2-12 検死

 蛇ノ目帆乃花じゃのめほのか遺体いたいは、燃えた木船きぶね跡地あとち付近で見つかった。

 神事をり行う神域しんいきの、かみさびた鳥居とりいの向こう側で、此方こちら彼方あちら境目さかいめを越えた先の断崖絶壁だんがいぜっぺきに、一糸纏いっしまとわぬ子どもの白い身体が、ぼう、と浮かび上がって見える。仰向あおむけで蒼穹そうきゅうと向き合う裸身らしんには、ハナカイドウの花びらが降り積もっていた。

 いな――淡紅色たんこうしょくよりもいそれは、ハナカイドウの花びらではなかった。岩肌いわはだに投げ出された両腕から、未成熟な乳房ちぶさをさらした胴体に、素足すあし爪先つまさきいたるまで、全身におよんだ打撲だぼく痕が、十四歳の少女の肢体したいを、まだらの赤紫色に染めていた。茫然ぼうぜんの表情で時を止めた顔だけは、嘘のように綺麗なままだった。ショートボブの黒髪が、さらさらと風に揺れている。何の感情もともさなくなった瞳が、空色を無機質むきしつうつしていた。

帆乃花ほのかぁあ!」

 絶叫と紙一重かみひとえの呼び声を上げた梗介きょうすけが、双子の片割かたわれの元へ走っていく。新たな犠牲者を確認するために、教員寮きょういんりょうから神域の御山おやまに移動した集団の中から、我先われさきにと駆け出した少年を追って、凛汰も丹色にいろの鳥居をくぐったが、足音を聞きつけた梗介が「帆乃花に近づくな!」とたけった。そして、ぴくりとも動かない姉のそばで、膝から地面に崩れ落ちる。「帆乃花、帆乃花ぁ」と悲痛ひつうな声で呼び掛けながら、き出しの両腕を強く揺さぶり、傷だらけの姉におおいかぶさると、人目をはばからず号哭ごうこくしている。事件現場を蹂躙じゅうりんする遺族を、凛汰は鋭く怒鳴りつけた。

「動くな、梗介! それ以上、遺体に触るな!」

「うるさい!」

 泣き崩れていた梗介が、赤い目で振り返った。瞳で爛々らんらんと光る怨嗟えんさの念が、邪魔者を射殺いころさんばかりの激しさで向けられる。そのとき、崖に到着した大柴おおしばが、「凛汰くん、梗介くんの気持ちをんでくれないか」と言って、梗介の肩を持ち始めた。

大目おおめに見てあげてほしい。家族なのに近寄れないなんて、あんまりじゃないか」

「あんた、正気か? 自分が何を言ってるのか、分かってるのかっ?」

「君こそ、冷たいじゃないか。悲しむことさえ、僕たちには許されないのかい? 僕だって……大切な教え子が、こんなことになって、つらいんだよ……」

 垂れ目を痛ましげに細めた大柴は、帆乃花に近づこうとした。共にここまで来た老人たちは、鎮守ちんじゅの森に沿った参道から一歩も動かず、梗介と大柴に苦言をていさない。それどころか、「〝憑坐よりましさま〟が、一人目の供犠くぎをお選びになった」と畏怖いふりつかれた声でささやいて、中には「あの跳ねっ返りの娘なら、選ぶ手間が省けたわ」と安堵あんどの声をらす者もいた。耳障みみざわりな台詞せりふを無視した凛汰は、冷徹れいてつな声を作って宣告せんこくした。

蛇ノ目梗介じゃのめきょうすけ大柴誠護おおしばせいご。これ以上、事件現場を荒らすなら――俺は、お前たち二人を、蛇ノ目帆乃花ほのか殺しの筆頭ひっとう容疑者と見做みなす」

 大柴は、怖気おじけづいた様子で立ち止まった。うずくまった梗介は、微動びどうだにしない。帆乃花の遺体にすがりついたまま、くぐもった怒声で「来るな、クソ教師」と言って、泣き濡れた顔をわずかに上げると、学ランにそでを通した腕のかげから、大柴をけわしくめつけた。

「帆乃花の身体を見るな……それ以上近づいたら、殺す……二人目の供犠は、お前を〝憑坐よりましさま〟にささげてやる……凛汰も、早く失せなよ……失せろって言ってるじゃん……殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……」

 呪詛じゅそを吐く梗介の元に、別の足音が近づいた。凛汰の前に出て「梗介」とおごそかに呼んだ人物は、浅葱あさぎだった。腰にいた日本刀のさやが、日差しを緩く反射している。

「〝まれびと〟の言葉に従って、帆乃花から離れなさい」

「嫌だ! ふざけんな! 浅葱さんも、帆乃花に近づくなっ!」

 浅葱の台詞せりふに、梗介は即座にみついた。手負ておいのけもののような荒々しさで、浅葱に敵意を向けている。海棠かいどう家と蛇ノ目家の当主が睨み合う様を、大柴が困惑の顔で見比べていた。遠巻きに見ている村人たちも、浅葱が発言したことで、気まずそうに黙っている。そのとき、殺伐さつばつと張り詰めた空気の流れを、玲瓏れいろうな声で変えた者がいた。

「私が、帆乃花ちゃんの遺体を調べる」

 神域じゅうの視線が、名乗りを上げた少女に集中した。美月は、崖の始まりに位置する鳥居の手前で、悲哀と覚悟がり交ざった顔で立っている。梗介の敵意の行き先が、ゆっくりと美月へ移動した。ただ、瞳でたぎっていた激情が、先ほどよりもやわらいでいるような気がしたのは、美月が続けた言葉が理由に違いなかった。

「梗介くんが、浅葱さんたちを帆乃花ちゃんに近づけたくないのは、皆さんが男の人だからでしょ? 帆乃花ちゃんの身体を、男の人に調べさせたくないんだよね。でも、私は……女だから。お願い、梗介くん。私に、帆乃花ちゃんを調べさせて。梗介くんだって、帆乃花ちゃんをこんなふうにした犯人を、見つけたいでしょ……?」

 美月の声は、かすれていた。両目にも、薄く涙が溜まっている。だが、表情はりんとしていて、恐怖を超越する決意が感じられた。無言の梗介は、表情を欠落けつらくさせた顔で、じっと美月を見つめてから、やがてき物が落ちたように、こくりと殊勝しゅしょうに頷いた。

「……美月ねえなら、いいよ。それに、蛇ノ目家の僕は、海棠家で〝憑坐さま〟の巫女みこいだ美月ねえには、さからえないもんね。〝憑坐さま〟のおおせのままに、美月ねえに従うしかないんだ。……誰か、軍手を持ってない? こういうのってさ、素手すでじゃないほうがいいんでしょ? 美月ねえに貸してあげて」

 梗介に話し掛けられた村人たちは、びくりと身をすくませていたが、美月の検死けんし異存いぞんはないようで、一人の老翁ろうおうが農作業用と思しき軍手を持ってきた。一番近くにいた凛汰が受け取ると、老翁は気味悪そうに手を引っ込めて、急ぎ足で帰っていく。死んだ村娘むらむすめに対する哀悼あいとうの気持ちは、やはり持ち合わせていないらしい。非道ひどうな対応を悲しそうに見ていた美月が、まだ帆乃花から離れない梗介に向き直った。

「ありがとう、梗介くん。……大柴先生、もっと下がってください。帆乃花ちゃんの身体を見ないで」

「わ、分かったよ……」

 大柴は、後ろ髪を引かれたような顔で、鳥居の向こうまで後退する。浅葱は、美月に気遣わしげな目を向けたが、何も言わずに大柴の後に続いた。そんな養父ようふの背中を、美月は物憂ものうげな目で見送ってから、最後に凛汰と目を合わせた。

「凛汰も、それでいいよね?」

「ああ」

 頷いた凛汰は、美月に軍手を手渡した。

「美月。帆乃花の検死を、頼んだ。細かい指示は、俺が遠くから出す」

 そう言って、凛汰も鳥居の向こうまで離れると、ようやく梗介も立ち上がった。帆乃花から数歩だけ距離を取って、美月に場所をゆずっている。首肯しゅこうした美月は、場の全員の注目を浴びながら、潮風しおかぜが吹きつける崖を歩き、帆乃花の遺体の隣で屈んだ。そして、両手を合わせると、まぶたを閉じて、こうべを垂れた。波の音が、大きく聞こえる。

「帆乃花ちゃん、ごめんね。私に身体を触られるなんて、嫌だよね。でも……お願い。調べさせて。帆乃花ちゃんを殺した人を、必ず見つけるから」

 おがみ終えた美月は、表情をキッと引き締めると、両手に軍手をはめた。「始めます」と宣言してから、帆乃花の遺体を観察し始めて、身体に触れる前に、意表いひょうかれた顔になる。それから、思案げな眼差しで言った。

「土の匂いがする……それに、ちょっと甘い……バニラみたいな……煙草たばこの匂い」

「煙草? 美月、近くに吸殻すいがらは落ちてないか?」

「ないみたい……でも、帆乃花ちゃんの髪にまぎれてる、これ……煙草の灰かも」

 美月は、己の長い髪を耳に掛けて、毛先が遺体に触れないように整えてから、顔を帆乃花の側頭部に少し寄せた。「やっぱり、煙草の匂いがする」と繰り返した表情からは、遠目にも動揺どうよううかがえた。凛汰は、村人たちを振り返った。

「この村に、喫煙者きつえんしゃはいるか?」

 問い掛けても返事はなかったが、来訪神らいほうしんの問いかけは無下むげにできないからか、やがて一人の老婆ろうばが「嗜好品しこうひんを買う余裕なんか、この村にはないよ」と吐き捨てた。念のため、凛汰は梗介にも確認した。

「帆乃花が、こっそり煙草を吸っていた可能性は?」

「ゼロに決まってるじゃん。そもそも、手に入らない物を吸えるわけないよ」

 梗介が鬱陶うっとうしそうに答えると、大柴も「帆乃花ちゃんは、煙草なんて吸わないよ」と同調して、蛇ノ目きょうだいの味方をした。

「ああ見えて、純粋で真面目な子なんだ。彼女を見てきた教師の僕が、保証するよ」

「……純粋で真面目な子、か」

 台詞せりふ復唱ふくしょうした凛汰は、大柴を睨みつけてから、思考する。梗介と大柴の証言が正しいなら、帆乃花自身が煙草を吸った可能性は低いだろう。亡くなった嘉嶋礼司かしまれいじも、アトリエの壁が汚れるという理由から、煙草は決して吸わなかった。

 すなわち、櫛湊村くしみなとむらの喫煙者は――ただ一人だけ、ということになる。美月が告げた香りの特徴も、凛汰が教員寮でいだものと一致した。符号ふごうの意味をはかりかねていると、美月が小さな悲鳴を上げたので、すぐに「どうした」と声を掛けた。

「帆乃花ちゃんの髪……煙草の灰だけじゃなくて、少しだけど、土も絡んでる。それに……血で髪が固まって、たばになってる箇所がある……」

 美月は、先ほどよりも身体を屈めて、帆乃花の後頭部を覗き込んでいる。凛汰も目をらしたが、血の色は黒髪に紛れて見えなかった。頭部が接している岩肌いわはだにも、血だまりはおろか、一滴いってき血痕けっこんさえ存在しない。美月は、意を決した様子で手を伸ばして、帆乃花の髪をき分けると、ハッとした顔をしてから、苦悶くもんの表情になった。

「ひどい怪我……血と髪で見えづらいけど、どこかでぶつけたか、何かかたいものでなぐられたみたいな痕、なのかな……」

「……乱暴された形跡は? 見て分かる範囲で構わないから、教えてくれ」

「……分かんない……あったとしても、こんなにあざだらけじゃ……でも、たぶん、ないと思う……警察の人が調べないと、確かなことは言えないけど……」

 美月が、涙声なみだごえで答えた。梗介は、能面のうめんのような無表情で、凛汰の顔をながめてから、口のだけで笑ってきた。殺意が空気を伝ったのか、口さがない村人たちは、先ほどから黙りこくっている。まるで儀式のような厳粛げんしゅくさに包まれた神域で、美月は涙を振り落とすようにまばたきしてから、後輩こうはいの肌に散ったおびただしい数のあざに視線を転じた。

「痣は、背中にもあるのかな。……帆乃花ちゃん、ごめんね。ちょっと動かすね」

 帆乃花をかかえ起こそうとした美月は、遺体の重みに難儀なんぎしているようだったが、なんとか上体を浮かせることに成功した。十四歳のせた背中が、あらわになる。うなじに黒髪の毛先が掛かった遺体の、背面はいめんは――ほぼ全域が、赤紫色に汚染されていた。

「美月。帆乃花の背中を、指圧しあつしろ。肌が変色している場所なら、どこでもいい」

「え? う、うん」

 軍手の指先が、痛々しい背中を、ぐっと押した。「これでいい?」と自信なさそうに訊いてきた美月が、遺体の背中から手をどける。肌の色は、赤紫色のままだった。凛汰が頷いて見せたとき、帆乃花の遺体と凛汰の間に、梗介が真顔で割り込んだ。

「僕は、見るなって言ったよね? 凛汰、死にたいの……?」

 悠々ゆうゆうたる恫喝どうかつの声が響き渡ると、教え子の心情をおもんぱかってか、大柴も「美月ちゃん。遺体に、そんなに触っちゃだめだ。そうだろう? 凛汰くん」と言ってきた。最初に凛汰が持ち出した理屈りくつで止められては、これ以上の捜査そうさは難しい。食い下がってもよかったが、凛汰は「ああ」と答えて従った。すると、検死が一段落いちだんらくして油断したのか、村人の誰かが「きっと〝憑坐さま〟は、あの娘に、親の不始末のけじめをつけさせたのだろう」と口をすべらせたので、さっと振り向いて詰問きつもんした。

「親の不始末って、どういうことだ?」

 村人たちは、一斉に口をつぐんだ。〝まれびと〟の特権で吐かせることを考えたが、生前の三隅真比人みすみまひとから、あまり権威けんいかさに着ないほうがいいと忠告ちゅうこくされたことを思い出す。ポーカーフェイスで次の台詞せりふを考えていると、崖から美月が「私も、そのお話を聞きたいです」と援護射撃えんごしゃげきをしてくれた。

「帆乃花ちゃんと梗介くんのお父さんは、私が櫛湊村に来る少し前に、亡くなられたと聞いています。それ以上のことは、何も知らされていません。でも、二人のお父さんが、事件と関わっている可能性がゼロじゃないなら……犯人を見つけるために、私たちも知るべきだと思います」

 遺体に寄り添う美月は、おのれ生贄いけにえささげようとした村人たちに、真摯しんしな眼差しで訴えている。対する村人たちの眼差しは、不服そうな苛立いらだちでとがっていたが、浅葱の牽制けんせいが効いているのか、くさっても〝憑坐さま〟の巫女だと受け入れなけば、次は我が身だと恐れたのか、数人が重い口を開き始めた。

「昨年の……ハナカイドウが咲き始めた、ちょうど今頃だったか。蛇ノ目家の当主だったあいつは、ふらりと東京に行ったきり、帰ってこなくなった」

だまされた気分だったよ。ました顔で〝憑坐さま〟を信奉しんぽうして、海棠家の祭事を支えているように見せかけて、村を裏切った不届き者だったとはね」

「東京で暴漢ぼうかんおそわれたとかで、奴が死んだってわかったとき、どんなに恐ろしかったことか……きっと〝憑坐さま〟のお怒りに触れて、天罰てんばつがくだったに違いない……」

 暗い熱気を帯びていく告発こくはつを受けて、凛汰が「犯人は、捕まったのか?」と問うと、うんざりした口調で「いいや。誰かも知らん」と返ってきた。続けて「じゃあ、帆乃花が東京に行きたがっていた理由の一つは、父親殺しの犯人をさがしたいからか?」と鎌を掛けると、老女の一人が「まさか」とうそぶき、大柴を一瞥いちべつして鼻で笑った。

「あの娘が、一か月たっても父親が帰らないことについて、なんて言ったと思う? 『お父さまだって、こんな村は嫌だったってことでしょ? 親が故郷こきょうを捨てるなら、子が故郷を捨てたっていいと思わない?』って、ぬけぬけと言い放ったのよ」

「そうか」

 相槌あいづちを打った凛汰は、ぞんざいな口調で、村人たちに言ってやった。

「帆乃花のことは、最後まで好きになれなかったけどな、少しくらいは同情するぜ。遺体を前にしても、クソッタレな毒しか吐けないような大人たちに囲まれた毎日は、さぞ退屈で鬱陶しくて面倒臭かっただろうな」

 村人たちは、頬をあけに染めた。凛汰は、いきり立つ群衆から視線をがしかけて、身動きを止める。村人たちの集団の一番端に、肩身がせまそうにうつむいた中年の女がいた。質素しっそな和服姿の女は、いたんだ黒髪を一つにたばねていて、ひどく鬱々うつうつとした顔をしていて――つえで身体を支えている。見覚えを感じた凛汰は、記憶を手繰たぐった。

「親父が死んだ夜に……海棠家の台所にいた女か?」

 嘉嶋礼司かしまれいじの遺体が発見された直後に、海棠家の電話を借りようとしていた凛汰を、廊下の突き当りの台所から見ていた女だ。あのときは、すぐに台所の奥へ姿が消えたので、足が悪いことに気づかなかった。凛汰の小声が聞こえたのか、女は深々と腰を折った。杖を握りしめる手は、ぶるぶるとおこりのようにふるえている。

「このたびは、娘のことでお騒がせして、申し訳ございません……」

 そういえば、梗介と初めて出会った際に、母親は足が悪いと聞いていた。隣に並んだ村人たちは、どことなく持てあまし気味の顔で、蛇ノ目家の女を横目に見ている。凛汰は、双子の母親に問い掛けた。

「なぜ、謝るんだ?」

「……私たちが、〝憑坐さま〟のために生き、〝憑坐さま〟のために死ぬことは、当然のこと……されど、蛇ノ目家の者である以上、海棠家にお仕えする責務せきむがあります。亡くなった帆乃花は……責務を、まっとうできなくなりました」

「だから、謝るってわけか」

 吐き気をもよおすほどのいきどおりを覚えながら、凛汰は思う。やはりこの村は、倫理観りんりかん壊死えししている。今度こそ視線を村人たちから剥がして、断崖絶壁を見渡すと、梗介はこちらに背中を向けていて、帆乃花の遺体にカーディガンをかぶせた美月を見下ろしていた。成り行きを見守っていた様子の浅葱は、薄着になった美月に近づいて、落ち着いた声音で話し掛けている。

「美月。昨夜は、じゅうぶんな荷造りができなかっただろう。山を下りたら、うちに上着を取りに来なさい」

「……ありがとうございます。でも、私……」

 ぎこちなく答えた美月は、浅葱との接し方をさだめあぐねているのだろう。それに、飛び出したばかりの海棠家の敷居しきいまたぐことに、葛藤かっとういだいているに違いない。海棠家に戻れば、養母ようぼも待ち受けているに違いないのだから――凛汰は、はたと気がついた。

 村から初めての供犠くぎが出たというのに、先代せんだいの〝憑坐さま〟の巫女をつとめた女は、なぜ神域に姿を現さないのだろう。具合ぐあいが悪いから、家で寝ているだけなら、問題ない。だが、もし、違う理由で――ここに来られないのだとしたら。

 背後からは、念仏ねんぶつのように「申し訳ございません……申し訳ございません……」と懺悔ざんげを繰り返す声が聞こえる。帆乃花と梗介の母親が、ハナカイドウの花のごとく頭を下げるはかなげな姿が、先ほど教員寮で別れた女の姿と、重なった。

「……浅葱さん。楚羅さんは、今、どこにいますか」

 浅葱が、凛汰を振り向いた。はっきりと強張こわばった顔は、最悪の懸念けねんが的中したかもしれないことを、覚悟させるにはじゅうぶんなほどに、鬼気迫ききせまる表情をしていた。

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