2-4 死者の筆致

 畦道あぜみちを行く村人たちを追いかけると、櫛湊くしみなと第三中学校にたどり着いた。まなに向かう老人たちは、凛汰と美月、三隅みすみの姿に気づくと、忌々いまいましげに顔をゆがめたが、〝まれびと〟と〝憑坐よりましさま〟の巫女みこに構っているひまなどないのか、土足どそくで校舎に踏み入っていく。昇降口しょうこうぐちに乗り込んだ凛汰も、躊躇ちゅうちょしている美月に「俺たちも土足で」と命令して、木の床を踏みしめる三隅に続いた。

 隣接りんせつする保健室の前を素通りして、日中でも日差しが入らず薄暗い廊下から、階段を上がって二階に移動すると――突き当りの美術室に、老人たちが群がっている。三隅が、揶揄やゆするように口笛を吹いた。

「一人目の供犠くぎが、選ばれていなければいいねぇ?」

「もし美術室で人が死んでいたら、ここに集まった連中は、昨夜の〝姫依祭ひよりさい〟のときみたいに、もっと取り乱してると思います」

「それもそうか。じゃあ、確かめよっか。……はーい、おじいさん、おばあさん、ちょっと通してねぇ。名探偵と助手のお通りだよー」

 廊下をずかずかと進んだ三隅は、人垣ひとがきに割り込んで美術室へ入っていく。凛汰と美月が後を追うと、村人たちはにらんできたが、疫病神やくびょうがみけるように身を引いた。美術室に踏み込むと、空気に染みついた油絵具あぶらえのぐが甘く香った。美月が、ハッと息をめる。凛汰も、密かな動揺どうようを押し隠して、黒板の手前を睨めつけた。

 教卓きょうたくのそばに、イーゼルが立て掛けられていて――美術準備室に押し込められていたはずの油彩画『楽園の系譜けいふ』が、窓から入るけた斜光しゃこうに、ぼう、と照らし出されていた。

 夜を塗り込めたような暗黒のキャンバスにたたずむ九名は、左端ひだりはしから、神職一家の海棠浅葱かいどうあさぎ、海棠楚羅そら、海棠美月。中央には、村人の蛇ノ目帆乃花じゃのめほのか大柴誠護おおしばせいご、蛇ノ目梗介きょうすけ右端みぎはしに向かって、来訪者の三隅真比人みすみまひと嘉嶋礼司かしまれいじ、嘉嶋凛汰――のはずだった。

 稀代きだいの画家・嘉嶋礼司の遺作いさくとなった油彩画は、昨日の昼下がりに美月と一緒に見たときから、明らかに変わった点が一箇所ある。最悪の間違い探しがあぶり出したおぞましさに、絵を鑑賞した全ての者が、肌を粟立あわだたせたに違いなかった。

 油彩画『楽園の系譜』にえがかれた凛汰と三隅の間には――木の十字架が打ち立てられていて、ヒトガタの赤黒い物体がくくりつけられていた。無残に焼けただれた肉塊にくかいは、左胸の位置に炭化したくいを打たれていて、傲岸不遜ごうがんふそんな表情はおろか、生前の面影おもかげを見つけることすら叶わない。〝姫依祭ひよりさい〟の惨劇さんげき反映はんえいして、文字通りの地獄絵図へと変貌へんぼうげた油彩画を、村人たちが遠巻きに眺めていて、おびえの声をらしている。

たたりじゃ……〝憑坐よりましさま〟が、お怒りになっている……」

「〝まれびと〟が〝憑坐さま〟を冒涜ぼうとくするから……」

「楚羅さまと浅葱さんにも、早くお知らせしないと……」

姫依ひよりさまは、わしらを決してお許しにならない……」

供犠くぎの村人は、この中から選ぶおつもりなのか、それとも……」

「嫌だッ、死にたくない! 僕は死にたくない!」

 最後の台詞せりふは、美術室の隅から聞こえた。目を向けると、シャツとズボンにベストを合わせた男が、真っ青な顔で椅子に座っていて、頭を両手でかかえ込んでいる。近くにいた学ラン姿の少年が、凛汰を振り返って肩をすくめた。

「この情けない大人が、第一発見者だよ。大げさに怖がっちゃって、滑稽こっけいだよね」

梗介きょうすけも来てたんだな。で、第一発見者って? 状況を詳しく教えてくれ」

「いいよー」

 蛇ノ目梗介じゃのめきょうすけは、いつぞやのように快諾かいだくした。そして、机に両肘をついて震える大柴おおしばへ、生ゴミでも見るような眼差しを向けてから、ニコリと笑って話し始めた。

「今朝、このクソ雑魚ざこ教師が出勤して、校内の見回りをしたときに、ここで嘉嶋先生の絵を見つけたんだってさ。美術準備室に置いてたはずの絵が、イーゼルごと美術室に移動してた上に、絵の一部が描き換えられてたってわけ」

「梗介の証言に、間違いはないな? おい、返事くらいしろ」

 凛汰が声をあらげると、大柴はギョッとした様子で顔を上げて、がくがくと首を上下に振ってきた。「間違いないよ……」と答えたので、凛汰は一点だけ追及ついきゅうする。

「あんた、いつも朝に校舎の見回りをしてるのか? それとも、今日だけか?」

「えっ……い、いつもだよ。なんで、そんなことを訊くんだい?」

 大柴が、硬い薄笑いを凛汰に向ける。同じタイミングで、三隅に詰め寄った老人たちが「あの不敬ふけいな絵を、早く捨てろ!」とさわぎ出した。すまし顔の三隅は「嫌ですよ?」と返していて、相手を挑発ちょうはつするようにニタニタした。

「この素晴らしい油彩画は、嘉嶋先生が僕に譲渡じょうとしてくださったものですよ? 取り扱いを〝まれびと〟の僕が決めるのは、当然のことですよねぇ? ああ、でも〝憑坐さま〟が供犠を欲している村で、猟銃りょうじゅうを向けられた無辜むこの僕とて、いつまで生きていられるか分からないか。……というわけで、もし僕が死んだ場合、この油彩画の所有者は、三人目の〝まれびと〟である凛汰くんってことで、よろしくねぇ」

 殺気さっき立った村人たちが、一斉に凛汰を見た。視線で串刺くしざしにされた凛汰は、三隅を軽く睨んだが、三隅は露悪的ろあくてきな笑みで応じてきた。

「そんなことよりさ、もっと建設的けんせつてきな話し合いをしようよ。凛汰くんは、この絵を見てどう思った? 嘉嶋先生の家族であり、画家の卵である君の見解けんかいを聞きたいな」

「……。絵が変わった箇所について、断言できることが一つあります。これは、親父の筆致ひっちです。この悪趣味で不愉快なリアリティと、対象の本質をえぐり出すようなえげつなさは、嘉嶋礼司の持ち味だ」

 どよめきが、美術室を駆け巡った。梗介が「じゃあさ」と冷静に口をはさむ。

「嘉嶋先生は、いつ絵を描き換えたのかな。あっ、その前に、実は絵が二枚用意されてた、って可能性も考えたほうがいいよね。嘉嶋先生が生きてるバージョンと、死んでるバージョンの二枚あって、誰かが絵をすり替えて、美術室に飾ったとか」

「いや、その可能性はゼロに近いな。俺は、昨日の昼下がりに、この絵を美月と確認した。絵が変わった箇所は親父だけで、その他は全て昨日見た『楽園の系譜』と完全に一致することを、嘉嶋礼司の弟子でしとして断言だんげんするぜ。俺の証言しょうげんを、信じるか?」

「んー、いいよ。信じてあげる。ここで嘘をついたって、凛汰にメリットなんてないだろうしさ。村のみんなも、納得してあげたらいいんじゃない?」

 村人たちは、不満そうな顔をしていたが、最初から異論はないようだ。頷いた梗介が「じゃあ、改めて。この絵は、いつ描き換えられたのかな?」と発言すると、鼻で笑った者がいた。――三隅だ。梗介の顔から、のんきな笑みが消失する。三隅は、意味深に笑いながら語り始めた。

「昨日の昼下がりから、大柴先生に発見された今朝までの間に、絵が描き換えられたことになるよねぇ。そうだ、不毛ふもうな考察をはぶくために、一つ確認しておこうか。今の櫛湊村くしみなとむらには、嘉嶋礼司大先生に代わる画力を持つ者が、一人だけいるもんねぇ?」

 美術室じゅうの視線が、再び凛汰に集中する。予想済みの展開なので、凛汰は「画力云々うんぬんは、否定しませんが」と前置きしてから、己に向けられた疑惑を否定した。

「確かに俺は、親父の筆致を真似まねることはできます。ただし、素人の目を誤魔化ごまかすくらいは可能でも、作者とは別の人間が手を加えた痕跡こんせきを、完璧に隠し通すのは不可能です。ましてや、これは親父の絵だ。――嘉嶋礼司の筆遣いは、唯一無二ゆいいつむにの技術だ。代わりは、誰にもつとまらないぜ」

「父君の実力を認めて、称賛しょうさんできるんだ? きっと君は、いい画家になるよ」

「そりゃどうも」

「素直じゃないねぇ。さて、話を戻そうか。凛汰くんの証言を踏まえると、我々が推理すべきポイントが、整理されてきたんじゃないかなぁ?」

「記者さん。まどろっこしい言い方はやめて、はっきり話したら?」

 梗介が、眉をひそめている。三隅は「君には分からないの? 簡単なことだよ?」と面白がるように言い返すと、舞台に立つマジシャンのように両腕を広げた。

「絵を描き換えたのは、嘉嶋先生ご本人。ならば、描き換えが行われたのは、昨日の〝姫依祭ひよりさい〟前か、〝姫依祭〟後か。――すなわち、か。一体どちらだろうねぇ……? もし後者こうしゃが真実なら、幽霊が絵筆えふでにぎったことになるわけで、村人の皆さんがおっしゃる通り、これはたたりかもしれないよ?」

 顔色がんしょくを失った村人たちが、三隅から距離を取る。凛汰は、全員に向けて質問した。

「昨日の夕方までに、この絵を美術準備室まで見に来た村人はいるか?」

「いるわけないじゃん。村のみんなは、その絵が大嫌いなんだからさ」

 なく答えた梗介は、机で項垂うなだれている大柴を一瞥いちべつした。肩をすぼめた大柴は「僕は、知らないよ……帆乃花ほのかちゃんの補習を終えたら、すぐに学校を出たから」と、気味悪そうに呟いている。凛汰は、腕組みをして考え込んだ。

 ――確か昨日、凛汰を櫛湊第三中学校へ案内した美月が、学校の施錠せじょう徹底てっていされていない、という趣旨しゅしの発言をしていた。美術準備室には、村の誰もが侵入しんにゅう可能だった。さらに、描き換えられた絵の筆致は、嘉嶋礼司のもので間違いない。

 常識的に考えれば、油彩画『楽園の系譜けいふ』は、〝姫依祭〟が始まる前に、嘉嶋礼司の手によって、描き換えられたことになるが――黙考もっこうしているうちに、ふと気づく。先ほどから、美月が一言ひとことも発していない。隣を振り向いた凛汰は、息を止めた。

 美月は――油彩画『楽園の系譜』に、えた眼差しを向けていた。まされた哀切あいせつが、淡紅色たんこうしょくともした瞳に宿っている。今日は化粧けしょうをしていないのに、ひどく大人びた横顔が、凛汰に喧騒けんそうを忘れさせた。薄く開いた唇が、かそけき言葉をつむいでいく。

「あの人の絵は、決して、誰にも、かたれはしません」

「……。お前は、誰だ?」

 思わず発した呼び掛けが、世界に喧騒を呼び戻した。まぶたを閉ざしてふらつく美月の身体を、凛汰は両手でつかまえる。すぐに意識が戻った美月は、眠たそうに琥珀こはく色の目を細めていたが、やがて頬を赤く染めて、凛汰の胸板むないたを突き飛ばした。

「あ……わ、ごめん! えっ、でも、なんで?」

「いってぇな……まあ、別にいいけど。それより……美月、覚えてないのか?」

「……何の、こと……?」

 美月の表情が、みるみるうちに強張こわばっていく。先代せんだいの〝憑坐さま〟の巫女を務めた女の言葉が、脳裏のうりで不吉に響き渡った。

 ――『〝憑坐さま〟は、巫女の身体をしろにして、託宣たくせんをくださる存在だもの。貴女が〝神がかり〟を成せたことが、巫女を継承したあかし。最初は記憶が途切れる感覚があっても、慣れてくれば記憶を留めておけるようになるわ……』

「……。美月、心配するな」

「でも……」

「俺は、お前と村を出る約束はしたけど、本当の名前すら明かさない神様まで連れていく気はないからな。……乗り掛かった船だ。そいつは、俺が何とかしてやる。でも、今だけは、そいつの後押しに感謝してやってもいいぜ」

「後押し……?」

 美月は、目を白黒しろくろさせた。怯えが薄らいだ表情を確認してから、凛汰は美月に「ついて来い」と耳打ちする。二人で廊下に出る直前に、大柴にからんでいた三隅を振り返る。アイコンタクトに気づいた三隅も、を空けてから廊下に出てきた。

「なぁに、内緒話? メモを取ってもいいかな?」

「油彩画『楽園の系譜』は、嘉嶋礼司の手によって〝姫依祭ひよりさい〟後に描き換えられた。すなわち、という説を、俺は支持しじします」

 三隅は、毒気どくけを抜かれた顔になった。飄々ひょうひょうたる態度を今まで崩さなかった男から、素直な驚きを引き出せた凛汰は、先ほどの仕返しのように笑ってやった。

三隅真比人みすみまひと。俺は、あんたを信用することにした。だから、オカルトの専門家として、三隅さんが櫛湊村について調べたことを、俺たちに教えてください」

「どういう心境の変化かな。僕みたいな胡散臭うさんくさい大人を信用したら、後悔するよ?」

「あんたは、俺に『ここはすでに黄泉よみの世界だと割り切るくらいの覚悟が、今後は必要になる』って言いましたよね。その覚悟を決めてやるから、仲間になれって言ってるんです。それに、俺が〝憑坐さま〟の巫女である美月を引き受けることは、オカルトを受け入れることと同義です。〝憑坐さま〟について詳しく知りたいなら、村の人間から得られる真偽しんぎ不明の情報よりも、外来者がいらいしゃの三隅さんが集めた知識をたよるべきだ。親父だって、あんたの記事を熟読じゅくどくしてたみたいだしな」

「凛汰……」

 言葉をつかえさせた美月のそばで、三隅は「ありゃ、なんで知ってるの? ……と。これは失言しつげんか。ともあれ、僕が集めた情報だって、真偽不明じゃないかなぁ?」と試すような口調で言ってから、仕方なさそうにニヤリとした。

「ここは騒がしいから、続きは僕の部屋でどう?」

 凛汰が首肯しゅこうすると、背後から「待ちなよ」とアルトの声が掛かった。

 三人で振り返ると、美術室の引き戸のかげから、蛇ノ目梗介が進み出てくる。会話に割り込んできた学ラン姿の少年は、友好的な笑みを振り撒いた。

「僕も、一緒に行かせてもらうよ? 凛汰たち三人が、僕らにとって迷惑な動きをしないように、監視かんしさせてほしいからさ」

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