1-3 櫛湊第三中学校

 櫛湊くしみなと第三中学校は、凛汰りんたの予想以上に老朽化ろうきゅうかが進んでいた。昇降口しょうこうぐちで美月から受け取ったスリッパをいて、古びた校舎に踏み込むと、木の床がきしる音が響き渡る。廊下の窓側が山に面している所為か、日差しが入らず薄暗かった。

「この学校、教師は何人いるんだ?」

「四か月前から来てくださった嘉嶋かしま先生と、全教科でお世話になってる先生の二人だけど……隣町の学校と兼任けんにんの校長先生を入れたら、三人だよ。その校長先生が、櫛湊村まで通えなくなっちゃうから、統廃合とうはいごうの話が進んだみたい」

 美月の説明を聞きながら、凛汰は校舎の一階をながめた。昇降口の隣に保健室を見つけたが、美月の話を聞く限り、養護教諭ようごきょうゆもいないのだろう。廊下を突き当たりまで進んだ美月は、職員室の引き戸をノックした。

「失礼します……誰もいない。校舎に嘉嶋かしま先生がいるとしたら、二階かな」

 わずかな人員じんいんで使うには広すぎる部屋を、凛汰も美月の隣からのぞき込んだ。壁に並んだキーフックには、いくつものかぎがぶら下がっている。

「田舎って、戸締とじまりが甘いって聞いたことがあるけど、この村ではどうなんだ?」

「ちゃんとしてるよ。……あ、でも学校は開けっ放しかも。夜中にしのび込もうと思ったら、たぶん誰にも気づかれずにできちゃうよ」

 美月は、屈託くったくのない笑みを初めて見せた。だが、職員室をはなれて階段を上がったところで、表情に若干じゃっかんかげりが生まれた。

「どうした?」

「えっと……教室に、誰かいるみたい。たぶん、補習ほしゅうを受けに来た後輩こうはいの子。……〝姫依祭ひよりさい〟でも会えるけど、今のうちに凛汰を紹介しておこうかな」

 気が進まない様子の美月は、くもりガラスから明かりがれる教室の前で、立ち止まる。そして、意を決した様子で引き戸をスライドさせて、教室に入った。

帆乃花ほのかちゃん。体調は、もういいの?」

海棠かいどう先輩、何しに来たの?」

 海棠、の部分に力を込めたタメ口が、刺々しく響き渡る。廊下に残った凛汰の元に、赤裸々せきらら嘲笑ちょうしょうも聞こえてきた。

大柴おおしば先生に会いに来たの? 先輩が春休み中に押しかけてきたら、対応で時間を取られる先生が、かわいそうだと思いませんかぁ?」

 げんなりした凛汰は、よほど『じゃあ、補習を受けに来たお前はどうなんだ?』とどくづこうか迷ったが、美月が顔をくっと上げて、反論を試みようと頑張っている姿に気づいたので、ひとまず静観せいかんすることにした。

「わ、私がここに来たのは、大柴おおしば先生に会うためじゃなくて……嘉嶋先生の息子さんを、学校に案内するためなの」

 凛汰も教室に踏み込むと、教卓きょうたくの正面の席に一人きりで座る少女が、つり目を意外そうに見開いた。ショートボブの黒髪が、動作に合わせてつややかにれる。

「……〝まれびと〟? また? あはっ、嘉嶋先生の子どもが、お父さんに会うために、わざわざこんなド田舎いなかまで来たってこと? ご苦労さまでーす」

帆乃花ほのかちゃん、そんな言い方は失礼だよ。凛汰、この子は蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかちゃん。来週から三年生になる子で……」

「失礼って何? 言いたいことを好きなように言って、何が悪いの? ま、村のジジババ共がうるさいから、海棠かいどう神社の養女さまのおおせのままに、仕方なくしたがってあげるけどね」

 蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかという女子生徒は、嫌味いやみたっぷりに言い放った。黙って聞いていた凛汰は、美月が学校を忌避きひした理由を察したが、もう少し探りを入れてみた。

「美月。さっき、こいつの体調を心配してたな。どこか具合が悪かったのか?」

「うん。昨日、村のみんなが〝姫依祭ひよりさい〟の準備で集まったときに、帆乃花ちゃんが来てなくて、きょうだいの梗介きょうすけくんに訊いてみたら、風邪を引いて寝てるって……」

「あれぇ、海棠先輩、今日は東京の私服じゃないんですかぁ? 卒業式の翌日に、授業でいた絵を引き取りに来たときは、お洒落しゃれな東京の服を着て、大柴先生に見せびらかしてたでしょー?」

「あれは、元から持ってた服だってば……大柴先生に会ったのも偶然で、用があったのは美術室なのに……」

「……なるほどな。こいつの所為か」

 海棠家を出る前に、美月が私服ではなく制服に着替えた理由が、よく分かった。養父の海棠浅葱かいどうあさぎも、二人の不和ふわを知っているから、言葉を意味深ににごしたのだ。馬鹿馬鹿しくなった凛汰は、スカートのたけが異様に短い帆乃花に向けて、率直な言葉を口にした。

「卒業した学校に、どんな格好で来ようと自由だろうが。美月が東京で買った私服がうらやましいからって、よそ者をいじめてんじゃねえよ。田舎者いなかもの丸出しのクソダサ女」

 帆乃花は、あんぐりと口を開けた。美月が、愕然がくぜんの声で「凛汰、言い方……」とうったえてくる。無視した凛汰は、鬱憤うっぷんを晴らし続けた。

「自己紹介がまだだったな。俺は、東京から来た嘉嶋凛汰だ。来週から東京の学校に通う高校一年生で、お前も知っての通り、東京からド田舎にやって来た画家・嘉嶋礼司かしまれいじの息子だ。東京に帰るまでの短い間だけど、よろしくな」

「海棠先輩っ、こいつ何! あおってきてウザいんだけど! 〝まれびと〟って、こういう野蛮やばんやつらしかいないわけっ?」

「言いたいことを好きなように言って、何が悪いんだ? お前が、さっき美月に言った台詞せりふだ。お前の理屈にのっとって、俺も言いたいことを好きなように言っただけだ」

 顔を真っ赤にして怒鳴どなっていた帆乃花は、どうやら意表いひょうかれたらしい。「あははっ」とアルトの声を弾けさせると、気怠けだるげに席を立った。

「あんた、面白いじゃん。でも、残念でした。嘉嶋先生、学校にはいないよ」

「そうか。それなら、教員寮をさがさせてもらう」

「嘉嶋先生に、何の用事があるの?」

「連れ戻すんだよ。東京にな」

「じゃあ、美術の先生、辞めるってこと?」

「そういうことになるな」

 中学校の人員不足は、櫛湊村の問題だ。嘉嶋礼司を東京へ連れ戻すことに、凛汰は引け目を感じない。わりを食う学生たちには、うらまれる覚悟を決めていたが、帆乃花が「やった」と快哉かいさいを叫んだので、凛汰は「へえ」と相槌を打った。

蛇ノ目じゃのめも、俺の親父が嫌いなんだな」

「帆乃花でいいよ。蛇ノ目なんて名字、可愛かわいくなくて、大っ嫌いだから。それに、嘉嶋先生のことは嫌ってないよ。村の外の話を教えてくれたし、授業も退屈じゃなかったし。でも、あの人……キモい絵を描くし、何を考えてるのかよく分かんないし……あたしたちの生活を、滅茶苦茶に壊しに来たような、危険な人って感じがする」

「……へえ」

 再び相槌を打った凛汰は、小さく笑った。帆乃花が、胡乱うろんな目で睨んでくる。

「何よ」

「いや、詩的な表現が中二っぽいなって思っただけ。あ、来週から中三か」

「……やっぱりムカつく! 死ね! 海棠先輩も、何見てんの! 用が済んだなら、早く出ていって!」

「ご、ごめんね。凛汰、もう行こう」

「はいはい、邪魔したな」

 がらんどうの教室を出る前に、振り返った凛汰が「ありがとな。帆乃花のおかげで、親父の暮らしが、また少し分かった」と礼を言うと、激昂げっこうしていた帆乃花は黙り込み、やがて苦笑めいた顔で吐き捨てた。

「あんたみたいな変人なら、あたしの弟と仲良くできるかもね。あと、さっき海棠先輩のことを『よそ者』って言ってたけど、信仰心があつすぎるジジババ共に聞かれたら、袋叩ふくろだたきにされるかもよ? 海棠神社の養女さまで、次期〝憑坐よりましさま〟の巫女に選ばれるかもしれない女が、よそ者なわけないんだから」

「……。ああ。よく分かったよ」

「凛汰ってば! 帆乃花ちゃん、じゃあね!」

 美月に腕を引かれた凛汰は、教室をあとにした。ぴしゃりと引き戸を閉めた美月は、大きな溜息を吐いている。

「怖かった……びっくりした……」

「あれくらいでビビるなよ。相手は年下のガキだろ」

「怖いのは、凛汰の言い方! びっくりしたのは、帆乃花ちゃんの態度……帆乃花ちゃん、どうして凛汰を許したのかな。私、まだ信じられない……あんな言い方をされたら、いつもなら絶対に、手がつけられないくらいに怒るはずなのに……」

 声を潜めた美月は、心底驚いているようだ。混乱を鎮めるように黙してから、美月なりに謎の答えを見つけたのか、凛汰を見つめて、薄く笑った。

「凛汰が、村の外を知ってる人で、話しやすい人だからかな……私も、いつかは凛汰みたいに、帆乃花ちゃんと話せるようになれるかな」

 美月が持っていたはずの自信は、帆乃花と学生生活を送る日々の中でも、少しずつ剥がされていったに違いない。目を逸らした凛汰は、ぼそりと言った。

「……さあな。俺だって、嫌われてると思うぜ」

「気を使わなくてもいいのに。あ、でも、お礼は言わないからね」

「ん?」

「さっきの暴言のこと。凛汰は、私のためじゃなくて、帆乃花ちゃんに言った通り、自分が言いたいことを、好きなように言っただけでしょ? なんとなく、凛汰がどんな人なのか、少しずつ分かってきた気がする」

 そう言って笑った美月の顔は、今までに見た中で最も明るかった。凛汰が返事にきゅうしていると、美月はしかつめらしい顔を作り、声のボリュームをさらに落とした。

「でも、あんな言い方、もうしちゃだめだからね。さっきの暴言は、私と凛汰と帆乃花ちゃんの、三人だけの秘密にして」

「な、なんでだよ」

「帆乃花ちゃん、ナイーブな子だもん。凛汰の言葉が村じゅうに広まることを、本心ではすごく恐れてるよ。たとえ相手が家族でも、あの子なら隠すと思うから」

「……お人好しだな。なんで、あんな奴を庇うんだか」

 凛汰が嘆息したとき、ちょうど廊下を歩いてくる人影を見つけた。相手もこちらに気づいたようで、少し焦った声音のテノールが、凛汰と美月に向けられた。

「美月ちゃん。校内に部外者を勝手に入れちゃ、駄目じゃないか」

 美月を目指して近づく男は、いかにも教師然としたシャツとズボンとベスト姿で、年齢は三十歳前後だろうか。体格は中肉中背ちゅうにくちゅうぜいで、どこにでもいそうな平凡へいぼん極まりない風貌ふうぼうだが、清潔感がある身なりと、面立ちに一匙ひとさじの甘さを足した垂れ目が、悪辣あくらつな女子中学生の心を射止めたのだろうか。凛汰には理解できないが、呼び声を受けた美月は「大柴おおしば先生。こんにちは」と挨拶して、蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかが何度も名前をげた教師と向き合い、申し訳なさそうに微笑んだ。

「驚かせてしまって、すみません。でも、この人は部外者ではありません。嘉嶋先生の息子さんで……」

「どうも、嘉嶋凛汰です。親父の同僚どうりょうの方ですね」

 紹介の言葉をさえぎった凛汰は、美月の真ん前に進み出た。大柴は、やや面食らった様子で足を止めると、一瞬だけ不気味そうに表情をかたくしてから「ああ、君が……嘉嶋先生に息子がいるって話は、本当だったのか」と呟いた。そして、失礼な物言いだと反省したのか、ばつが悪そうな笑みをこしらえた。

「事情を知らなくて、すまなかったね。僕は、教師の大柴誠護おおしばせいごです。嘉嶋先生には、いつもお世話になっています。凛汰くんは、美月ちゃんと歳が近いのかな?」

「同い年です。それじゃあ、俺たちは急ぐので」

「俺たち、って……美月ちゃんと、どこに行くのかな?」

「私たち、嘉嶋先生をさがしているんです。学校にいないことは、さっき帆乃花ちゃんから聞いたので、これから教員寮を当たってみます」

「そうなんだ。美月ちゃん、僕も一緒に行こうか? ほら、〝まれびと〟には説明しないといけないことが、たくさんあるだろうからさ」

「いえ、大丈夫です。大柴先生は、帆乃花ちゃんの勉強を見てあげなくちゃ」

「ああ、そうだね……補習を受け持っていたんだった。僕も〝姫依祭〟のことで頭がいっぱいで、今日は上の空みたいだ」

「先生も、木船きぶねかつぐんでしたっけ。それじゃあ、また〝姫依祭〟で」

「うん、祭りの夜に会おう。凛汰くんも、あとでね」

 凛汰に笑いかけた大柴は、教室の引き戸を開けて、室内に消えた。「待たせたね、帆乃花ちゃん」と呼び掛けた台詞せりふの続きは、後ろ手に閉められた引き戸に遮断しゃだんされる。凛汰は、さっさと階段を下りようとしたが、美月に腕をつかまれた。

「待って、凛汰。教員寮に行く前に、連れていきたい場所があるの」

 そう言ったきり口を閉ざした美月は、階段とは反対の方向に歩き出す。帆乃花と大柴に聞かれたくないのだと悟ったとき、じゅうぶんな距離をかせいだと判断したのか、ようやく口を開いた美月は、どこか思い詰めた顔をしていた。

「美術準備室に、嘉嶋先生の絵を飾ってるの。あの絵を見れば、海棠神社で楚羅そらさんが言った『託宣たくせん』の意味が、きっと凛汰にも分かるから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る