星穹のラクスシャルキ

星が墜ちた日 ④

　夜宴がお開きになって、しばらく後。

　巨大かつ多階層になっている金（こん）纏（てん）宮（きゅう）は、大きく三つに区分けされる。金色の大ドームを頂く中央正殿、そして右翼殿、左翼殿だ。右翼殿の三階には、もっぱら上級女官（アーラ・カルファ）に与えられた居室が並び、「瑠璃組（エル・ラズリ）」の部屋もそこにあった。

　夕方まで洗濯や炊事の手伝いに駆り出され、夜になれば宴の舞台。ようやっと訪れた安息の時間である。

「つっかれたぁ……………」

　へろへろ歩いて、ばふっと綿布団に倒れこむマルシャ。

「こら、ずぼらは癖になるわよ。ちゃんと着替えなさい。まったく一番若いのに…………」

「ネフリム、最近なんかおばちゃんみた……ぶぎゅ⁉」

　投げられた枕がマルシャの顔面に直撃した。

　ネフリムはてきぱきと着替えを済ませ、装飾品を小箱に納めていく。ラピスラズリをあしらった首飾りに、鈴のついた足輪飾り（コルカール）。踊り子として、支給された装飾品の管理も仕事のうちである。そこらに放っぽり出して野鳥にでも盗まれたら大目玉だ。

「………………あれ？　サフィは？」

　マルシャが室内を見渡すが、サフィの姿がない。

　舞台での出番を終え、中央正殿から二階の渡り廊下を歩いてくる途中まで、確かに一緒だったはず。

「わたしたちに何も言わないで、こんな夜中に…………はッ！　まままま、まさか……！」

　にわかに妄想癖が荒ぶり始める。小さな鼻がフスフスと息を鳴らした。

「おおおお相手、お相手はっ⁉　い、一体どこでナニを…………ももも、もしかして……！」

「マセてんじゃないの」

　ネフリムが跳ね馬の手綱を引いた。寝巻きに身を包んで楽になると、窓辺でくつろぎ始める。

　今夜は三日月。控えめな月明かりが庭園を照らし、ナツメヤシの葉が夜風に揺れる。景色はもちろん情緒的だが、窓辺のネフリムもまた絵になった。

　しかし、この窓からは砂漠の街並みを望むことはできない。

　理由は単純。

　王宮の敷地は全て、地上五階に等しい高さの城壁――――通称「王の額（ひたい）」に囲まれているからだ。

　「王の額」が築かれたのは十年前。それ以前の城壁はそれほど高くもなく、三階の窓からは街並みはもちろん、砂漠に沈んでいく太陽も見ることができた。完成した「王の額」、そして同時期に定められた「掟」のせいで、壁の外は隔絶された遠い世界になってしまった。

「まあ、はしゃぐのも無理ないわ。こんな狭い世界じゃ飢えるわよね、そういう話題に」

　ネフリムが溜め息をつく。彼女が物心ついた頃には「王の額」はまだ無かった。それゆえ、ほとんど壁の外を知らない年齢のマルシャより喪失感が強いのだ。

　ネフリムは、見飽きた夜の庭園から目を離すと、ベッドに寝そべる同居人を見た。

「でもね、マルシャ。サフィって何が一番好き？」

「踊ること」

「そうね。その次は？」

「たぶん…………王妃様？」

「その次は？」

「うーん、おやつで貰えるクック？　蒸かしたヤムの方が好きかな？」

「そうね。さて、『男』は何番目？」

「んんー…………そっかぁ」

　マルシャはそこで諦めた。ロマンの荒野に駆けだす体力は尽き、睡魔が襲ってくる。気づけばネフリムの忠告も虚しく、着の身着のままで寝息を立てていた。

　やれやれ、と小さな妹分を抱き起こし、髪飾りから順に外していく。稽古でも付けていた琥珀の髪飾りには、指で触れないと気づかない無数の傷がある。

「あの子…………この前のこと、気にしてないといいけど」

　安らかな寝顔を見下ろしながら、ネフリムはもう一人の妹分を思った。

（さぁ～て、練習の時間だぁっ！）

　その頃、サフィは鼻唄まじりに夜風に吹かれていた。右翼殿の一階から出て、日中に働いた洗い場のそばを通り過ぎていく。

　着ているのは今夜の宴の踊り子衣装のまま。風に飛ばされるヴェールと、鈴の鳴る足輪飾り（コルカール）だけは取っているが。

　王宮で暮らす女官（カルファ）は、王宮敷地の中であれば夜の出歩きも許されている。にもかかわらず彼女が鳴り物を避けたのは、理由があった。

「あ………………」

　歩いていた通路の先に、サフィの見慣れた人物の姿があった。

　宿舎の壁に寄りかかったまま、腕を組み、通りかかるサフィに無関心であるかのように目をつむっている。

　サフィもまた、素知らぬ顔をして通過しようとしたが――――その時。

「おいおいおい、まァだ寝ねえのか？　寝不足で毛穴ガバガバでも務まんのよ天下の瑠璃組（エル・ラズリ）の主役様ってのはよォ？　ああァん？」

　突然、その人影はサフィを挑発した。

「だいじょーぶですぅ〜！　お手入れしてますぅ〜！　翡翠組（エル・ヤシム）だって、早いとこ天下取らなきゃシワッシワのダルンダルンになっちゃいますからねぇぇぇ⁉」

　サフィが顔を突き合わせて応酬する。踊り子隊「翡翠組（エル・ヤシム）」の主役ジェッダは、こめかみに血管を浮かべて笑った。

「言・わ・れ・る・までもねえなァァ〜⁉　さっきの『魔人（ジン）』でやってた跳び乱舞よォ、あと半ひねりはイケたよなァ？　土壇場でビビっちまったかァ？」

「…………！　ふ、ふぅぅん、いや別にぃ？　計算ですけど？」

　サフィは声の上擦りをごまかした。

　土壇場でビビったわけではないが、振りつけを考えた時、乱舞の激しさは確かに少し加減した。ただそれは、マルシャやネフリムにすら気づかれていないはずの秘密だ。

　瑠璃組（エル・ラズリ）と、翡翠組（エル・ヤシム）。

　とある機会に決められる踊り子隊の人気序列において一位・二位を占める両組。その主役を務める踊り子こそがサフィとジェッダである。十六歳の同い年で、見習いの頃から鎬（しのぎ）を削ってきた。お互いの負けず嫌いもあって、踊り《シャルキィ》の優劣から背の高さまで、日頃から喧嘩のタネが尽きない。

「あー、つーか、お前さ…………」

　その時、先刻までの威勢を欠いて、ジェッダは明らかに言い淀んだ。まるで今までの煽り合いがその一言に至るための助走だったように見える。

「まだ、どっかで続けてんだよな、あれ」

「………………ついて来ないでよね」

　サフィはジェッダから目線を外した。その足は、すでに場を離脱しようとしている。

「あ、あのな…………こないだお前に……」

　ジェッダは言葉を紡（つむ）ごうとしたが、糸が絡んだように出てこない。サフィはそれを待たず、そそくさと建物の角（かど）を曲がって消えていった。

「……………………チッ」

　呼び止める言葉が、ジェッダの細い喉に詰まって落ちた。