、舞台奥のカーテンから見ていた。誰もが魅了された、踊り子ルベリエラの「
目に焼きついた姿だけを頼りに、ただひたすらに模倣した。
十歳まで、動きをなぞる事も叶わなかった。
十二歳、ようやく真似事と呼べる域まで到達した。
十四歳、つま先から摩擦が消えていった。
十六歳になった今、その足さばきは重さを忘れ、指先はヴェールの幻影を生んだ。
遠い目標だった「
(ああ、楽しいな…………すっごく楽しい)
そして、「
拍手も喝采もない、一人ぼっちの舞台。
それでも、サフィは達成感に包まれていた。首をしたたる汗も拭わず、ほぅ……と息をつく。思いきり躍動したあとの甘い痺れが気持ちいい。
本当はもっと、もっと心ゆくまで踊りたい。しかし頭上の月は移ろい、あの衛兵に告げられた刻限は迫っていた。
名残を惜しみ、一礼する。
ふわっ……夜風が来て、火照った体を心地よく冷ました。満天の星明かりと風だけが、踊りきったサフィを労り、祝福する。
「あぁ…………でも、やっぱり」
――――――――――――――――――――ィィィィ
「…………………?」
ふと、不思議な気配があった。下げていた目線を、何の気なしに東の空に向ける。
しかし。
それの終端速度は、人の知覚を超えていた。
キュッッ――――――――――……ゴッッッ!
飛来した何かが「王の額」に衝突した。ボゴ……ゴロロォォ……! 砕かれた石材が、雨となって夜の街に降りそそぐ。
ただ、かすめるような角度で衝突したせいか損壊は大きくない。粉砕したのは外側の一部分のみ。音も小さく、向こうにいる一番近い衛兵もまだ気づく様子がない。
事態はまだ致命的ではない。
ただ一つ。
衝突のはずみで、城壁の外に投げ出された一人を除いては。
「えっ………………??」
内臓が浮きあがる感覚。
高さは地上五階ほど。下で待ち受けるのは砂でなく硬質な地面。落下すれば五体満足ではいられない。
天を仰ぎながらの自由落下。
死の大地が、加速度を帯びながら背中に迫った。
(――――――うそ、嘘嘘嘘嘘っ⁉ こんなの……っ!)
思い出が、出会ってきた人の顔が脳裏を巡る。
頭が回らない。悲鳴も出ない。
下からの烈風が急き立てる。生きたいという灯火を吹き散らす。
(やだ、だって、だって…………まだ……!)
落ちていく最中。
ふと、サフィの瞳に何かが映った。
(…………?) 降っていく石の雨に、なにか光る物がある。
それは、水晶のような石の欠片だった。
片手に収まる大きさ。表面は無機質で、見たこともない金色の波紋が伝っている。
サフィは手を伸ばし、つかみ取った。
理由はない。ただ意味もなく
死の大地は、もう背後まで迫っていた。
――――――バチィィィッ!
人さし指が触れ、瞬間、サフィは覚えのない感覚に襲われた。
「………⁉ ……⁉」
指が痺れる。痺れ、が――――骨の、なかを伝ってく
頭が――――、揺れ、揺さぶら、れ、
――――――、分からな 今どこに――――――
意 識――――――、目の奥、声が――――――、
――――割れ、割れて、何か――――――、空――――
声がする――――――遠く 近くで
( …………だれ? )
世界が暗転する。
一瞬の後。
永遠に思えるほどの自由落下は、ようやくのことで終着を迎えた。
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