1-9 禁忌

 祭りの列は、厳粛げんしゅくな雰囲気をかもし出していた。

 日没を迎えた空の下で、御山おやまをゆるゆると登る群衆ぐんしゅうの先頭は、両手でしゃくを持った海棠浅葱かいどうあさぎが務めていて、巫女装束の楚羅そらと美月が後を追う。二人が携えた神楽鈴かぐらすずが、シャン、シャン、とんだ音色を響かせた。

 神職一家から距離を開けて、神輿みこしかついだ男衆おとこしゅうと、松明たいまつを持った村人たちがついていく。いずれも白装束しろしょうぞくまとっていて、遅々ちちとした歩みの合間に「この木船きぶね、去年よりも重いような」という苦しげなテノールのうったえと、「わけぇの、踏ん張って担げ」というしゃがれた罵声ばせいが漏れ聞こえた。前者の声は、大柴誠護おおしばせいごのものだろう。仮面で個々の判別はんべつが難しくとも、高齢者の中に交じった二十八歳くらいは見つけ出せる。男衆の中には、きつね面をつけた少年もいた。双子の姉のほうは、居場所が分からない。木船の後ろをそぞろ歩く老女たちの中にいるのか、神事への参加を拒否したのか――おごかな行進の最後尾さいこうびで、凛汰が思索しさくを進めていると、隣から陽気ようきな声が掛かった。

「凛汰くん、もっと近くに行かなくていいの? せっかくの〝姫依祭ひよりさい〟だよ?」

 松明たいまつの赤い揺らぎが、丸眼鏡まるめがねふちに反射している。サスペンダー付きのズボンと白シャツ姿の男を、凛汰はひとにらみしておいた。

三隅みすみさんこそ、神輿みこしの近くに行けばいいじゃないですか」

「少し距離を置いたほうが、全体を見渡せるものだからさ」

 三隅真比人みすみまひとは、ニイと凛汰に笑いかけた。海棠神社を出発する前に、ふらりと現れた記者の男は、凛汰が同じ理由で木船から距離を取っていることを、とうに見透みすかしているのだろう。とんだ連れができてしまったが、前向きに受け取ることにして、凛汰はオカルトの専門家に訊いてみた。

「あの木船には、誰も乗らないんですね」

「神輿は、その名の通り『神様の乗り物』だからねぇ。ゆえに〝姫依祭〟では〝憑坐よりましさま〟の巫女であらせられる楚羅さんが乗るはずだけど、ここの住人たちの平均年齢を考えると、ねぇ」

大柴おおしばって先生と、中学生の梗介きょうすけを加えても、焼け石に水だろうな。神の乗り物なのに、巫女が乗ってもいいんですか?」

「〝憑坐よりましさま〟の巫女なら、ね」

 三隅は、意味深な笑い方をした。紫苑しおん色にかげる夜道は、夕焼けの名残なごりのような血の色が薄く染みていて、腹の内が読めない男の顔を、いっそうあやしく見せている。隣で枝葉を拡げる森が、ざわざわと葉音を立て始めた。凛汰は、山道を注意深く観察する。――嘉嶋礼司かしまれいじは、いまだに姿を現さない。三隅が、揶揄やゆするように言った。

「いないねぇ、君のお父さん」

「そうですね。でも、必ず〝姫依祭〟に来ます。あいつはクズだけど、約束だけは破ったことがありませんから」

 うっかりしゃべり過ぎたのは、祭りの異様な雰囲気に当てられた所為だろうか。凛汰は顔をゆがめたが、三隅は意外にもからかわなかった。無言で微笑む横顔は、一瞬だけ別人のように見えたが、再び凛汰を見下ろす顔は、元の愉快ゆかいげな表情に戻っていた。

「頂上に着いたね。これから神楽かぐらが始まるよ」

 再び訪れた神域しんいきは、美月と二人で来たときよりも、潮風が一段と冷えていた。黄昏時たそがれどきの薄暗さが、断崖絶壁の眺めをかしている。星がまたたき始めた空の下で、墨汁ぼくじゅうのようなやみたたえた海が、遠くで白波しらなみを立てていた。仮面の男衆たちが担いだ木船は、鳥居のそばの空き地に下ろされたところだった。

「三隅さんは、村人が仮面をつける理由をご存知ですか」

「知ってるよぉ。あれはね、来訪神らいほうしんのまれびとにふんしているのさ。まれびとは、福をもたらす神であり、人々から歓待かんたいを受けているということは、もう誰かに聞いたかな?」

 顔をしかめた凛汰は、頷いた。三隅はふくみ笑ってから、帆柱ほばしらが黒い布でおおわれたままの木船を振りあおいだ。

「神の来臨らいりんを演じる祭りは、かつて他の地域でも行われていた歴史があってね、このとき来方神にふんする役目は、旅人や若者から選ばれたそうだよ。神事の場でも〝まれびと〟をもてなすほどに、櫛湊村くしみなとむらの神様は、来訪神を大切になさっているんだねぇ。……僕には、信じられないけどねぇ」

 凛汰は、眉根を寄せた。三隅は、視線を神輿に向けたままだ。松明たいまつで照らし出された木船のそばで、楚羅がこうべを垂れていて、来訪神に扮した村人たちと、見物につどった住人たちが、徐々に人垣ひとがきを形成していく。大麻おおぬさを捧げ持った浅葱も、木船の前で一揖いちゆうした。海風をはらんだ紙垂しでが、さかきの枝の先で揺れている。楚羅が神楽笛かぐらぶえかなでると、美月も頭を下げて、浅葱から大麻おおぬさを受け取って――木船に足を掛けて甲板かんぱんに上がり、優美な巫女舞みこまい披露ひろうした。櫛湊村の神輿は、第一印象を裏切らず、本当に舞台ぶたいの役割を果たすようだ。三隅は、不気味な声音で語り続けた。

土着どちゃくの神である〝憑坐よりましさま〟が、〝姫依祭ひよりさい〟で次世代の巫女を選べば、楚羅さんの肩書かたがきは美月ちゃんに継承けいしょうされる。新たな巫女が選ばれなければ、楚羅さんが引き続き〝憑坐さま〟の巫女をになうんだよ」

「楚羅さんの役目を、美月が引き継ぐ必要はありますか?」

「ぶっちゃけると、ないね。蛇ノ目じゃのめ家の双子の片割れを、養子に取る案も出ていたそうだし、つとまれば誰でもいいんでしょ。要は、楚羅さんの後釜あとがまを用意しようってことだね。楚羅さんの身に何かあれば、特別な巫女がいなくなるわけで……巫女を絶やさないようにねばる理由は、一体何なんだろうねぇ……? なんだか、怒られるのを怖がってる子どもみたいだと思わないかい?」

「……巫女が次世代に継承されたか否かは、どう判断するんですか」

「それは、僕も知りたいな。楚羅さんは『美月ちゃんがお役目を継ぐことになれば、おのずと分かる』としか、教えてくれなかったからねぇ。……ああ、美月ちゃんの舞は綺麗だねぇ。昨年までは、都会の中学生だった女の子が、演舞を立派にこなせるようになるまでに、どれほどの涙ぐましい努力を重ねたんだろうねぇ」

 目を細めた三隅の視線をたどると、大麻おおぬさ神楽鈴かぐらすずに持ち替えた美月は、木船の中心にすそを垂らした暗幕の前で舞っていた。――〝姫依祭〟が進んでも、まだ嘉嶋礼司は現れない。三隅は、面白がるような口調で言った。

「来訪神であるまれびとは、海の彼方かなたからやって来て、お祭りで用意されたはしら状の『しろ』に降臨こうりんすると考えられていたんだよ」

 依り代――〝姫依祭〟の名が、脳裏のうりをちらつく。シャン、シャン、と鈴が響く。三隅の講釈こうしゃくが、耳朶じだを打つ。

「ここで、興味深い共通項きょうつうこうを持つ類話るいわがあるんだけど、日本に古来より存在する信仰の一つに『船霊ふなだま』というものがあってね、船の霊という漢字から想像できるように、漁船の守護神なんだ。船神ふながみ、オフナサマとも呼ばれるね。御神体ごしんたいは、陸の神社におまつりすることもあれば、船でお祀りすることもあるよ。後者こうしゃの場合は、人形、硬貨こうか穀物こくもつ、人間の髪の毛などの御神体を、将棋しょうぎこまみたいな形をした木製のうつわに入れて、船のはしらくぼみにめて、魔除まよけの御守りにしていたんだ。――来訪神・まれびとが、櫛湊村に降臨する場所として、あの木船の帆柱ほばしらは、うってつけの場所だよねぇ」

「……。その帆柱に、なんで黒い布をかぶせているのか、三隅さんはご存知ですか」

「もちろん、取材したからね。あれは、に服している意思表示らしいよ」

「喪に?」

「木船の帆柱にも、将棋の駒の形をした窪みがあってね、祭りの夜にだけ御神体を木船に移していたそうなんだ。――〝憑坐よりましさま〟の御神体をね」

「〝憑坐さま〟には……御神体があるんですか?」

「正確には、あったんだよ。でも、十九年前の〝姫依祭〟で、火事に見舞われたらしくてねぇ。祭りで使った木船は、御神体もろとも焼失したんだってさ」

「……火事」

「その年からしばらくは、多数の死者・行方不明者が出て、〝憑坐さま〟のたたりだなんてうわさされたらしいよ。だから、怒れる神を慰撫いぶするために、神事の進行が変わっていったんだ。帆桁ほげたに黒い布を引っ掛けて、空っぽのくぼみをさらしている帆柱ほばしらを包み、神事の最後にとむらいの火を放つことで、神輿みこしを燃やし尽くす形に、ね……」

「神輿を……燃やす?」

「このとき神は、すでに神輿ではなく、別の〝存在〟に移っているからね。……でもさぁ、普通は、そんなことをしていいわけがないよねぇ」

 くつくつと笑った三隅は、不意に声を潜めた。

「さっき話した『船霊ふなだま』信仰では、女性を船に上げることを忌避きひした歴史があるんだよ。女性が一人で船に乗ることで、よくない〝モノ〟にかれたり、天候が激しく荒れたりしたから、タブー扱いされてきたんだ。――でも、櫛湊村の〝姫依祭〟では、木船に美月ちゃんを上げている」

 一瞬だけ、きもが冷えた。鈴を鳴らし続ける美月が、甲板かんぱんの端に移動する。三隅は「おかしな点は、まだあるよ」と言って、祭りの不審点をあげつらっていった。

「まずは、神輿の取り扱い。神輿を担ぐ意味は、神様を高い所へ持ち上げることで、敬意をお伝えするためだけど、この村の人たちさ、神輿を地面に下ろしちゃってるよねぇ? 本当は、たとえ休憩するときであっても、専用の台に安置するんだよ。地べたに下ろすなんてありえないし、ましてや神輿を踏みつけにして踊るなんて、論外だ。村人たちの仮面も、呆れるほどに種類がバラバラだから、宗教的な意義は皆無かいむだろうね。神輿をかついだところで、霊験れいげんもご利益りやくも期待できないに決まってるよ。――この祭りは、禁忌きんきおかしているのさ。信じがたいほどの無作法ぶさほうを、あまりにも働きすぎているんだよ。……『憑坐よりまし』という言葉が、本来は何を意味するのか、凛汰くんは知っているかな?」

 甲板から身を乗り出した美月が、浅葱に神楽鈴を手渡した。そして、仮面の集団に向けて、白魚のような手を伸ばす。

「憑坐とは、『神霊しんれいの依り代となる人間』を指す言葉なんだよ。肉体を持たない幽世かくりよの存在を、己が現世うつしよの身に降臨させて、俗世ぞくせ託宣たくせんを伝える役目をになう者が、そう呼ばれてきたのさ。――つまり、人間なんだよ。その身に高次元の存在を降ろす憑坐よりましは、いわば『現人神あらひとがみ』とも受け取れるから、敬称をつけてあがたてまつっているならわしを、否定したいわけじゃないけどねぇ……やっぱり不自然だよね? 気になるよね? そもそも憑坐が降ろしている『神』は、一体何なのかって話になるよね……?」

 仮面の男衆たちの一人が、美月に松明をささげた。灯火ともしびに顔を照らされた美月は、少しおくした様子だったが、毅然きぜんとした表情で両手を伸ばして、松明を受け取った。

「櫛湊村の神様は、真名まなを隠されているんだよ。あるいは、失くしたのか、奪われたのか……正体を秘匿ひとくしたまま、神の依り代を神格化してまつり上げる様は、僕の目には奇異きいに映るよ。歴代の憑坐たちは、その身に一体〝何〟を降ろしていて、信者たちは〝何〟を崇め奉ってきたんだろうねぇ……?」

「その正体を……三隅さんは、知っているんですか?」

「見当はついているし、ほぼ確信しているよ。櫛湊村は、ハナカイドウの村をうたっていながら、村の名前にも神輿にも、漁村としての名残があるからね。祀られている神様は、海に所縁ゆかりがあるものだろうね。……本当に、いつわりだらけの村だねぇ。女という依り代に、神を降臨させる〝姫依祭〟……禁忌の奇祭きさいもたらすのは、果たして海上安全と夫婦和合ふうふわごうで正しいのか、はなはだ疑問だとは思わないかい……?」

 そのとき、眼前の人垣が、モーセの十戒じっかいのように割れた。仮面の男衆たちが、凛汰と三隅の元まで来ると、凛汰の腕や肩をつかんでくる。なし崩し的に歩かされた凛汰は、手ぶらの三隅を振り返る。三隅は、のんびりと手を振ってきた。

偽物にせものの〝まれびと〟じゃなくて、本物の〝まれびと〟に、儀式に参加してほしいって腹だろうねぇ。僕も〝まれびと〟なんだけどな。まあ、いってらっしゃい、凛汰くん。巫女殿と一緒に、松明で暗幕を燃やしたら、今年の〝姫依祭〟は終わりだよ。……早く行ってあげないと、美月ちゃんが危ないよ?」

 神輿を振り返った凛汰は、目をいた。いつしか夜のとばりが下りた空の下で、松明を持った村人たちは、まだ美月が木船に乗っているにもかかわらず、甲板に火を放ち始めている。凛汰は、即座そくざに声をあらげた。

「やめろ! 殺す気か!」

「君が行くしかない流れだよ。巫女を救いに行く来訪神の役は、〝姫依祭〟の花形はながたであり、櫛湊村のほまれだよ?」

「のんきに言ってる場合かよ、クソが!」

 ボストンバッグを放り出した凛汰は、村人を突き飛ばしながら駆け出すと、火の手が上がり始めた木船の手前で跳躍ちょうやくして、甲板にひらりと着地した。熱い陽炎かげろうが揺らめく神輿で、迎えに来た〝まれびと〟を見つめた美月は、申し訳なさそうに委縮いしゅくしている。

「凛汰。巻き込んで、ごめんね」

「そんなことはいい。さっさと終わらせるぞ」

 松明を持つ美月の手に、凛汰も手を添えてやった。美月は、愁眉しゅうびを開いて「ありがとう」と囁くと、木船の中心を振り仰いだ。そして、御神体を失ったという帆柱ほばしらを覆った黒い布に、二人で松明を押し当てた。

 赤い炎が、一息で暗幕をめ尽くす。紅蓮ぐれんへと変貌へんぼうげた緞帳どんちょうが、強い潮風の後押しによって、灼熱しゃくねつころもまといながら、ずるりと甲板へ落ちていく。秘匿ひとくされていた帆柱ほばしら全貌ぜんぼうが、ついに衆目しゅうもくさらされた。火の粉がパチパチと爆ぜる船上で、凛汰は愕然がくぜんと目を見開き、美月は茫然自失ぼうぜんじしつの声を上げた。

「かしま、せんせい……?」

 その光景は、世界中で数多あまたの画家たちがえがいてきたキリストの受難じゅなんを、現代に顕現けんげんさせたかのようだった。

 天に向かってそそり立つ帆柱と、白い帆を張るために組まれた帆桁ほげたによって、甲板に打ち立てられた十字架じゅうじかに――男が、はりつけにされていた。帆桁ほげたに腕を、帆柱に首と足を、なわで厳重にしばりつけられた男は、田畑で見かけた案山子かかしのように、だらん、と四肢しし弛緩しかんさせていて、海に捧げたハナカイドウさながらのうつむき加減で、燃えさかる神輿ににごった眼差しを向けている。左胸には、ユダの裏切りによって磔刑たっけいしょされたキリストのように、くいが深々と刺さっていて、白シャツを真紅しんくに染めていた。夜空へ吹き上げる熱風が、赤茶けた頭髪をあおっていく。

 絶命は、明らかだった。傲岸不遜ごうがんふそんな笑い方を、最期さいごまでつらぬいた嘉嶋礼司かしまれいじは、一片の悔いもなく人生をまっとうしたと言わんばかりに、ひどく満足げな死に顔で、凛汰と美月を見下ろしている。別れぎわの約束が、最悪の形で守られたことを、凛汰は知った。

 ――『じゃあな、凛汰、美月。〝姫依祭〟で会おうぜ。俺は、お前たちを愛しているよ』

 神楽笛かぐらぶえの音がやみ、きぬくような悲鳴が上がった。取り乱した楚羅が「嘉嶋先生が……〝まれびと〟が!」と叫ぶ声をみずにして、人垣に伝播でんぱした恐慌きょうこうが、新たな絶叫を生んでいく。ある者は仮面をぎ取って震え出し、ある者は「申し訳ございません、〝憑坐さま〟……姫依ひよりさま……!」と裏返った声で騒ぎ立てて、ある者は大地にひたいをこすりつけて土下座どげざをした。阿鼻叫喚あびきょうかん地獄絵図じごくえずと化した神域で、ギッと歯を食いしばった凛汰は、腹の底からの声でえた。

「火を消せ!」

 数名の村人が、我に返った顔で凛汰を見た。凛汰は、怒号どごうを響かせた。

「早く火を消せ! 人が死んでるんだぞ!」

 言い終わるや否や、けむりを吸ってき込んだ。白装束の村人たちは、水を満たしたバケツを持ち上げようとしていたが、もう間に合わないことを凛汰は悟った。に燃え移った炎が、腕を拘束する帆桁ほげたを焼いて、首と足を縛る帆柱ほばしらを伝った。礼司の髪が、肌が、肉が、血が、才能が、未来で生まれたはずの絵が、共に帰るはずだった未来が、業火ごうか蹂躙じゅうりんされる匂いがした。火炙ひあぶりにされる亡骸なきがらを、奪い返そうと拘泥こうでいすれば、凛汰と美月も道連みちづれにされる――ハッとした凛汰は、隣で立ち尽くす美月を見た。

「美月! 船を下りるぞ! ……美月? 美月っ!」

 美月は、礼司を見上げ続けていた。火影ほかげに赤々と照らされた白い頬を、つうととむらいの涙が伝い落ちる。大人びた哀切あいせつかおを見た凛汰は、状況を忘れて息を呑んだ。礼司のむくろを映す瞳に、ピンクがかった淡紅色たんこうしょくの煌めきが、流れ星のようによぎっていく。

 ふっとまぶたを閉じた美月は、糸の切れた人形のように、甲板に倒れかけた。とっさに凛汰が抱き留めて、支えきれずにひざをつくと、浅葱の「美月ッ!」という切羽詰まった呼び声が、木材が焼ける轟音ごうおんに割り込んだ。甲板の火柱ひばしらいとわずに、木船に飛び込んできた神主は、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの腕を伸ばして、気を失った美月を抱き上げる。そして、すすで汚れた頬をこちらに向けて「凛汰くんも、急ぐんだ!」と声を張った。

 地上に脱出する二人を追って、凛汰も帆柱ほばしらに背を向けて――振り返る。十字架をく赤色がまぶしすぎて、父の笑みはもう見えなかった。

かたきは、必ず取るからな。俺のやり方でな」

 別れの言葉を吐き捨てた凛汰も、甲板から飛び降りた。炎上えんじょうする木船という処刑場で、燦然さんぜんと輝く無数の火の粉が、ハナカイドウの花びらのように乱舞しては、暗い夜空の彼方に溶けていく。

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