1-4 託宣の油彩画

 美術室に入ると、馴染なじみの香りが鼻孔びこうを抜けた。油絵具あぶらえのぐの甘い匂いがただよう部屋は、他の教室同様に薄暗うすぐらく、けた外光を受けた石膏像せっこうぞうが、使う者がいない机と椅子に、うつろな眼差まなざしを向けていた。美月みづきは、美術室を内側から施錠せじょうすると、黒板こくばんの隣まで歩いていき、閉ざされた扉の前で立ち止まった。この先が、美術準備室なのだろう。

凛汰りんたにとって、お父さんってどんな人?」

 振り返って問う美月の目には、かすかな不安が揺れていた。出会ったときに凛汰が伝えた家族の話を、ひそかに気にしていたのだろう。嘉嶋志津子かしましづこの話を掘り下げても構わないが、今は嘉嶋礼司かしまれいじについて、別の側面そくめんから語ることにした。

「一流の画家として、一目いちもく置いてる。油彩画ゆさいがく日本人画家の中で、屈指くっしの実力を持つ男だ。『人の心と引き換えに、至高しこうの画力を手に入れた鬼才きさい』って世間せけんの評価は、言いみょうだと思ってるぜ」

「人の心は……あると思う。だって、嘉嶋先生は、東京に息子がいることを、私たちに話してたんだから」

「それだけか?」

「え?」

「嘉嶋礼司には、東京に息子がいる。それ以上の情報を、親父は誰かにしゃべったか?」

「……ううん。凛汰の名前も、年齢も、私たちは知らなかった。小さな村だから、もし嘉嶋先生が誰かに喋ってたら、みんなに伝わってたと思う」

「そうか」

 凛汰が淡白たんぱくに頷くと、美月は痛ましげにまゆを下げたが、嘉嶋家の事情に踏み込むことを躊躇ちゅうちょしたのか、寂しそうに口をつぐんだ。そして「ここから先は、念のため小声でお願い」と述べて、扉を開けて中に入る。凛汰も、足音を忍ばせて美月に続いた。

 美術準備室は、想像よりもはるかにせまかった。美術室の半分以下のスペースに押し込まれた書籍と書類が、机で雪崩なだれを起こしている。父の部屋にそっくりだと気づいたとき、郷愁きょうしゅうめいた邪念じゃねんが胸をよぎったから不快ふかいだった。

 室内の最奥さいおうに、目を向けると――イーゼルに載った油彩画に気づき、息をんだ。美月が、凛汰に頷いて見せる。凛汰は、大股おおまたでイーゼルに近づいた。

 その油彩画には、夜を塗り込めたような暗黒あんこくが拡がっていた。赤、だいだい、黄、黄緑、緑、青、紫。世界を構成する色彩すべてを、頑是がんぜない赤子が手のひらで出鱈目でたらめき混ぜたようなやみ色が、キャンバスからきよらかな日差しをうばっている。夜闇に放り込まれた人間の目が、やがて暗さに順応するように、大海たいかいのぞ断崖絶壁だんがいぜっぺきと、風雨でいたんだ丹色にいろ鳥居とりいが、だまし絵のように浮かび上がり、網膜もうまくで鮮やかにぞうを結ぶ。架空かくうの世界が拡張して、潮風しおかぜが頬を撫でた錯覚さっかくおぼれたとき――集合写真のような横並びでたたずむ人間たちが、凛汰を一斉いっせいに見つめ返した。

 絵にかれた人間は――左端から、海棠浅葱かいどうあさぎ、海棠楚羅そら、海棠美月。浅葱はむらさき色のはかま白衣はくえ姿で、楚羅と美月は海棠家で出会ったときの装いだ。神職しんしょく一家の三人は、それぞれが暗い顔をしていた。浅葱の顔色は、名はたいを表す青白さで、隣に寄り添う楚羅の笑みは、狐狸妖怪こりようかいそのものだ。くちびるに引いたべにの赤さが、生き血のように毒々どくどくしい。巫女装束みこしょうぞくまとう美月だけは、誰かに助けをうように、瞳にかそけき光を宿やどしていた。

 美月から少し距離を開けた隣には、セーラー服を着た蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかかれていて、鑑賞者かんしょうしゃ悲愴ひそう形相ぎょうそうにらんでいる。目尻めじりに涙を光らせた女子生徒の隣には、帆乃花と同じ背丈せたけの少年が、学ラン姿で立っていたが、かさねた紅葉もみじのような両手によって、顔の上半分が隠れていて、えがいた口元だけがのぞいている。

 少年少女の真後ろには、先ほど会話した大柴誠護おおしばせいごも立っていて、歯列しれつき出しにして笑う顔からは、理性の一切いっさいがれていた。獰猛どうもうけもののごとき教師の左腕に、サスペンダー付きのズボンと白シャツ姿の男が密着している。大柴おおしばと体格が似ている男は、緩いウェーブが掛かった長髪を、後頭部で無造作むぞうさにくくっていた。右手に手帳、左手にペンを持っていて、ハゲタカのような執念深しゅうねんぶかさが、丸眼鏡まるめがねの奥でぎらついた。

 ――気味が悪い絵だった。すみのように黒い悪意あくいに絵筆をひたして、個々がかかえる負の感情を、はち切れんばかりにふくらませて、最大限に誇張こちょうしてえがいたような油彩画は、ながめるだけで精神を汚染おせんされそうなおぞましさがちていた。背筋を、冷や汗が伝い落ちる。ひと呼吸を置いた凛汰は、無理やり笑った。

「クソ親父の奴、一体どういうつもりなんだ……?」

 いびつ精緻せいち絵画かいがの右側で、怪しげに笑う眼鏡の男の隣には――嘉嶋礼司も立っていた。赤茶けた髪を夜風に遊ばせた男は、質素なシャツとズボン姿だが、はすに構えてたたずむだけで、天上天下唯我独尊てんじょうてんがゆいがどくそんの精神がけて見える。

 そして、そんな礼司の隣には、見覚えのある少年がかれていた。体躯たいくは小柄で、背丈は決して高くない。だが、鑑賞者をめつけている不遜ふそんな態度が、少年の存在感を誰よりも強く大きくした。父親に似ていない童顔どうがんは、母親ゆずりだということを、凛汰は誰よりも熟知じゅくちしている。琥珀こはく色の瞳には、鋭利えいりな正義感が燃えていて、人でなしたちが蔓延はびこ地獄じごくから、絶対に逃げびるという意思を感じた。

「タイトルは、キャンバスの裏に書いてるよ」

 美月が、神妙な声で言った。凛汰は、無言でキャンバスを持ち上げて、油彩画の裏側を覗き込む。鉛筆で書き込まれたタイトルを、いぶかしみながら読み上げた。

「……『楽園の系譜けいふ』……どういう意味だ?」

「誰にも分からないの。でも、〝憑坐よりましさま〟のご加護によって、安寧あんねいたもたれる土地……って意味合いで、櫛湊くしみなと村のことを『楽園』って呼ぶ村人は多いよ」

「巫女の美月には悪いけど、俺には共感できない思想だな」

「気にしないで。私も……ここが楽園だとは、思えないから」

 美月は、凛汰を見つめた。美術準備室の密談みつだんは、よそ者の凛汰のためだけでなく、美月自身のためでもあったのだ。こちらには共感できたので、凛汰は口のを持ち上げた。美月も、薄い笑みを返してきた。

「この絵を見たことがある人は、凛汰と会ったときに、一目ひとめで気づいたと思う。嘉嶋先生が描いた絵は、凛汰が櫛湊村に来ることを、まるで予言してたみたいだから」

「別に、これは予言なんかじゃない」

 小声で吐き捨てると、美月は不思議そうな顔をしたが、気を取り直した凛汰が「絵は、いつからここにあるんだ?」と訊ねると、「先月」とすぐに答えてくれた。

「嘉嶋先生が、この絵を描いてた時期に、二人目の〝まれびと〟が村に来たの。嘉嶋先生が一人目の〝まれびと〟で、凛汰は三人目の〝まれびと〟だよ」

「二人目の〝まれびと〟は……こいつか」

 凛汰は、絵に描かれた丸眼鏡の男をゆびさした。この男と、蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかの隣で顔を隠している少年だけは、まだ村で顔を見ていない。後者は『帆乃花の弟』だと踏んでいるので、消去法で残る〝まれびと〟は一人だけだ。

「うん。その人は、三隅真比人みすみまひとさん。東京の記者きしゃさんで、この絵の持ち主なの」

「絵の持ち主? いや、そもそも東京の記者が、なんでこんな秘境ひきょうにいるんだ?」

「村の伝統行事に興味があって、取材のために通ってるの。三隅さんは、嘉嶋先生が暮らしてる教員寮きょういんりょうに部屋を借りてるから、あとで凛汰も会えるよ。絵の持ち主になった経緯けいいは、嘉嶋先生と意気投合いきとうごうしたからで……ゆずられた絵を気に入った三隅みすみさんは、『住人の皆さんが、絵を自由に鑑賞かんしょうできるように』って、この絵を中学校に飾ったんだけど……住人の忌避感きひかんと反発が強くて、美術準備室に追いやられたの」

「……クソ親父が村人たちに嫌われた理由は、十中八九じゅっちゅうはっくこれだな。その記者も、良かれと思ってやったのか、確信犯かくしんはんでやったのか……どちらにせよ、親父と意気投合する時点で、マトモじゃないことは確かだな」

「えっと……三隅みすみさんも、嘉嶋先生と一緒で、根は悪い人じゃないと思うけど……とにかく、あまりにも怖い絵だから、かれた人たちの間でも騒ぎになったんだ。特にひどいかれ方をした大柴おおしば先生は、ショックのあまり教員寮で寝込ねこんだらしくて……そのことで帆乃花ちゃんも怒ってたけど、帆乃花ちゃん自身はかれ方がマシだったから、早めに機嫌きげんを直したみたい」

薄情はくじょうな奴だな。で、帆乃花が『キモい』ってひょうした絵を、捨てろ、燃やせ、って騒ぐ村人はいなかったのか?」

「いないよ。本心は、燃やしたいくらいに嫌だと思ってるはずだけど……この絵が〝まれびと〟の三隅さんの所有物で、三隅さんが『村にかざる』と決めた以上、〝まれびと〟をもてなす立場の私たちは、さからうわけにはいかないから。だから、この絵について話すことは、村の皆さんにとってタブーなの」

「……へえ。早まって焼き捨てなくてよかったな。この絵、相当な値がつくぞ。弁償金は、この村を潰すくらいのがくを覚悟したほうがいいぜ」

「そ、そんなに……?」

 怖気おじけづいた様子の美月は、油彩画から身を引いた。それから「凛汰は、この絵を見てどう思う?」と訊いてきたので、凛汰は「いい絵だ」と即答そくとうした。

「村人の忌避感と反発なんか、俺にとってはどうでもいい。この絵には、鑑賞者の魂を〝向こう〟へ連れ去ろうとする引力がある。それに、何らかのメッセージが込められていると見て間違いないな。人物を横並びでえがいた構図も、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐ばんさん』をイメージさせるし、この絵に描かれた九人の中に、キリストを裏切うらぎったユダが交ざっていたとしても、不思議じゃないくらいの悪人面あくにんづらそろってる」

「あ、悪人面って……」

「美月のことを言ってるわけじゃない。お前は、普通の人間として描かれてるだろ。あと、俺もな。その理屈が正しいなら、親父が『ユダ』として告発こくはつしたい裏切り者は、俺と美月を除いた七人の中にいるってことか。いや、作者の親父も抜いて六人か……?」

「裏切り者……仮にそんな人がいたとして、その人が私たちをどう裏切るのか、私には想像もつかないけど……凛汰って、絵のことになると楽しそう。『一流の画家を目指す』って言葉、本気なんだね」

 美月は、なぜか嬉しそうに微笑んだ。不意打ちを食らった凛汰は、「当然だ」と応じてから、改めて美月に問いかける。

「なんでこんな絵を描いたのか、親父にはただしたか?」

「うん。この絵の場所、海棠神社の裏手うらての山を登った先にある崖なんだ。〝姫依祭ひよりさい〟も、そこでり行う予定なの。村の神域しんいきえがかれた以上、海棠家としては、嘉嶋先生の絵を見過ごすわけにはいかないから……浅葱さんと楚羅さんが、嘉嶋先生を神社に呼んで、理由を訊いたの。でも、嘉嶋先生は――『俺は〝憑坐よりましさま〟のおおせのままに、神の啓示けいじ絵筆えふでに乗せて、託宣たくせん俗世ぞくせに伝えたまで』って言って、楽しそうに笑ってた」

「神の啓示なんて、嘘っぱちだ。村人が信奉しんぽうしてる〝憑坐さま〟に対する敬意けいいが、この絵には微塵みじんも感じられない。それが分かるから、村人たちも拒絶したんだろ」

「楚羅さんも、そう言ってた」

「楚羅さんも? 当主とうしゅの浅葱さんじゃないんだな」

「あ、うん……現在〝憑坐さま〟の巫女をつとめているのは、楚羅さんだから。〝憑坐さま〟が関わることは、〝憑坐さま〟のお声を俗世ぞくせに伝える巫女のほうが、宮司ぐうじよりも立場が上にあつかわれるの。楚羅さんは、お役目を十八年もになってきたんだよ」

「一人で、十八年も?」

「うん。十八年の間に、新しい巫女を〝姫依祭〟で何人も立ててきたけど、誰も長続きしなかったんだって。十九年前には、大きな事故もあったらしくて……」

 言葉をにごした美月は、唇に人差し指を立てて、凛汰をじっと凝視ぎょうしした。

「ここから先の話は、絶対に秘密ね。凛汰って、気になったことは村の皆さんに根掘ねほ葉掘はほり訊いて回りそうだから、私が先にこっそり伝えておこうと思ったの」

「なんで、村人に訊いて回ったら駄目なんだよ」

「……昔の櫛湊村には、私みたいに海棠家の養女になった、睡依すいさん、って娘がいたんだけど……睡依さんの話をすることも、この村ではタブーだから。睡依さんは、十九年前の〝姫依祭〟の日に、行方不明になったんだって」

 ――行方不明。凛汰は「経緯は?」と質問したが、美月は首を横に振った。

「その日は雨が降っていて、睡依さんは荒れ狂う海に身を投げた……ってことは聞いてる。でも、当時を知る村人は、あの事件を思い出したくないから、過去のことは訊かないで……って、私が海棠家に来てすぐの頃に、浅葱さんと楚羅さんに言われたの。他に、私が睡依さんについて知ってることは……十九年前の〝姫依祭〟で、睡依さんのお姉さんが、〝憑坐さま〟の巫女に選ばれたことくらいかな」

「つまり……楚羅さんにとって、先代せんだいの〝憑坐さま〟の巫女に当たる人か」

「そうだよ。〝憑坐さま〟の巫女を務めた期間は、とてもみじかかったらしいけど……名前は、姫依ひよりさん。今日のお祭りと、同じ名前の女性だよ」

「〝姫依祭〟と、姫依……」

 村の伝統行事にあやかって、神事の名前を娘に与えたのだと推測できるが、どうにも不吉な印象をいだいた。美月も同じ考えなのか、物憂ものうげな視線を油彩画に落とした。

「海棠家って、私みたいな養女が多い家なんだって。神事を続けていく使命を持つ家だから、子孫と巫女をやしてはいけない、って決めてるみたい」

「だからって、外部の血を取り入れていいものなのか?」

「大丈夫だよ。〝憑坐さま〟は、血筋ちすじではなく、家にくってとらえられてるの。……それじゃ、そろそろ教員寮に行こっか。付き合ってくれて、ありがとう」

 美月は、語り疲れた顔で笑った。美術準備室を出ようとする背中で、長く伸ばした黒髪が揺れる。きっと美月は、凛汰が知らず知らずのうちに村人たちの怒りを買わないように、己の知識を分け与えてくれたに違いない。

 十五歳の少女に、これほどまでに気を使わせる村は、少なくとも凛汰にとって、やはり楽園には程遠い。美術準備室を出る前に、村の真実をあばき立てるような油彩画を一瞥いちべつしてから、凛汰は美月のあとを追った。

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