1-7 献花
「私も、そろそろ戻らないといけないけど……その前に、
赤みを帯び始めた空の下で、美月は
「この先に、
何度か耳にした木船とは、
「美月。本当は〝姫依祭〟に出たくないんだろ」
「でも、今の私には、ここしか生きる場所がないよ」
御山を登る美月は、凛汰を振り返らなかった。森の出口で輝く夕日を目指して、前へ前へと進み続ける。
「村の皆さんは、私のことを『美月ちゃん』って呼んで、
「
「分からない。でも」
美月は、やっと振り返った。転がした
「居場所がない私に、居場所を与えてくれた皆さんのことを、好きになりたいなって思ってるよ。今はまだ、心からそう思うことができなくても」
前方に向き直った美月は、歩調を早めた。凛汰と二人で過ごせる時間は、残り
「みんな、いい人だと思う。だから、私も〝憑坐さま〟のことを勉強して、
「へえ」
「美月の言う通り、クソ親父にも人の心があったんだな」
「またそんなことを言ってる。凛汰は、とっくに知ってたんでしょ? 嘉嶋先生の息子なんだから」
また振り返った美月も、ふわりと笑った。古めかしい村の養女ではなく、特殊な役目を
鎮守の森を二人で抜けると、ざあっと潮風が強く吹きつけた。御山の一角を僅かながら
この先に地獄が待ち受けていたとしても、何ら不思議ではないほど赤く染まった、櫛湊村の
赤茶けた頭髪が、
「親父……」
凛汰の呼び掛けを合図にすると、あらかじめ決めていたかのように――
「よく来たな。凛汰。美月に連れてきてもらったのか」
「嘉嶋先生。やっと見つけた」
美月が、ホッとした笑みを見せた。歯を食いしばった凛汰は、ジャケットのポケットに手を入れると、スマホと共に持ち歩いていた封筒を、
「親父。どういうつもりだ」
「久しぶりに会った父親に、真っ先に言う
「とぼけるな。何が『〝
凛汰は、ポケットから取り出した封筒を、礼司によく見えるように突きつけた。
「俺は、東京を
「凛汰……?」
「美月。凛汰と仲良くなったのか」
「えっと……はい。村には同い年の子がいないから、嘉嶋先生の息子さんが来てくれて、私は嬉しかったです」
「……なるほど、そうきたか。凛汰も、知恵を
「余計なことを言うな。俺の言葉に、返事をしろ」
凛汰が
「何かを奪われたことなんか、一度もない……か。俺は、お前からさまざまなものを奪ったとは思わないのか?」
「例えば、何を奪ったっていうんだよ」
「
「今さら何を言ってるんだ? 変人の画家が父親になった時点で、確かに『平穏な生活』との
「帰れば済む話じゃなくなったことは、誰よりもお前が知っているはずだ」
「……母さんのこと、知ってたのか?」
「いや、知らなかったけど、分かってたよ。
「分かってたのに、帰らなかったのか」
「俺の姿が見えないくらいで
「ああ、俺も同感だ。だけど、それでも
大きく息を吸った凛汰は、深く
「東京に帰るぞ、クソ親父」
「俺は、もう少しだけここにいるよ」
「母さんの墓に、頭を下げに来いって言ってるんだ。ここまではっきり言ってやらないと分からないなら、よっぽどの
「凛汰、そんな言い方……相手は、お父さんなのに」
凛汰の
「いい顔だ。お前ら、お似合いじゃないか。〝
「話を
「あの……嘉嶋先生」
美月が、礼司を呼んだ。頬を夕焼け色に染めて、視線を足元に
「私、これから高校生になって、
「モデル? 親父、どういうことだ?」
「ああ、美月を
突然の提案には、美月だけでなく凛汰も驚かされた。礼司だけは、
「美月。これから俺たちは、それぞれの道を進んでいくわけだ。その結果、もし俺が美月と会えなくなったときは、凛汰に絵を
礼司が、凛汰に向き直る。人の悪そうな笑みが
「凛汰。俺を超えたいか」
声の
「凛汰が櫛湊村まで来たのは、志津子のことだけが理由じゃないはずだ。凛汰は、画家の俺を東京に連れ戻して、今までのように
「……ああ。そうだ」
「お前には、画家の才能があるよ。評価に見合うだけの努力もしてきた。目の前のことにじっくりと向き合う忍耐強さも
礼司は、美月に視線を転じた。
「例えば、美月は
「あ、ありがとうございます。でも、私、そこまで深く考えていません」
「それが
凛汰は、思わず美月を見つめた。美月も、凛汰を見つめていた。確かに、櫛湊村で共に過ごした時間で、互いの個性の違いは実感したが、価値観の一致を認める場面も多々あった。何を
「親父、回りくどいぜ。俺が成長するために、他にもできることが何かあるなら、もっと具体的に教えろ。自分で考えろって言うなら、勝手にそうさせてもらうけど」
答えを
「誰かを、愛することだ」
「そこで志津子の名前を挙げないあたり、お前もなかなか
非道と
「それが、画家・嘉嶋礼司が、画家の卵・嘉嶋凛汰に教えられる、最後のことだ」
「最後って……どういうことだよ」
「凛汰。俺を
凛汰は、再び言葉に詰まった。即答できないということは、今の凛汰の実力では、まだ礼司には敵わないということを、誰よりも
「お前は、本当に、それでいいのか?」
隣の美月が、はっと息を
「親父の
「……そうか。もう一年か。俺が口癖を言わなかった期間まで、きっちり覚えてやがるような息子なら、これから先も大丈夫だろ」
赤い日差しを背に受けた礼司は、鳥居のこちら側に戻ってくると、ズボンのポケットから何かを取り出して、凛汰に向かって投げて寄越した。夕陽を照り返した銀色を、凛汰は左手で受け止める。握り
「教員寮の鍵だ。俺が使わせてもらってる二〇二号室のな。
「
「ない」
「これを持って俺が外出したら、親父が寮に入れなくて困るだろ」
「困らないさ。きっと、いや、絶対に。あとは頼んだぞ、凛汰」
礼司は、
「頼んだって……待てよ、親父!」
「何だ、寂しくなったのか? 凛汰もまだまだ子どもだな」
「そんなわけあるか。親父は――何が目的で、櫛湊村に来たんだ?」
坂道を下りかけていた礼司が、立ち止まった。波の音が、やけに大きく耳につく。凛汰と美月に背を向けたまま、低い声で告げられた答えは、この櫛湊村では決して生きていけないほど
「神に奪われた俺のものを、奪い返しに来たんだよ。誰かがやらなければならないことを、成し遂げることで、な」
「何を、言って……」
問い
「じゃあな、凛汰、美月。〝姫依祭〟で会おうぜ。俺は、お前たちを愛しているよ」
愛している――おそらく人生で初めて言われた
「今日の嘉嶋先生、ちょっと変だった」
「親父は、常に変だけど……まあ、そうだな」
凛汰も、茫然と返事をしてから、右手に握りしめていた封筒と、左手に授けられた鍵を見下ろした。海から森に抜ける風は、村に到着した頃よりも冷えている。
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