砂の都のサフィ ④

「…………振り切った」


 奥まった裏路地、染め物の工房ばかり並んだ小道で、シドルクはようやく足を止めた。

 逃走を始めてから四半刻。

 宣言のとおりマーハの市街地を半周し、さしもの猛牛も息を切らしている。首筋をつたう汗が鎖骨のくぼみに溜まっている。

「…………悪い、余計だったか」

「ん、んんーん…………ありがと」

 サフィは腕に抱かれたまま首を振った。ただ、その声には彼女らしい覇気や活気がない。なにか機嫌を損ねたかと思い、シドルクはサフィの顔をのぞきこんだ。

「…………この運び方も違うのか」

 そう尋ねられ、唐突にサフィは意識した。

 逃走開始から今まで、サフィの肩と両足はシドルクの腕に支えられている。ゆりかごの赤ん坊のように、すっぽりと。


 遠い時代では、これを「お姫様抱っこ」と呼ぶ。


「あ、その…………い、いいけど」

 サフィの血色が少々良くなった――――のも束の間、今度はみるみる青ざめていく。抱き方は悪くない。むしろ逆で、なんだか無性に安らいで、このまま永遠に守られたいとさえ思う。

 がばっ! サフィは飛び起き、ゆりかごを脱出した。そのまま脱兎のごとく、藍染め小屋の角の向こうへ駆け込んでいく。

「………? どうした?」

「そほで待ってれぇっ!」

 よたよたと死角にたどり着いた瞬間、喉の奥が酸っぱくなり――――


 王宮育ちの少女、サファルケリア。

 その半生は、奴隷にも金貨にも、乗り物酔いにも無縁だった。


 それでも、乙女のプライドだけは死守したのだった。




 聞けば、シドルクは仕事場から仕事場への移動中にこっそり抜けてきたらしい。すぐにでも戻る必要があった。

 さっきとは別の市場バザールにサフィを送り届けると、ジュニが待つ現場へと駆けていく。


 再び一人になったサフィは、同じ轍を踏まないよう知恵を絞った。

 まず、貨幣がなければ始まらない。

 どうにか市場バザールで宝石商人を探し当てると、ラピスラズリと純銀をあしらった腰飾りを鑑定してもらい、金貨にした。当然、交易都市マーハの商人相手に、素人未満のサフィが駆け引きできるはずもなく、かなり値切られた。それでも赤砂糖くらいは気兼ねなく買える一財産。ずっしりした革袋の重みに、なぜか無性に不安になる。それも初めての経験だった。


 次に、着るものを調達すると決めた。

 今のボロボロの長着アバヤは巡邏兵に覚えられた上、お世辞にも清潔とは言えない。しかも、なぜか裾よりも袖のあたりが擦り切れ、目の細かい砂がこびりついている。

 行き着いた服屋は、大通りに堂々と看板をかかげる老舗だった。


「ふあああぁ……! 眼福ぅ……!」


 陳列棚を埋めつくす綾織りの反物、オーロラのように飾られた無数の一枚布タルハ、黒真珠のピアスに象牙のブレスレット。きらびやかな店頭は、それだけで心を惑わせた。

 片っ端から着てみたい衝動をこらえ、必要最低限の衣類だけを選び取っていく。

 肌着にする下穿きシャルワールとチュニック。大きめの黒っぽい長着アバヤ。目立ちにくい紺青色のタルハ。丈夫そうな革製のサンダル。それらを持って服屋の奥に向かい、女主人に勘定を頼んだ。


「だからよ旦那、俺は見たんだって! なのに誰も信じちゃくれねえ!」

「…………?」


 女店主が金貨を数えている間に、サフィは背後の会話を耳にした。

 常連客らしい男が、店先の椅子に腰かけた老人と話している。老人のほうは服屋のご隠居らしい。

「かっかっか、なにも疑っちゃおらんて。うちの若い衆も言うとったしな」

 すきっ歯をのぞかせ、ご隠居は男に言った。


「真っ青な流れ星じゃろ? 夜ふかしの連中はみんな見たそうだの」 


(…………流れ星?)


 何となく気になって、サフィは聞き耳を立てた。

「特上のインディゴより青々と光りおって、南の方に落ちてったそうな。昨日は街じゅうで騒がれたわい」

「いや、違う、違うんだよ旦那」

「じゃがの、そりゃ一昨日の晩のハナシじゃろ? ちとばかし時流に遅れとらんかね」

「だから、そいつとは別の話なんだって!」

 業を煮やした常連客は、語気を荒くした。


「青いのが見える直前だ! 王宮の壁から人が落ちたんだよ!」


(……………………!)


「ほほお、そりゃ初めて聞いた。そいつは死んだのかい?」

「あ、いや…………落っこちた先は建物のかげでよ。行ってみたら影も形もなかったぜ。あんな夜中じゃ、あんなとこ歩いてたのは俺くらいだし、誰に聞いても流れ星しか見てねえって言うしよ」

「ひゃひゃ、酒場通いも程々にな。まーた嫁さんに叩き出されるぞい」

「くそ、みんなそうやって信じちゃくれねえ! そりゃ素面しらふってわけじゃなかったけどよぉ……」

「お客さん? 勘定できたわよ」

「ひゃいっ⁉」

 サフィの肩が跳ねあがる。

 店先にいた二人がこちらを見た。呼び止められる前に、買ったものを引っつかんで服屋の出口から走り去っていく。

(ま、街って怖い……人目って怖い……!)

 買ったばかりの頭巾タルハで髪のふくらみを潰しながら、サフィは店から遠くへと逃げた。

 


 その後、買おうとした物を買いそろえ、サフィは奴隷小屋を目指した。

 シドルクが教えてくれた。マーハの市街地は皿のような円形に整備されていて、中央から伸びた大通りと、同心円になった横道だけを歩けば迷わない。

 ふと、サフィは市場バザールでにぎわう大通りで足を止めた。人混みはあるが見晴らしは十分にいい。

「あっ……」

 大通りのずっと先に、遠近感を狂わせるような巨大な城壁が見える。内側からは見慣れても、外側から目にするのは初めてだった。

 立ち塞がる城壁――――王の額。

 あの境界の向こうに、サフィが生まれ育った世界がある。

 まだ二日も経たないのに、残してきた仲間たちの顔が浮かんでしまう。


(マルシャ、心配してるかなぁ……。ネフリムは……うん、心配ないか)


 サフィの記憶にいるネフリムは、滅多なことで動じない頼れる姉貴分だ。

 ざっと街の様子を見たところ、失踪から二日経っても兵士が捜索している様子はない。もしかすると誰かが――――それこそネフリムあたりが機転を利かせ、サフィの失踪を隠すように立ち回っているのかも知れない。

 あごの下で頭巾タルハを結び直し、サフィは歩み出す。


 王宮帰還の期限は、四日後の夜。

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