星穹のラクスシャルキ

砂の都のサフィ ①

「尻（ケツ）が高いッ！」

　サフィの目覚めから一夜が明け、そろそろ早朝の鐘が鳴ろうという時刻。

　路地裏に面した地下物置では、ジュニ少年による「演技指導」が行われていた。

「くぅ…………っ！」

「姉さん、尻（ケツ）！　尻（ケツ）が高えっす！　いくら小柄でも尻（ケツ）でバレますって！」

「ええい、もう！　尻（ケツ）尻（ケツ）って連呼するなっ！」

　サフィは今、極限まで腰をかがめた姿勢のまま、狭苦しい室内をよたよたと歩かされている。

　すでに開始から二十分。最初の方こそ「ふぅーん？　こんなの練習も要らないけど？　こちとら踊り子のサフィちゃんですよ？」と言ってのける余裕があったが、この動き、見た目よりも腰にくる。落ち穂拾いが、老若男女を問わない重労働であるように。

「せめて……杖……！　杖は……？」

「無えっすよ。あの婆さん、杖つかずに腰まげて歩いてたっす。地べたを鼻で吸えるくらい」

「妖怪憑き（マジュヌーン）じゃないの⁉　そのお婆さん！」

　サフィがなぜ妖怪婆さんのマネをしているかと言えば、今日から始まる「王宮帰還作戦」の一環だ。

　この街で生活しながら帰還の糸口をさぐるには、何よりもまず「王宮の踊り子」という正体を隠す必要がある。隠れ家として地下物置を使うにしても、素性も知れない若い娘が出入りしていれば絶対に怪しまれる。

　そこで、ジュニが考案したのが「世話焼き婆さん扮装作戦」だ。

　世話焼き婆さんというのは、奴隷たちの世話人として雇われた近所の老婆のこと。たまたま昨日から里帰りしていて留守だという。サフィが成りすますには絶好の役どころだ。

「ジュニ、婆さんの服があったぞ」

「おお！　早かったっすね兄貴！」

　地下室の石段を降りてくるシドルク。その右手には黒っぽい襤褸（ぼろ）があり、左手には熟したアンズのような明るい色の襤褸（ぼろ）がある。

　だぶだぶで体型をごまかせる長着（アバヤ）と、スカーフや頭巾として使われる夕陽色の一枚布（タルハ）。ただ、どちらも年季が入っていた。虫食いや破れが目立つし、そこはかとないカビ臭さが漂ってくる。

（……………あれ、わたしが着るの？）

　腰をかがめたまま横目で見て、サフィは顔を引きつらせた。

「わりかし綺麗みたいっすね。いやあ、あのドケチ婆さんが置き忘れなんて珍しいっすけど、あって良かったっす」

「そうだな…………で、何やってるんだ」

「これっすか？　これから婆さんになる予行練習っすよ」

「ちょっと⁉　言い方…………くふっ⁉」

　抗議しようと体を起こしたところで地味な痛みがきた。ゆっくり伸びをしながら腰をさするサフィに、ジュニは横目をやる。

（うっお…………！　やっぱりすげえ……！）

　弓なりに体を反らすことで強調された、少年の憧れ。

　盛りのついた犬よろしく鼻息が荒ぶる。そのシルエットを少しでも克明に焼きつけるべく、少年はまぶたを剥いた。

　ずごんッ！「ぶごっ⁉」

　その脳天に、天高くから手刀が降ってきた。

「う、くぅぅ…………あ、兄貴だって見たいクセに……！」

「………………。」

　手刀の落とし主は無言のままだった。恨めしげな弟分からも、サフィからも目線をそらしている。同じ頃、じっとりと重たい視線がジュニの方に向けられていた。

「……………………………スケベ」

　パッパッと、シドルクは薄汚れた一枚布（タルハ）の砂ぼこりを落としていく。

「それで、成りすましは出来そうか？」

「いや、まだまだっすね。うっかり立ったらバレるし、声マネの練習もしないと」

「そうか。じゃあ、ひとまず他の誰かになるしかないか」

「他の？」

「色々あるだろ。婆さんの代わりに雇われた知り合いとか、親族とか」

「「……………………あっ」」

　こうして。

　サフィが扮（ふん）する人物は、「婆さんの代理として故郷から遣わされた、顔が似てない孫娘」に決定したのだった。

　それから少しして、早朝の鐘が聞こえてきた。

「俺とジュニは仕事に行ってくる」

　そう告げると、シドルクは小ぎれいにした一枚布（タルハ）を手渡した。

「奴隷は俺たちを含めて三十人いる。この物置を使うのは俺とジュニだけで、あとは向こうの奴隷小屋で寝泊まりしている。世話人に成りすますなら最低限の仕事はしたほうがいい。ひとまず夕飯を用意だ。婆さんが残していった麦粉がある」

　シドルクの口調はてきぱきと淀みない。無駄口は叩かないが言うべきことは漏らさず言う、そんな印象だ。

「あ、あの…………シドルク、さん……？」

　この時、サフィはそれなりに勇気を出した。

　どこか近寄りがたい雰囲気のある青年に、及び腰になりながら話しかける。

「奴隷だぞ、なんで畏（かしこ）まるんだ」

「えっ………… いや、でもっ」

　基本的に人と打ち解けやすいサフィだが、例外はある。王宮では会ったことのないタイプの、感情の読めない不愛想すぎる青年。彼との距離感を今ひとつ掴めずにいた。

「えっと…………ゆうべは上手く言えなかったけど、本当に感謝してます」

「…………だから頭を下げるな。奴隷にすることじゃない」

「そうっすよ姉さん！　兄貴ってば『牡牛野郎』ってアダ名が付いてる筋肉バカっすから！　姉さん一人ここまで運んでくるとか朝飯前っすよ！」

「お前だろ、その名前広めたの」

「ういっ⁉　あ、あれぇ…？　知ってたんすか」

「…………ふふっ、仲良いね」

　口数の少ない兄貴分と口の減らない弟分。妙に噛み合わせのいい二人を見て、サフィの頬が少しだけ緩んだ。

（…………………運んだり？）

　そこで、ふと気になることがあった。

「ちなみに、『運んだ』って…………その、どんなふうに？」

「運び方か？　…………悪い、大事だったのか」

　言うやいなや、シドルクの両腕が伸びてきた。

「えっ……えっ……⁉」

　ぬうぅぅぅ……っと迫るクマのような掌（てのひら）。その威圧感に思わず目をつぶる。しかし、まぶたを開けた時、その手に捕まっていたのは自分ではなかった。

「こうだ」

　ジュニの細い胴体をひょいっと右肩に乗せている。鹿をかついで帰る狩人よろしく、効率第一の運び方だ。

（これ…………どう見ても人攫（さら）いだよね）

　シドルクが強面（こわもて）なのもあって、なかなか洒落にならない絵（え）面（づら）だ。サフィの顔も若干ひきつっている。そんな心境をどう解釈したのか、肩に担がれたままジュニは溜め息をついた。

「兄貴ぃ…………今度から女子を運ぶときは気をつけないと」

「ああ、悪かった。目立たないように脇に抱える」

「…………すいません、姉さん。あとで俺から教えときますんで」

　やがて、シドルクとジュニは仕事に出かけていった。サフィは少し時間をおいて、様子を見てから外に出ることにした。しかし、今の身なりといえば夜宴の踊り子衣装そのまま。街を出歩くには目立つし、露出が多すぎる。

　サフィは腹をくくり、世話焼き婆さんの古着を使うことにした。

　長着（アバヤ）を羽織って前合わせを閉める。幸いにも寸法は合っていて、すっぽりと肩から足首まで隠れた。ふわりとした黒髪に一枚布（タルハ）を巻き、日除けのヘッドスカーフにする。顔が目立たないように目（ま）びさしを深めにした。ちょっと不格好だが、あり合わせを着ている感じが貧家の娘っぽさを演出している。

　そろりと裏路地に出て、そこから大通りに一歩を踏み出す。

「わっ……！」

　明け方の空気が、水の匂いを運んでくる。

　灰色の瞳に、見たことのない世界が映りこんでいく。