1-7 献花

 海棠かいどう神社まで戻ると、隣の海棠家から複数人の話し声が聞こえてきた。鳥居とりいの前に立った美月みづきは「〝姫依祭ひよりさい〟が終わったら、海棠家で皆さんの労をねぎらうから、お料理の準備をしてるんだよ」と説明すると、緊張の面持おももちで目を伏せた。

「私も、そろそろ戻らないといけないけど……その前に、凛汰りんたを連れていきたい場所があるの」

 赤みを帯び始めた空の下で、美月は拝殿はいでんを振りあおいだ。神社の裏手に位置する御山おやまから、鳥の群れが飛び立っていく。行き先を察した凛汰が頷くと、美月は鳥居をくぐって境内けいだいに入り、拝殿の隣を通り過ぎて、鎮守ちんじゅの森へ進んでいく。

「この先に、嘉嶋かしま先生が絵に描いた神域しんいきがあるの。御山に沿った坂道が、〝姫依祭〟で木船きぶねかついでいく参道さんどうだけど、森を通るほうが早く着くから」

 何度か耳にした木船とは、神輿みこしのようなものなのだろう。暗い森に射し込む夕陽が、大地に枝葉えだはの影を揺らめかせる。湿った青い香りに包まれながら、凛汰は美月の背中に声を掛けた。

「美月。本当は〝姫依祭〟に出たくないんだろ」

「でも、今の私には、ここしか生きる場所がないよ」

 御山を登る美月は、凛汰を振り返らなかった。森の出口で輝く夕日を目指して、前へ前へと進み続ける。

「村の皆さんは、私のことを『美月ちゃん』って呼んで、可愛かわいがってくれてるよ。でも、凛汰も気づいたと思うけど、私が皆さんに可愛がってもらえるのは、次期じき憑坐よりましさま〟の巫女みこ候補だから。皆さんは、私を海棠家の養女ようじょとして見ているだけで、私自身を見ているわけじゃない。それでも私は、村の期待に応えたいって思ってるよ」

建前たてまえの恩返しなんか、どうでもいい。本心だけを聞かせろ。この村のことを、美月はどう思ってるんだ?」

「分からない。でも」

 美月は、やっと振り返った。転がした万華鏡まんげきょうのようにきらめく木漏こもれれ日が、はかなげな笑顔の輪郭りんかくに、赤い縁取ふちどりをともす。

「居場所がない私に、居場所を与えてくれた皆さんのことを、好きになりたいなって思ってるよ。今はまだ、心からそう思うことができなくても」

 前方に向き直った美月は、歩調を早めた。凛汰と二人で過ごせる時間は、残りわずかなのだろう。山道を踏みしめる凛汰が、美月の背中を追い続ける間にも、美月は何かを吹っ切ったような、あるいはおのれに言い聞かせるような声で語り続けた。

「みんな、いい人だと思う。だから、私も〝憑坐さま〟のことを勉強して、櫛湊くしみなと村に馴染なじまなくちゃって、頑張ってたんだけど……嘉嶋先生だけは、頑張らなくていいって言ってくれたんだよね」

「へえ」

 きょかれた凛汰は、ふっと笑った。櫛湊村にたどり着いてから、悪くないと思える気分になったのは、おそらく今が初めてだ。

「美月の言う通り、クソ親父にも人の心があったんだな」

「またそんなことを言ってる。凛汰は、とっくに知ってたんでしょ? 嘉嶋先生の息子なんだから」

 また振り返った美月も、ふわりと笑った。古めかしい村の養女ではなく、特殊な役目をになう巫女でもなく、ありきたりな十五歳らしい顔を見せた少女の元まで、凛汰がようやく追いついたとき、木々の切れ目が見えてきた。

 鎮守の森を二人で抜けると、ざあっと潮風が強く吹きつけた。御山の一角を僅かながらひらいたと思しき神域は、砂地が一部だけしになっている。ぽっかりと開けた空間のそばには、現世うつしよ常世とこよ境目さかいめのような丹色にいろの鳥居がそびえていて、ごつごつとした岩肌いわはだ断崖絶壁だんがいぜっぺきが、あかね色の海に向かってびていた。

 この先に地獄が待ち受けていたとしても、何ら不思議ではないほど赤く染まった、櫛湊村の最果さいはてに――凛汰がさがしていた男は、立っていた。

 赤茶けた頭髪が、夕刻ゆうこくの風になびいている。背筋を伸ばした後ろ姿は、油彩画『楽園の系譜けいふ』にえがかれた通りのシャツとズボン姿で、あと一歩で常世とこよへ踏み出せそうなほどきわどい場所に立っているのに、危うさはまるで感じさせない。常に絵筆と共にあったはずの右手には、代わりにハナカイドウの小枝が握られていて、うつむく花びらの連なりが、悲嘆ひたんに暮れる女のように、海にこうべを垂れていた。

「親父……」

 凛汰の呼び掛けを合図にすると、あらかじめ決めていたかのように――嘉嶋礼司かしまれいじは、すうと右腕を地面と水平に持ち上げると、握りしめていた手を開いた。虚空こくう手向たむけられたハナカイドウの小枝が、宙に浮いて、重力にしたがい、ゆっくりと崖下がけしたに落ちていく。穏やかな波の音が、はるか下方から聞こえてきた。海への献花けんかを終えた礼司れいじは、かみさびた鳥居の向こう側から、凛汰と美月が立つこちら側を振り返った。

「よく来たな。凛汰。美月に連れてきてもらったのか」

「嘉嶋先生。やっと見つけた」

 美月が、ホッとした笑みを見せた。歯を食いしばった凛汰は、ジャケットのポケットに手を入れると、スマホと共に持ち歩いていた封筒を、しわになるほど握り込んだ。

「親父。どういうつもりだ」

「久しぶりに会った父親に、真っ先に言う台詞せりふがそれか」

「とぼけるな。何が『〝憑坐よりましさま〟のおおせのままに、神の啓示けいじを絵筆に乗せて、託宣たくせん俗世ぞくせに伝えたまで』だ。村人たちをさわがせた油彩画『楽園の系譜』に、三人目の〝まれびと〟である俺までかれていたのは、神の託宣なんかじゃない。必然ひつぜんだ」

 凛汰は、ポケットから取り出した封筒を、礼司によく見えるように突きつけた。

「俺は、東京をったクソ親父が、やっと寄越よこしてきた便たよりに従って、ここまで来ただけなんだからな。――『もう何もうばわれたくないと願うなら、櫛湊村に来い』って、どういう意味だ? 俺は、お前に何かを奪われたことなんか、一度もねえぞ」

「凛汰……?」

 当惑とうわくした様子の美月が、凛汰と礼司を見比べた。礼司は、片眉かたまゆを上げて「へえ」と呟き、面白がるような口調で言った。

「美月。凛汰と仲良くなったのか」

「えっと……はい。村には同い年の子がいないから、嘉嶋先生の息子さんが来てくれて、私は嬉しかったです」

「……なるほど、そうきたか。凛汰も、知恵をしぼってきたか」

「余計なことを言うな。俺の言葉に、返事をしろ」

 凛汰が語気ごきを強めると、礼司はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

「何かを奪われたことなんか、一度もない……か。俺は、お前からさまざまなものを奪ったとは思わないのか?」

「例えば、何を奪ったっていうんだよ」

平穏へいおんな生活。家に父母ふぼそろった毎日。普通の学生としての人生」

「今さら何を言ってるんだ? 変人の画家が父親になった時点で、確かに『平穏な生活』とのえんは切れたよ。でも、それが俺にとっての『普通』だからな。『父母が揃った毎日』だって、テメェが帰ってくれば済む話だろ」

「帰れば済む話じゃなくなったことは、誰よりもお前が知っているはずだ」

「……母さんのこと、知ってたのか?」

「いや、知らなかったけど、分かってたよ。志津子しづこは、そういう女だからな」

「分かってたのに、帰らなかったのか」

「俺の姿が見えないくらいで精神せいしんなら、たとえ俺が帰っても、いずれ同じ結果になっただろ。志津子の飛び降りる場所と時間が、少しばかり変わるだけだ」

「ああ、俺も同感だ。だけど、それでも嘉嶋志津子かしましづこは、お前のつまだろ」

 大きく息を吸った凛汰は、深く吐息といきをついてから、強めていた語気をやわらげた。

「東京に帰るぞ、クソ親父」

「俺は、もう少しだけここにいるよ」

「母さんの墓に、頭を下げに来いって言ってるんだ。ここまではっきり言ってやらないと分からないなら、よっぽどの鳥頭とりあたまだな」

「凛汰、そんな言い方……相手は、お父さんなのに」

 凛汰のそでを引いた美月は、怯えが顔に出ていたが、りんまなじりを決していた。嘉嶋志津子の自死じしめぐる父子の会話に、よほどの勇気をかき集めて割り込んできたに違いない。崖からこちらを見守る礼司は、なぜか胸をかれた顔になり、ふっと微笑わらった。それから、両手の親指と人差し指でフレームを作り、凛汰と美月へかかげて見せた。

「いい顔だ。お前ら、お似合いじゃないか。〝姫依祭ひよりさい〟が始まる前に、この光景をおがめてよかったよ」

「話をらすな、クソ親父」

「あの……嘉嶋先生」

 美月が、礼司を呼んだ。頬を夕焼け色に染めて、視線を足元に彷徨さまよわせている。

「私、これから高校生になって、那岬町なみさきちょうの学生りょうに入ったら、櫛湊村にいる日は少なくなるから……〝姫依祭〟が終わったら、モデルの話、引き受けます。だから……凛汰と、もっとゆっくり話し合ってくださいね」

「モデル? 親父、どういうことだ?」

「ああ、美月をかせてほしいって頼んでたんだよ。……ありがとな、美月。その話なんだが、画家の役目は、俺から凛汰に引きごうと思う」

 突然の提案には、美月だけでなく凛汰も驚かされた。礼司だけは、飄々ひょうひょうたる態度をくずさずに、滔々とうとうと話し続けている。

「美月。これから俺たちは、それぞれの道を進んでいくわけだ。その結果、もし俺が美月と会えなくなったときは、凛汰に絵をかせてやってくれ。そいつは、俺に似て性格になんがあるけどな、すかしてるくせに直情径行ちょくじょうけいこうで、なかなかいい男だよ」

 礼司が、凛汰に向き直る。人の悪そうな笑みがいたについていたはずの父親は、油彩画に向き合っているときと同じ真顔まがおで、凛汰の目を見つめていた。

「凛汰。俺を超えたいか」

 声のすごみにされた凛汰は、答えられなかった。沈黙を、礼司の言葉が埋めていく。

「凛汰が櫛湊村まで来たのは、志津子のことだけが理由じゃないはずだ。凛汰は、画家の俺を東京に連れ戻して、今までのように師事しじしたい。そうだろ?」

「……ああ。そうだ」

「お前には、画家の才能があるよ。評価に見合うだけの努力もしてきた。目の前のことにじっくりと向き合う忍耐強さもきたえてきたし、観察眼も優れている。ただし、観察眼に関しては、まだまだ飛躍的ひやくてきに向上できるはずだ」

 礼司は、美月に視線を転じた。双眸そうぼうが、穏やかに細められる。

「例えば、美月はすじがいい。臨時の美術教師として、授業で見てきた美月の絵は、技術面で評価するなら、専門的な勉強をしてきた凛汰にはかなわないが、えがく対象の本質を、人間が決して抗えない諸行無常しょぎょうむじょうからめて、繊細せんさい筆致ひっちえがき出していたな」

「あ、ありがとうございます。でも、私、そこまで深く考えていません」

「それが感性かんせいというやつだ。――凛汰。美月の視点してんから学べ。美月の目に見えるものは、凛汰の目には見えていない。逆に、凛汰の目に見えるものは、美月の目には見えていない。互いの不足ふそくおぎない合えば、望む全貌ぜんぼうまで手が届く。お前なら、できるはずだ」

 凛汰は、思わず美月を見つめた。美月も、凛汰を見つめていた。確かに、櫛湊村で共に過ごした時間で、互いの個性の違いは実感したが、価値観の一致を認める場面も多々あった。何をきわめればおのれの成長に繋がるのか、凛汰にはピンと来なかった。

「親父、回りくどいぜ。俺が成長するために、他にもできることが何かあるなら、もっと具体的に教えろ。自分で考えろって言うなら、勝手にそうさせてもらうけど」

 答えをかす凛汰に、礼司はあきれの眼差まなざしを送ってきた。それから、なぜだか達観たっかんにじませた笑みで「それなら、もう一つ」と言って、今から口にすることは世界の真理だと言わんばかりの態度で、宣言した。

「誰かを、愛することだ」

 毒気どくけを抜かれた凛汰は、しばらく口がけなかった。やっとのことで「そう言う親父は、誰かを愛したことがあるのかよ」と言い返すと、礼司は愉快ゆかいそうにき出した。

「そこで志津子の名前を挙げないあたり、お前もなかなか非道ひどうだな」

 非道とののしられた凛汰は、悪態をこうとしたが、礼司の笑みがうれいを帯びていることに気づいてしまい、口をつぐんだ。調子を狂わされているあいだにも、礼司は表情から憂いを消し去って、傲岸不遜ごうがんふそんな笑い方をした。

「それが、画家・嘉嶋礼司が、画家の卵・嘉嶋凛汰に教えられる、最後のことだ」

「最後って……どういうことだよ」

「凛汰。俺をいしずえにして、俺を超えろ。できるだろ?」

 凛汰は、再び言葉に詰まった。即答できないということは、今の凛汰の実力では、まだ礼司には敵わないということを、誰よりもおのれが認めている証拠だった。気圧けおされた息子の葛藤かっとうを、礼司は一瞬で見抜いたようだ。そして、そんな調子では困ると言いたげに苦笑してから、存外ぞんがいに重い響きを持たせた声で、凛汰に発破はっぱを掛けてきた。

「お前は、本当に、それでいいのか?」

 隣の美月が、はっと息をむ声がした。横目に見た悲愴ひそうな表情は、何を意味しているのだろう。謎の答えを解き明かせないまま、凛汰は礼司に言い返した。

「親父の口癖くちぐせ、一年ぶりに聞いたな」

「……そうか。もう一年か。俺が口癖を言わなかった期間まで、きっちり覚えてやがるような息子なら、これから先も大丈夫だろ」

 赤い日差しを背に受けた礼司は、鳥居のこちら側に戻ってくると、ズボンのポケットから何かを取り出して、凛汰に向かって投げて寄越した。夕陽を照り返した銀色を、凛汰は左手で受け止める。握りこぶしを開くと、手のひらにはかぎが収まっていた。

「教員寮の鍵だ。俺が使わせてもらってる二〇二号室のな。まるんだろ?」

合鍵あいかぎは?」

「ない」

「これを持って俺が外出したら、親父が寮に入れなくて困るだろ」

「困らないさ。きっと、いや、絶対に。あとは頼んだぞ、凛汰」

 礼司は、悠々ゆうゆうと歩き去ろうとする。向かう先の下り坂は、さっき美月が話していた参道だろう。ハナカイドウが咲き乱れる下界げかいが、ずいぶん遠くに見える。

「頼んだって……待てよ、親父!」

「何だ、寂しくなったのか? 凛汰もまだまだ子どもだな」

「そんなわけあるか。親父は――何が目的で、櫛湊村に来たんだ?」

 坂道を下りかけていた礼司が、立ち止まった。波の音が、やけに大きく耳につく。凛汰と美月に背を向けたまま、低い声で告げられた答えは、この櫛湊村では決して生きていけないほど冒涜的ぼうとくてきで、傲慢無礼ごうまんぶれいなものだった。

「神に奪われた俺のものを、奪い返しに来たんだよ。誰かがやらなければならないことを、成し遂げることで、な」

「何を、言って……」

 問いただそうとした瞬間に、礼司が凛汰を振り返った。そして、茜色の光の中で、無邪気むじゃきな子どものように笑った。

「じゃあな、凛汰、美月。〝姫依祭〟で会おうぜ。俺は、お前たちを愛しているよ」

 愛している――おそらく人生で初めて言われた台詞せりふが、追いかけようとしていた凛汰の足を、神域の地面にめる。美月も、目をしばたいていた。礼司は、満足げな笑い声を立ててから、もう二度と後ろを振り向かずに、坂道を一人で下りていく。大きな背中が小さくなり、やがて視界から消えた頃、美月が茫然ぼうぜんの声でささやいた。

「今日の嘉嶋先生、ちょっと変だった」

「親父は、常に変だけど……まあ、そうだな」

 凛汰も、茫然と返事をしてから、右手に握りしめていた封筒と、左手に授けられた鍵を見下ろした。海から森に抜ける風は、村に到着した頃よりも冷えている。黄昏時たそがれどきまで、あと少しだ。

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