2-13 巫女として

 御山おやまふもと海棠かいどう家は、異様な静けさにつつまれていた。ハナカイドウの花びらが、はらはらと雪のように家屋の玄関先を舞うながめは、この村が廃村はいそんで、とうに人のいとなみが途絶とだえているかのような錯覚さっかくもたらした。

 息を切らして下山げざんした一同の中で、誰よりも早く海棠家に到着したのは浅葱あさぎだった。参道さんどうの坂道を駆け下りた偉丈夫いじょうぶ俊足しゅんそくで、鎮守ちんじゅの森を突っ切る近道を選んだ凛汰と美月の二人よりも、わずかながら早く鳥居とりいの前を通過した。浅葱が近道を使わなかったのは、和装わそうである上に帯刀たいとうしているからだろう。鬱蒼うっそうとした森の中は、び放題の下草に足を取られやすく、人が長年に渡って踏み固めてきたと思しき道を外れたなら、冷気を感じるほど日が差さない暗がりに、足をからめ取られても不思議ではなかった。

 玄関の引き戸を開け放った浅葱を追って、凛汰と美月も海棠かいどう家に向かった。間で振り返ると、少し距離を空けて梗介きょうすけ大柴おおしば、老人たちの順に、続々と海棠家を目指して走ってくる。視線を前に戻せば、三和土たたき雪駄せったを脱ぎ散らかした浅葱が、廊下を左手に進む後ろ姿が垣間かいま見えた。

 凛汰もすぐにあとを追い、縁側えんがわに面したふすまを抜けて、海老茶えびちゃ色のテーブルを中央にえた和室に踏み込み、辺りを見回して――襖を取り払った隣室りんしつに、浅葱がまと白衣はくえと紫色のはかまを見つけた。一続ひとつづきの大広間と化した宴会場えんかいじょうで、立ち尽くす背中の向こうに拡がった地獄に気づき、凛汰も声を失ってから、歯噛はがみした。

 ――ぎい、となわきしる音がする。縁側の窓が開いているのか、春風が大広間を吹き抜けて、老女ろうじょうめきに似た音が、古い家屋に響いていた。屋内にさそい込まれたハナカイドウの花びらが、畳の上をすべっていき、宙に浮いた爪先つまさきの下を通り過ぎる。二列の座卓ざたくと座布団にはさまれた畳の道に、丸椅子が横倒よこだおしになっていた。頭上をつらぬく太いはりには、縄がわえられていて、鉄納戸てつなんど色の着物姿の女が、だらん、とぶら下がっている。

 海棠楚羅そらのまとめ髪はほどけていて、みぎわに打ち上げられた海藻かいそうのごとき毛髪もうはつすだれが、顔周りをまばらにおおっていた。今にも眼窩がんかからこぼれ落ちそうな両の目玉は、燃える赤色に血走ちばしっていて、縄のっかでられた細い首は、あらぬ方向にれていた。

 変わり果てた妻の姿を見上げていた浅葱は、ようやく止まっていた時が動き出したかのように「――楚羅そらっ、楚羅ぁ!」と絶叫して駆け寄った。同時に、凛汰より若干じゃっかんの遅れを取っていた美月も到着して、首をくくった養母ようぼに気づき、へたんと腰を抜かした。

「……楚羅さん……どうして……?」

 美月がささやあいだにも、浅葱は俊敏しゅんびんな動きで丸椅子を起こして上に乗り、楚羅の弛緩しかんした身体をかかえながら、縄の輪から首を抜こうとしている。凛汰が手を貸そうと一歩踏み出せば、即座そくざ裂帛れっぱく気迫きはくで振り向かれた。片手で妻の身体を支えたまま、もう片方の手を腰のかたなに伸ばしている。夫婦で過ごす最後の時を邪魔すれば、大広間の遺体がもう一人分増えそうだ。譲歩じょうほした凛汰が立ち止まると、隣から「ずるいなぁ」と声が聞こえた。いつの間にか梗介きょうすけがそばにいて、楚羅の遺体を下ろす作業に戻った浅葱へ、皮肉ひにくげな眼差まなざしを送っている。凛汰は、胡乱うろんな目で言ってやった。

「ずるいって、どういう意味だ?」

「……だってさ、僕は帆乃花ほのか検死けんしみとめたのに、浅葱さんは拒否きょひできるなんて、ずるいじゃん。暴力って、偉大いだいなんだね。僕も、包丁とか振り回せばよかったかな?」

 へらっと梗介は笑ったが、声にはすごみが宿やどっている。凛汰が返事を考えていると、浅葱の押し殺した嗚咽おえつが聞こえた。首吊くびつりの縄から解放された楚羅の遺体は、丸椅子の隣に下ろされていた。畳に膝をついた浅葱が、妻のむくろを抱きしめている。小刻みに震える頑健がんけんな背中を、美月が茫然ぼうぜんの顔で見つめていた。視線をたどった凛汰は、ハッと気づく。――楚羅を畳に横たえた浅葱の右手は、くしゃくしゃの紙を握っていた。

「浅葱さん、それは?」

「……楚羅の、遺書いしょだ。着物のたもとに、入っていた」

「俺にも、読ませてください。それくらいは、認めてくれますよね」

 切りせられる覚悟で歩を進めると、浅葱は凛汰の要求をんだのか、ゆらりと立ち上がって振り向いた。外光に白々と照らされた目尻に、涙のきらめきを残した顔のまま、美月の存在を気にする素振りを見せつつも、凛汰の元まで戻ってくる。差し出された遺書を受け取った凛汰は、墨痕ぼっこん鮮やかな筆致ひっちで『遺書』と書かれた封筒と、一緒くたに握り潰されていた一筆箋いっぴつせんの内容を確認した。

「……『先代の巫女みことして、我が身を〝憑坐よりましさま〟にささげます』……」

 そこまで読み上げてから、眉をひそめる。無言で最後まで読み終えた凛汰は、一筆箋を封筒に戻そうとしたが、横合よこあいから素早く伸びてきた手が、さっと遺書をかすめ取った。梗介は、一筆箋をしげしげと眺めると、凛汰が伏せた続きを朗読ろうどくした。

「――『供犠くぎとして〝憑坐さま〟を慰撫いぶする私は、もう巫女の務めを果たせません。皆さん、どうか、後生ごしょうだから、美月を大切にしてください。私が〝憑坐さま〟の元へされたなら、〝姫依祭ひよりさい〟で資格を得た巫女は、もうあの子ただ一人。村の命運も、あなたたちの命も、全ては〝憑坐さま〟のおおせのままに』……あーあ。楚羅さん、だから自殺しちゃったんだ。村のジジババ共が、いつまでも楚羅さんに〝憑坐さま〟の巫女の役割を求め続けて、あまりにも美月ねえを大事にしないから。自分が死ねば、巫女の代わりがかなくなって、みんなは美月ねえを大切にするしかないもんね? 〝憑坐さま〟の代弁者だいべんしゃであり、〝憑坐さま〟そのものである巫女を、櫛湊村くしみなとむらからやしたら……それこそ、〝憑坐さま〟のおいかりに触れるかもしれないもんね……?」

 美月の目が、大きく見開かれた。れる瞳が、養母の亡骸なきがらを真っ直ぐにとらえる。目尻に滲んだ涙の玉が、頬を伝い落ちたとき、背後がにわかに騒がしくなった。凛汰が横目で様子をうかがうと、海棠家の居間に老人たちがつどっていた。顔色の悪さは、今までに死体を見つけたときの比ではない。首を吊った先代の巫女の姿を見た上に、梗介が読み上げた遺書の内容も聞いていたようだ。美月のように腰を抜かす者もいれば、しわだらけの手を一心不乱いっしんふらんにすり合わせて、深くこうべを垂れる者もいる。

「よりによって、斯様かような始末のつけ方を、お選びになるとは……」

姫依ひよりさまのたたりじゃ……」

 凛汰は、梗介の手から遺書をうばい返してから、老人たちをめつけた。

「お前らは、たびたび『姫依ひよりさま』って口にしてるよな。お前らにとって、楚羅さんの先代の巫女にあたる海棠姫依は、そんなにも特別な存在なのか?」

 村人たちは、楚羅の縊死いしもたらした絶望がよほど深いのか、真っ青な顔で黙りこくっている。梗介に視線を転じると、薄暗い微苦笑で「僕から説明してあげるよ」と言ってきた。遺書の朗読で美月を傷つけた責任を、多少は自覚しているようだ。

「楚羅さんは、他所よそから海棠家に嫁入りしたって、教員寮きょういんりょうで聞いたでしょ? 楚羅さんの実家は、蛇ノ目じゃのめ家の遠縁とおえんにあたる血筋なんだ。十九年前の〝姫依祭〟後に、当時の海棠家の宮司ぐうじと巫女の夫婦、それに長女の姫依さまが亡くなって、あと二人いた養女たちも死んだことで、海棠家の生存者が、婿入むこいりしたばかりの浅葱さんだけになったから、海棠家を補佐ほさする蛇ノ目家が、浅葱さんの新しいお嫁さんを探したんだよ」

「へえ。海棠姫依の妹に当たる海棠睡依すいは、行方不明ってうわさも聞いてるけど、すえの妹の養女に関しては、全会一致で死亡扱いなんだな。死因しいんは?」

「知らないよ? 僕が生まれてない頃の話なんだから」

「しらばっくれるなよ。教員寮でも、そこのジジイ共が『末の妹と違って、あの娘の死体は、誰も見ていない』って口をすべらせてたことを、俺は忘れてないぜ」

「知らないったら。しつこいなぁ。くまにでも食べられたんじゃない? そういう事件があったって話なら聞いてるよ? そんなことより、凛汰は楚羅さんと姫依ひよりさまの話を知りたいんでしょ? 楚羅さんと浅葱さんを引き合わせたのは、僕の父さんだって聞いてるよ。村人のみんなも、楚羅さんが村に来ることを大歓迎だいかんげいしたんだってさ」

「で、その話の一体どこに、海棠姫依ひよりおそれる理由があるんだ?」

 凛汰が追及すると、腰を抜かしていた老婆ろうばが、突然に泣きくずれた。「お許しください……〝憑坐よりましさま〟!」と一人が叫べば、別の老翁が「咎人とがびとたちにさばきをあたえても、姫依さまと先代の海棠家夫婦が御霊みたまを差し出しても、まだ足りぬとおっしゃるのか!」と、血を吐くような声でうったえる。「どうすれば、私たちの贖罪しょくざいは届くのでしょうか!」と口々に声を上げる村人たちに、凛汰は改めて問いかけた。

「海棠姫依ひよりが、御霊を差し出した? 海棠姫依は、自殺なのか? 今度こそ、答えてもらうぜ。海棠姫依は、なぜ死んだ?」

 村人たちは、もう凛汰にさからわなかった。老翁の一人が「……姫依さまは、自ら進んで亡くなられたのさ」と呟けば、他の村人たちもせきを切ったように語り出す。

「十九年前の〝姫依祭ひよりさい〟で……〝まれびと〟が亡くなってから、わしたちは〝憑坐さま〟の巫女を継がれた姫依さまのおげに従って、〝まれびと〟を手に掛けた二人の養女を追い駆けた……」

「されど、末の妹のほうは、那岬町なみさきちょうに向かう林道りんどうで死体を見つけたものの、次女に当たる養女のほうは、神域の断崖絶壁だんがいぜっぺきから飛び降りて、行方不明に……」

「あの高さから、しかも嵐で荒れ狂う海に落ちて、生きていられるわけがない……私たちはそう言ったけれど、姫依さまは疑っていたのよ。海棠睡依すいが、まだ生きているかもしれないことを!」

「〝姫依祭〟で〝まれびと〟を死なせた我々が、〝憑坐さま〟に捧げなくてはならない供犠くぎの数は、二人……もし、あの娘が生きているなら、末の妹に加えて、あと一人、櫛湊村の住人の中から、供犠を選ばなくてはならなかった……」

「儂らが供犠を選びあぐねている間にも、いかれる〝憑坐よりましさま〟は、次々と村人を間引まびいていった……あの頃、何人の村人が死んだのか、もう儂は覚えておらん……」

「そんな悲劇の連鎖を断ち切るために、姫依さまはご決断なさったのです。〝憑坐さま〟の寵愛ちょうあいを受けた御自おんみずからを供犠に選び、〝憑坐さま〟の元へかれることを。この海棠家で、はりに縄を掛けて、首をくくって……まさに、今の楚羅さまのように!」

 村人たちの視線が、大広間の楚羅に殺到さっとうする。白い首にきざまれた索状痕さくじょうこんが、凛汰の位置からでも目視もくしできた。

「そういえば、海棠家に嫁入りした楚羅さまのかんばせは、姫依さまと瓜二つだった……姫依さまと似た娘を、蛇ノ目じゃのめ家が見つけてきたにせよ、最期さいごの姿まで同じだなんて、運命だったのかねぇ……」

「いいや、呪いさ。あるいは、むくいか……姫依さまの自害じがいという、とうと自己犠牲じこぎせい代償だいしょうに、先代の海棠家当主は、気がちがってしまったのだから……錯乱さくらん状態におちいって、先々代の巫女を務められた姫依さまの実母を、刺殺しさつしようとして……結果として、お二人とも、姫依さまに続いて〝憑坐さま〟に命を捧げる羽目はめになったのは、あの罪人の娘を取り逃がした私たちの責任さ……私たちの罪なのさ……」

 嵐のような告解こっかいを聞きながら、凛汰は教員寮で楚羅と相対あいたいした際に、楚羅の義理ぎりの両親の最期について、聞き出した台詞せりふを振り返っていた。

 ――『ええ、亡くなりました。亡くなったのよ。十九年前の〝姫依祭〟後に、姫依さまが非業の死を遂げられてから、海棠家の一室で。という、壮絶そうぜつな最期だったと伝えられています』

「……なるほどな。十九年前の〝姫依祭〟から数日後に、海棠姫依ひより首吊くびつり自殺をした。その所為で、海棠家の当主が発狂して、〝憑坐さま〟の巫女の資格を持つ妻もろとも死亡し、櫛湊村くしみなとむらの巫女がえた……生きびたお前らは、海棠姫依ひより恩義おんぎを感じていると同時に、恐れてもいるってわけか。海棠姫依が自殺したことで、命拾いのちびろいした奴もいれば、海棠家の先代当主夫婦のように、死んだ人間もいるわけだからな。今この村で起きていることが、十九年前に死んだ奴らのたたりなら、次の供犠こそはお前らの番かもな?」

 話を整理した凛汰が吐き捨てても、もはや村人たちの耳には入っていないようで、大広間の遺体に手を合わせながら、身勝手な懺悔ざんげを続けている。沈黙していた梗介は、「僕が説明するまでもなかったね」とだけうそぶいて、台所のほうへ歩いていった。凛汰も、美月の元へ戻ろうとして――息をめた。

 老人たちの向こうから、ちょうど大柴誠護おおしばせいごが現れたところだった。楚羅の首吊り死体に驚いたのか、顔面蒼白がんめんそうはくになっている。それから、大広間に入ったところで座り込んだままの美月に気づき、気遣わしげな顔で近づいた。

「美月ちゃん、大丈夫かい?」

 伸ばされた男の手が、美月に届く前に――二人の間に割り込んだ凛汰は、大柴の手を全力で叩き落とした。バチン! と派手はでに鳴った残響ざんきょうが、おのれの低い声と重なった。

さわるな」

 じん、と手のひらが熱を持ち、不慣ふなれな暴力でにぶしびれる。まだ泣いていた美月が、驚きの面持おももちで凛汰を見上げた。大柴も、何が起こったのか分かっていない唖然あぜんの顔で、凛汰をじっと凝視ぎょうししている。凛汰は、傲然ごうぜんと大柴を見返した。

「このまま座らせてやれよ。美月が、身近な人間の死体を見るのが、昨日と今日だけで何回目だと思ってるんだ……?」

「ああ……うん、そうだね。配慮はいりょが足りなかったみたいだ」

 微かにふるえた声で答えた大柴は、凛汰からぎこちなく顔を背けた。表情がうかがいづらくなった教師の男へ、凛汰は声を低くしたまま、言葉を選んで話し掛ける。

「あんた、優しいんだな」

 凛汰の言葉が意外だったのか、大柴は不思議そうにこちらを見た。表情が再び観察しやすくなったところで、凛汰が「親父おやじの油彩画『楽園の系譜けいふ』で、ひどいかれ方をしてただろ。その所為で、教員寮で寝込んだって聞いたぜ。それに、梗介からもキツく当たられてるのに、普通に接してるように見えるから」と言ってやると、大柴は合点がてんがいったのか、気弱そうに「ああ」と言って、垂れ目を悲しげに伏せた。

嘉嶋かしま先生が、僕をあんなふうに描いたことは、もちろんショックだったよ。理由が分からなかったし、実はきらわれてたのかもしれないって、すごく気になったし……でもね、嘉嶋先生が美術の授業を受け持ってくださったことに、僕は心から感謝しているんだ。僕から美術を教わるよりも、著名ちょめいな画家の先生から教わるほうが、生徒にとってためになるから……梗介くんが僕をかたきにしていることだって、分かっているさ。それでも僕には、生徒たちのことを誰よりも大切に思っている自負じふがある。僕を嫌っても構わないから、学校でたくさんのことを勉強して、すこやかに成長してほしいって……願っていたのに。帆乃花ちゃんが、あんなことになるなんて……」

「……。お前には、他にも訊きたいことがある。美月が櫛湊第三くしみなとだいさん中学校に通っていた頃の生徒数は、下級生の双子ふたごを合わせて三人だよな。授業は、同じ教室でやってたのか?」

「え? うん、その通りだよ。教材は、学年ごとに分けているけどね」

「美月が中三だった頃、教室には三人の生徒がそろっていた。間違いないな?」

「そうだけど……なんで、そんなことを訊くのかな? あと、いくら〝まれびと〟でも、僕のことを『あんた』とか『お前』って呼ぶのは、やめてほしいなぁ……」

「次の質問だ。昨日、俺とお前が初めて会った昼下がりに、帆乃花ほのか補習ほしゅうで学校に来てたな。そのときの帆乃花に、不審ふしんな様子はなかったか?」

 態度を改めない凛汰に、大柴はもの言いたげな顔を見せたが、やがて首をひねって「そういえば、あのときの帆乃花ちゃんは、様子が変だったな」と証言した。

「補習を始めてから、五分もしないうちに、教室を出ていったんだよ。『早く〝姫依祭〟の準備に行きたいから、今日の補習はなしにして』って言われてさ」

 大柴の台詞せりふに、美月が反応を示した。冷静さを少し取り戻した顔で、「帆乃花ちゃんが、本当にそう言ったんですか?」と訊いている。大柴は、美月に話し掛けられてホッとしたのか、「うん。間違いないよ」とりのある声で肯定こうていした。凛汰は、大柴に問いただした。

「そもそも帆乃花は、補習ほしゅうを受けないとまずいくらいに、成績が悪かったのか?」

「まあ、ね……日中の授業をちゃんと聞いて、家でも予習と復習を頑張れば、那岬町なみさきちょうの高校には、ギリギリ合格できたんじゃないかな。でも、彼女が志望していた東京の高校に行く成績には、とても届かなかったよ。これからの挽回ばんかいも、絶望的だったと思う」

「補習の頻度ひんどは? あとで美月にも確認するから、嘘をついてもバレるからな」

「えっ? えっと……毎週……いや、ほとんど毎日……かな。あの……僕が嘘をつく意味なんて、何もないと思うんだけどなぁ……」

「……よく分かった。大柴誠護。あんたは大広間に入ってくるな。美月のことも、俺が面倒を見るから、お前の手助けは一切いっさい不要だ。これは〝まれびと〟としての命令だ」

 そう言い渡してから、凛汰は楚羅の遺体に少しだけでも近づくべく、きびすを返して歩き出す。しかし、大柴は「凛汰くん、現場に入っちゃだめだよ」と言って、凛汰の左肩に手を置いてきた。不快感ふかいかんを隠さずに手を振り払うと、今度は右腕をつかむ者がいた。――梗介だ。ニタニタと気味悪く笑いながら、死した姉と同じ顔を近づけてくる。

「夫婦水入みずいらずの邪魔をしないで、見守ってあげなよ、凛汰」

 掴まれた右腕に、過剰かじょうな力が込められていく。凛汰が画家の卵だと知った上で、狼藉ろうぜきはたらいているのだとすぐに分かった。あるいは、先ほど美月に検死けんしをさせたことで、帆乃花との別れに水をした仕返しだろうか。気づいた美月が立ち上がり、「梗介くん、やめて」と言って学ランのすそを引っ張ると、梗介は素直に従ったが、不敵ふてきな笑みは変わらなかった。腹の底が読めない少年を一瞥いちべつした凛汰は、せめてもの抵抗とばかりに、その場から楚羅の遺体へ目をらす。

 畳に寝かされた女の遺体は、手前に座った浅葱の背中に隠れていて、もう顔が見えなかった。

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