2-9 眠れる獅子

 神事の最中さなかに〝まれびと〟を失った櫛湊村くしみなとむらから、凛汰が美月と共に脱出を果たすまでに、村人たちが勝手に供犠くぎを選ぶ可能性は、警戒していたつもりだった。

 だが、二人目の犠牲者が、またしても〝まれびと〟になろうとは――誰も予想できなかったに違いない。廊下で立ち尽くしていた美月が、顔をうつむけて二〇一号室に入ったことで、遠くで様子をうかがっていた村人たちは、歓待かんたいすべき外来者がいらいしゃの死と、ささげるべき供犠の人数が増えたことを悟ったらしい。恐怖にいろどられた喧騒けんそうが、教員寮きょういんりょうじゅうに反響した。

「ふーん。本当に死んでるんだ?」

 扉から顔を出した梗介きょうすけが、まだ上がりかまちにいた美月を無理やり追い抜き、1Kの部屋に入ってくる。梗介に道をゆずる形になった美月が、ふらついて壁にぶつかった。三隅みすみ遺体いたいの隣でかがんでいた凛汰が、抗議を込めてめつけると、梗介は素直に「ごめんねー美月ねえ」と謝ってから、室内をきょろきょろと見回した。

「うわぁ、ひどい匂いだね。あちこちにゲロが飛んでて汚いなぁ。凛汰も、踏まないように気をつけたほうがいいよ?」

「うるせえよ」

 一喝いっかつすると、梗介は舌をちろりと出して笑ってきた。凛汰が「現場に入るな。出ていけ」と言い渡しても、「それって凛汰にも言えることだよね?」と返してくる。凛汰は、ジャケットのポケットからスマホを取り出した。梗介は、相変わらず笑っている。

「スマホなんか出して、何するのさ」

「写真を撮るんだよ。因習村いんしゅうむらの住人たちが、現場を好き放題に荒らしても、あとで困らないようにな。三隅さんの死体だって、どうせ〝憑坐よりましさま〟に捧げるって名目で、すきあらば始末する魂胆こんたんだろ。お前らの思惑おもわく通りに、事が運ぶと思うなよ」

 立ち上がった凛汰は、無言になった梗介を無視して、まずは室内の中央から窓際にかけてのながめを撮影した。続いて、真横まよこの三隅にもスマホを向けて、眉をひそめる。遺体を発見した瞬間は、ほどけた髪と吐瀉物としゃぶつに気を取られていたが、異質な点はまだあった。――三隅は、トレードマークの丸眼鏡まるめがねを外している。周囲に視線を走らせると、灰皿がったローテーブルの上に、ブリッジをたたんだ眼鏡を見つけた。

「……三隅さんの死が他殺たさつなら、下ろした髪と外れた眼鏡は、犯人と争った形跡、に見えなくもなかった。でも、これは……他殺の痕跡こんせきにしては、綺麗きれいすぎるな」

 違和感を助長じょちょうするように、眼鏡の隣には見覚えのあるペンも並んでいた。美月と共に二〇一号室を訪ねた際には、置かれていなかったはずの物だ。昨日の昼下がりの教員寮で、三隅と初めて出会ったときに、美月が言っていたことを思い出す。

 ――『三隅さん、取材が大好きだから……見聞きしたことを記録することも、趣味みたいなものなんだって』

 取材道具の手帳とペンは、油彩画『楽園の系譜けいふ』にも描かれていた。しかし、目の前にあるのはペンだけだ。再び三隅の隣に屈んだ凛汰は、着衣のポケットを探ったが、何も入っていなかった。三隅が携帯けいたいしていたショルダーバッグもあらためるべく、室内をぐるりと見渡すと、こちらはすぐに見つかった。ベランダに続くき出し窓の前で、チャックが全開の状態で放り出されている。中身は遠目にも空っぽで、付近にハンカチとティッシュが落ちているくらいで、消えた手帳はおろか、財布さいふを始めとした貴重品のたぐいも見当たらない。思考を深めた凛汰は、ひとちる。

物取ものとりの犯行か? ……あり得ない。取材で櫛湊村に通っていた三隅さんは、教員寮の二〇一号室を継続的に借りる対価として、多額の金銭を支払っていた。村にとってのパトロンを殺害してまで、財布を強奪ごうだつするなんて、馬鹿げてる。それに、金が欲しいなら、稀代きだいの画家・嘉嶋礼司かしまれいじが描いた『楽園の系譜』をうばえばいい。櫛湊第三中学校には、誰でも出入りできたから、チャンスは何度もあったはずだ。まれびと信仰しんこうが理由で、三隅さんの所有物の油彩画に、手を出すわけにはいかなかった? いいや、そんな理由じゃない。村人たちは、あの絵画をにくんでいた。そもそも、〝姫依祭ひよりさい〟で〝まれびと〟が死んだ混乱に乗じて、ケチな盗みを働く人間が、今の櫛湊村にいるとは思えない……」

 窓際から視線を外すと、今度はローテーブルの隣に積まれた紙束に、明らかな異変を見つけた。櫛湊村について三隅が調べたという資料の一部に、大きなげ跡が残っている。煙草たばこ反吐へど、それから硝煙しょうえんの匂いにまどわされて、すっかり嗅覚が麻痺まひしていたが、ひとたび異臭いしゅうに注意を払えば、隠れた焦げ臭さを意識できた。焼けた資料は、ぐっしょりと濡れそぼっていて、周辺には吐瀉物も点々と落ちている。

「資料が、燃えた……そして、三隅さんが火を消した? だとしたら、なぜ燃えた? 誰かが、故意こいに火を放った? それとも、三隅さんの不注意か……?」

 凛汰は、ローテーブルを確認した。大量の煙草の吸殻すいがらは、今も灰皿でイソギンチャクの形を保っていて、床には一本たりとも落ちていない。代わりに、少し離れた所に積まれた書籍しょせきかげに、透明なオレンジ色のライターを見つけた。慎重しんちょうに近づいた凛汰は、ボストンバッグからハンカチを取り出すと、ライターにかぶせて拾い上げた。

「オイルがない……ちょうど使い切った、ってわけでもなさそうだな」

 そのとき、美月に「凛汰、来て」と呼び掛けられた。玄関から台所に移動していた美月が、かたい顔つきで手招きしてくる。すぐに向かった凛汰は、美月の足元できらめく銀色に気づき、苦虫をつぶした顔になった。

かぎ、か……。なあ、梗介。ここに落ちてる鍵は、この二〇一号室の鍵か?」

「ん? そうだよー。蛇ノ目じゃのめ家が〝まれびと〟たちに鍵を貸し出してるから、見たら判別できるよ。あ、一応言っておくけど、マスターキーはないからね。管理してた父さんが死んじゃって、在処ありかを訊きそびれたからさ」

 台所の隅にいた梗介は、どうでもよさそうに回答した。それから、小首をかしげて「あれぇ?」と言って、愉快ゆかいそうな笑い声を立てると、得意げに調理台を指さした。

「凛汰、美月ねえ、見てみなよ。面白いものを見つけちゃった」

 調理台の上には、透明な小瓶こびんが一つ置かれていた。中身はからに近かったが、何らかの植物をすり潰して、水に混ぜたと思しき物体が、小瓶の内側を汚染おせんしている。水たまりをただようアメーバのような異物の中には、かろうじて原形をとどめた葉の断片だんぺんも交ざっていて、小瓶を凝視ぎょうししていた美月が、血相けっそうを変えた。

「トリカブト……」

 引きった声を聞いた凛汰も、顔を強張こわばらせた。

「間違いないんだな?」

「うん……トリカブトの葉は、山菜さんさいのニリンソウとそっくりで、生えてる場所も同じだから、絶対に間違っちゃだめだよって、櫛湊村にしてきてすぐに、みんなに教えてもらったもん」

 美月が、震え声で言ったときだった。背後から、男の低い声が「その通りだ」と同調した。――梗介の声ではない。さっと振り返った凛汰は、いつの間にか接近していた偉丈夫いじょうぶと向き合い、絶句した。共に振り返った美月も、愕然がくぜんの表情をしている。

浅葱あさぎさん……」

「トリカブトは、猛毒もうどくのアコニチンを含有がんゆうしている。アコニチンを経口摂取けいこうせっしゅした場合の致死量ちしりょうは、二ミリグラムから六ミリグラム程度。わずかな摂取量であっても、およそ十分から二十分以内に、口唇こうしんや手足のしびれ、嘔吐おうと、腹痛、不整脈ふせいみゃく、血圧低下、痙攣けいれんなど、重篤じゅうとく中毒ちゅうどく症状を引き起こして、死亡につながった例もある。解毒げどくと治療のすべはなく、胃洗浄いせんじょう処置しょちほどこすことになるが……医者がいないこの村では、那岬町なみさきちょう搬送はんそうするまでの間に、命を落とす可能性が高いだろう。決してあやまって口にしないよう、みなには厳しく注意をうながしていた。取材で村に通われていた三隅さんも、当然知っている。……そんなものを飲めば、無事では済まないことくらい」

 無表情で説明した海棠浅葱かいどうあさぎは、紫色のはかま白衣はくえ姿で――腰の左側に、日本刀をいていた。緩いを描いた黒いさやを、白い外光が縁取ふちどっている。凛汰は、浅葱をにらみつけた。

「それ、真剣しんけんですか」

「ああ。以前の神事で用いていた神器じんぎだ」

 浅葱が冷然れいぜんと答えると、梗介が能天気な口調で「凛汰には、前に言ったよね? 浅葱さんが身体をきたえてるのは、狩猟しゅりょうじゃなくて神事のためだ、ってさ」と補足ほそくした。

「十九年前の〝姫依祭〟で、〝憑坐さま〟の御神体ごしんたい焼失しょうしつしたことがきっかけで、神事の進行が変わったことは、もう凛汰も知ってるんでしょ? 火事が起きる前の〝姫依祭〟は、もっと賑やかなお祭りで、巫女が演舞えんぶ披露ひろうするだけじゃなくて、宮司ぐうじ剣舞けんぶ奉納ほうのうしたんだって。僕が生まれる前の話だから、実際に見たことはないけどね。神事の進行が『に服する』形に変わってからは、神様にやいばを向けることを良しとしないという判断で、なくなっちゃった演目えんもくだけど、剣舞の伝統が途絶とだえても、海棠かいどう家の当主をいだ浅葱さんは、鍛錬たんれんを続けてるってわけ。……それにしても、浅葱さんってば、来るのが遅すぎるんじゃない?」

「すまなかった。美術室の騒ぎも、耳に入ってはいたんだが、楚羅そらの体調が優れなかったからな。神社から離れられない間に、宝物庫ほうもつこで用事を済ませていた」

 左手で剣のつかに触れた浅葱は、廊下に目を向けた。外れた扉のそばには、海棠楚羅かいどうそらひかえていて、凛汰の視線に気づくと、深く頭を下げてくる。服装は、早朝に出会ったときの巫女装束から、鉄納戸てつなんど色の着物姿に変わっていて、結い上げていたはずの黒髪も、右側で緩くたばねられていた。一日でやつれた女を一瞥いちべつしてから、凛汰は浅葱に向き直り、胡乱うろんな目で詰問きつもんした。

「海棠浅葱。櫛湊村のクソ共の中で、あんたはまだマトモな部類に入ると思ってたけど、期待外れだったみたいだな。神器だか何だか知らねえけど、俺から見れば物騒ぶっそうな凶器でしかない得物えものをひけらかして、あんたは何がしたいんですか? 事件現場をぎ回る〝まれびと〟という邪魔者を、それで牽制けんせいしているつもりですか?」

「……牽制、か。君の言葉通り、私が剣をたずさえる行為は、牽制だ。――ただし」

 言葉を切った浅葱は、目にも止まらぬ速さで抜刀ばっとうした。銀色の刀身とうしんが、窓から射す陽光をぬらりとまとう。しかし、紫電一閃しでんいっせんが走る先は、室内にいる凛汰ではなく――楚羅が待つ廊下だった。剣の切先きっさきを向けられた楚羅は、まゆ一つ動かさず、うれいの表情も変わらない。だが、楚羅の背後に立つ老人たちは、目に見えて顔色を青くした。

「私が牽制けんせいしている相手は、〝まれびと〟ではない。櫛湊村の住人、全員だ」

 村人たちは、大いにあわを食っていた。「浅葱さん、なぜ」「斯様かような振る舞いを、姫依ひよりさまがお許しになると思っているのか!」と騒ぎ出したが、浅葱が「口をつつしめ!」と叱声しっせいを飛ばしただけで、誰もがおののいた様子で黙り込んだ。一声ひとこえで場を支配した神主は、刀を廊下に向けたまま、滔々とうとうと言葉をつむいでいく。

「〝憑坐さま〟の寵愛ちょうあいを受けている〝まれびと〟が、二人続けて死んだとなれば、貴様きさまたちの中には必ず、邪心じゃしんを抑えきれない者が出てくるはずだ。――『昨夜の〝姫依祭ひよりさい〟直後の会合で、巫女の務めを拒否した娘を、やはり供犠くぎにするべきだ』……と。現在の〝憑坐さま〟の巫女である美月の言挙ことあげを軽視けいしして、美月をき者にしようと目論もくろむ者が、貴様らの中にいるはずだ。その不敬ふけいおろかしい考えを、ただちにじ入り、い改めなければ――私は、私の判断で、貴様らの中から供犠を選ぶことを、躊躇ためらわない」

 浅葱の精悍せいかん面立おもだちからは、優美な涼しさが消えていて、酷薄こくはくに細められた双眸そうぼうからは、烈火れっかのごとき怒りが感じ取れた。〝姫依祭〟で嘉嶋礼司かしまれいじが死亡して、続いて三隅真比人みすみまひとが死亡した舞台へ、修羅しゅらとなって上がってきた男を見つめた凛汰は、眠れる獅子ししを目覚めさせたような感慨かんがいを覚えながら、冷静に思考した。

「美月は、私が守る。村の誰にも、決して、危害を加えさせはしない」

「……。海棠浅葱。あんたは、なぜ不知火しらぬい美月を、海棠家の養女にした?」

 浅葱の演説が、止まった。日本刀のように鋭利な眼差しが、廊下から室内へ、村人から〝まれびと〟へ推移すいいする。武力行使ぶりょくこうしを許せば勝ち目はなくとも、交差した視線の鍔迫つばぜり合いなら、望むところだ。凛汰は、以前から怪しんでいた疑惑を追及した。

「昨日の〝姫依祭〟で、親父の死体が見つかった直後に、燃え方が激しくなった木船きぶねから、身体を張って美月を助け出したのは、浅葱さんだ。言い方を変えれば、美月を助けようとする村人は、浅葱さんしかいなかった。この村の連中は、代わりが利く美月よりも、巫女の適性てきせいを持つ楚羅さんのほうが大事だからな」

 廊下からこちらをのぞいていた村人たちが、目を逸らしていく。浅葱は、微動だにしなかった。心の内をおくびにも出さない浅葱を、美月が戸惑いの表情で見つめている。

「俺は、あんたが親父殺しに関わっていても、今のところは美月に危害を加える気がないらしい、という一点においてのみ、あんたを危険視きけんししていなかった。――だからこそ、気になるんだよ。あんたの美月に対する執着しゅうちゃくは、普通じゃない。養子に迎え入れて一年程度の娘のために、刀まで持ち出して守るのは、たとえ愛情が理由だとしても、俺は異常だと思ってる。もし、あんたの行為と感情が、異常ではなく、正常なのだとしたら――あんたは、美月のことを、巫女って肩書かたがき生贄いけにえとして、海棠家に『仕入れた』わけじゃない。天涯孤独てんがいこどくになった美月は、東京から櫛湊村に連れてこられた。楚羅さんの後釜あとがまが欲しいって理由だけなら、わざわざ東京まで足をばさずに、近隣の施設を当たればいい。それをしなかったということは――海棠家の養女にする娘は、誰でもよかったわけじゃない。不知火しらぬい美月でなくてはならない理由が、何かある、ということだ。少なくとも、あんたには、な」

 浅葱の眼光が、するどさを増した。初対面では温厚で、人柄ひとがらの良さが顔に出ていたはずの男が、初めて凛汰に敵意をいだいたのだと、直感した。激昂げっこうを理性でおさえているのだと分かる声が、一人の人間が死んだ部屋に、重く響く。

「この感情が、愛情でなくて、何だというのか……貴様には、分からないだろう」

 浅葱が、刀をさやに収めた。すずやかな残響ざんきょうが消えないうちに、廊下へ出ていく和装の男を、引き留める者は誰もいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る