星穹のラクスシャルキ

奏者のプライド

　マーハの王族がすまう白亜の大宮殿————金纏（こんてん）宮（きゅう）。

　古色蒼然としたシンメトリーの建築様式、大理石をあしらった純白の壁、尖頭兜（シシャーク）のような造形の大ドーム。「王の額」という無粋な壁が築かれる以前まで、キャラバンや旅ゆく者たちを虜にした美しき御殿である。

　しかし、金纏宮を「王族の住み家」と表現すると半分だけ（・・・・）語弊がある。

　ここは蟻もミイラと化す砂漠地帯。一年の半分ほどは悪魔的な暑さになる。砂漠の有力者は、猛暑をやりすごすための別邸、夏屋敷をもうけるのだ。

　「王の額」に囲まれた王宮敷地のうち、北西の一角。

　そこに、金纏宮とは別に建てられた夏屋敷――――「銀盤邸（ぎんばんてい）」がある。

　屋敷まわりの池にはスイレンが浮かび、水面をそよがす風がテラスに吹き抜ける。室内では空気が淀むことなく流れていて、真夏でも屋外より涼しい。

　石の御殿が何するものぞ。この快適さこそ、大砂漠を支配する者の特権だった。

　銀盤邸の無数にある部屋のうち、テラスに面した開放的な大広間。なめらかな毛足の絨毯が敷かれ、中央には革張りの座椅子（ソファ）が一つ。そこに、一人の中年男性が腰を預けていた。

　マーハを治める君主、ドゥラーン＝セム＝ザヒード国王。

　傍らに控えている御付きの女官（カルファ）は二人。ひとりは水差しを抱え、ひとりは琵琶（ウード）をゆったりと奏でていた。

「国王陛下、お目汚しにあずかります」

　ドゥラーン国王の足元から数歩先で、若い政務官が跪（ひざまず）いていた。

「踊り子見習いの四名が、このほど最終試験に及第しました」

　政務官は仰々しく頭を垂れる。ドゥラーン国王は一言も発しないが、だからといって政務官が焦（じ）れることはない。

（沈黙は是（ぜ）…………か）

　それは、宮廷人のあいだで広まっている暗黙の了解。

　ドゥラーン国王の沈黙は全て「是」であり、「否」ならば必ず発言がある。そのおかげで、国王が無言であろうとも政務に支障はない。

「それでは、おそれながら四名の御前披露を執り行います。どうぞ照覧を。……………よし、入れ」

　政務官の合図で、待機していた少女四人が入室してくる。シンプルな踊り子衣装を纏っている。幼さは抜けていないが容姿も申し分ない。

　踊り子の一人が、ドゥラーン国王を拝顔しようと目線を上げる。

（え……っっ⁉）

　すんでのところで少女は声を呑みこんだ。

　ドゥラーン国王の双眸は、どろりと石膏のように白濁し、虚ろだった。前方を向いていても焦点は合っていない。頬骨が出るほど痩せこけ、体には肉づきと呼べる肉もない。一方で、ターバンや口髭（くちひげ）はすっきりと整えられ、毛織りの白いカフタンも清潔で気品がある。少しでも国王の尊厳を保とうという近習たちの努力が垣間見え、それがむしろアンバランスな印象を生んでいた。

　ドゥラーン国王はまだ四十半ば。それほど老いさらばえる年齢ではない。それでも髪はすっかり白髪で、彫りこんだようなシワが目立つ。

　王宮に暮らす踊り子でも、これほど近くで国王に拝謁することは極めて珍しい。今日という日に期待を膨らませていた踊り子の少女は、動揺を顔に出すまいと震えていた。他の仲間三人も、程度の差はあっても似たり寄ったりの反応だ。

　そんな反応に、御付きの女官（カルファ）二人は内心ほくそ笑んでいた。

「それでは、演目『泡沫の乙女（ユロ・ユリア）』を披露いたします。…………おい」

「は、はいっ！」

　代表の一人も明らかに声が上ずっていた。もちろん、引率の政務官は動揺のわけを知っている。前もって四人の踊り子たちには「何を見ても御前では取り乱すな」と言い含めていた。さすがにそれ以上の露骨な言い方は憚られたが。

　やがて、演舞が始まった。

　駆け出しとはいえ、幼い頃から稽古を積んできた一人前の踊り子。その小さな身体には、爪の先まで踊り方が染みついている。動きが少々ぎこちないのは緊張と動揺のせいだろう。

　琵琶（ウード）弾きの女官（カルファ）は、事前の言いつけどおり「泡沫の乙女（ユロ・ユリア）」の伴奏をしていた。

（どうして私が…………踊り子のために）

　年齢は二十歳そこそこ。造形は悪くないが、そばかすが目立つ顔だった。

　王宮で生まれた子女は、その全員が女官（カルファ）となるべく育成される。六歳になった時点で素質を確かめられ、容姿と才能があれば踊り子を、そうでなければ他の専門職や下積みの下級女官（ターフ・カルファ）を奨められる。そばかすの彼女は幼な心に屈辱を味わった。それを糧にして青春の全てを琵琶（ウード）に捧げ、今では国賓のいる宴で琵琶（ウード）を任されるほどの腕前になった。

　しかし、宴席では裏方らしく素顔をベールで隠すことを強制される。それが彼女のプライドをいっそう傷つけた。

　ゆえに、ここで懸命に踊っている初々しい少女すら、彼女には妬み嫌う対象だった。

「……………………。」

　しかし、四人をながめるうちに何かが変わる。

　ひたむきに踊る少女たちの姿に、琵琶（ウード）に明け暮れた頃の自分が重なる。

　御前披露という気負いのせいか四人の顔つきは固い。それでも、最後まで踊りきるという意地を小さな体に宿している。

　決して、知らないわけではないのだ。

　容姿と才能、それだけで最終試験に及第できるほど、踊り子の道は平坦ではないのだと。

　ブ、ベイィンッ！　「あっ」

　突然、琵琶（ウード）が盛大にリズムを外した。

　その拍子に、一人の踊り子が足さばきを乱す。緊張で固くなった身体は立て直しもできず、ぶざまに音を立てて転倒してしまう。

「あうっ……！　………………うぅ……！」

　踊りを中断し、転んだ一人に仲間の三人が駆けよる。

　派手な転倒だったものの、幸いにも怪我らしい怪我はない。それよりも国王の御前で、しかも仲間を巻きこんで醜態をさらしてしまった事実が、急激に彼女の顔を曇らせていく。

「へ、陛下！　申し訳もございません！　後ほど厳しく処罰しますゆえ、ここは何とぞ、何とぞ慈悲を……！」

　部屋の隅で見ていただけの政務官が血相を変えた。国王の前に飛んできて、絨毯に額をこすりつけた。転んだ踊り子には一瞥（いちべつ）もしていない。

　今日のような新人踊り子の御前披露は、若手の政務官が持ち回りで引率を任される。とんだ貧乏くじを引かされた、と内心では悔やんでいた。

「………………！」

　そしてまた、三人の踊り子も政務官には一瞥もくれない。

　ただ無言のまま、琵琶（ウード）弾きの女官（カルファ）を睨みつけていた。

「ち、違う、違うの……！　わざとじゃ………！」

　さっきまで胸中では踊り子をあざけり、鬱憤を晴らしていた女官（カルファ）。指は凍えたように震え、年甲斐もなく涙をこぼしそうになっている。同僚の女官（カルファ）は目を合わせず、ただ水差しを落とさないよう抱いていた。

　風が吹き抜けるはずの空間に、淀んだ気が満ちていく。

　這いつくばる政務官をはさみ、一触即発の気が。

「だれが倒れあああああああああああああああああッッッッ！」

　心臓が止まるほどの大音（だいおん）声（じょう）が空気を震わせた。

　全員が呆然とする中、ただ一人、その問いに返答する者がいた。

「わ、わたしでございます…………こ、国王陛下」

　転んだままの踊り子が、おずおずと手を挙げる。座椅子（ソファ）に身体を預けたまま、国王ドゥラーンは呟いた。

「おお、近う………近う寄れ…………痛いか」

　薄いくちびるから漏れる声は、たった今の大声が嘘のように籠っている。踊り子は、言われるがままに国王の前ににじり寄った。

「い、痛くはございません。それよりも、わたくし……そっ、粗相を……！」

「おぉ……おぉ…………そうか…………」

　まるで孫でも愛でるように、ドゥラーン国王の眉間は緩んでいた。　

「おい、琵琶（ウード）を…………早う…………早う」

　はっ、と後ろに控えた女官（カルファ）が我に返る。長年の相棒である琵琶（ウード）は取り落としていなかった。

「しっ、しかし陛下…………」

「飽きぬのだ、そなたの調べは…………ほれ、早う…………」

「…………っ」

　たじろぎながら、女官（カルファ）は踊り子たちに目を向ける。

　転んだ踊り子は、にっこりと屈託のない笑顔を返した。この少女はもともと要領が悪く、最終試験に至るまでにも何度となく仲間たちの足を引っ張ってしまった。だからこそ、失敗した人間の気持ちを誰よりも理解できる。

　仲間の三人も、そんな純真さに当てられ、剥き出しの敵意を引っこめた。

　再び四人が並び、「泡沫の乙女（ユロ・ユリア）」の踊りだしの構えをとる。

「は…………え………？」

　ひとり平伏（ひれふ）したままの政務官は、ようやく自分が邪魔だと気づくと、すごすごと場所を開けた。

　ほどなく、銀盤邸に心地よい調べが響いた。

　外からの涼風に吹かれながら、国王ドゥラーンは微睡（まどろ）み始める。

　かつての英雄ドゥラーンの面影はない。

　その網膜は何も映さず、鼓膜は言葉を通さない。

　その耳に届くのは、愛すべき者の痛みの声、琵琶（ウード）の音色。

　そして――――――