1-2 天涯孤独

 平屋の玄関から、海棠楚羅かいどうそらと共に現れた男は、作務衣さむえ姿の偉丈夫いじょうぶだった。日頃ひごろから肉体をきたえていると分かる神主の歳は、四十代前半だろうか。「初めまして」と告げて微笑む目尻めじりに、細かなしわが刻まれる。優美な笑みの涼しさが、人柄ひとがらの良さを表していた。

「海棠家当主とうしゅ海棠浅葱かいどうあさぎと申します。海棠神社の宮司ぐうじであり、美月みづきの父です。凛汰りんたくんは、東京から来てくれたんだってね。電車もバスもない櫛湊村くしみなとむらまで来るのは、学生さんには大変だっただろう」

「ええ、まあ。自転車は、那岬町なみさきちょうの民宿で借りました」

「那岬町か。隣町となりまちの住人ですら、ここには滅多に来ないから、大したものだよ。妻から聞かせてもらったけど、嘉嶋かしま先生をさがしているんだね」

「はい。親父おやじが今どこにいるか、分かりますか?」

教員寮きょういんりょうか、美月が通ってた中学校のどちらかだろうけど……そのどちらでもない場合は、村のどこかで絵を描いているかもしれないな」

「それなら美月、中学校と教員寮まで、貴女あなたがお客様を送って差し上げたら?」

 楚羅そらが、名案だと言いたげに手を合わせた。縁側えんがわで対面したときには気づかなかったが、ひたいあらわにした白い顔には、相当に化粧けしょうほどこされている。もう少し薄めにおさえたほうが、美貌びぼうえるのではないかと思ったが、こればかりは言わぬがはなというものだろう。水を向けられた美月に視線を転じると、こちらはこちらで、もう少し堂々とすべきだと意見したくなるほどに、露骨ろこつ動揺どうようが顔に出ている。

「わ、私が……?」

大柴おおしば先生も、卒業しても遊びにおいでって、おっしゃってくださったそうじゃない」

「それは……そう、だけど、でも」

「楚羅。美月も忙しいんだから、凛汰くんの案内は、私が……」

「あら、貴方あなたはいけませんよ。男手おとこでが必要なんですから。〝姫依祭ひよりさい〟の準備は自分に任せて、美月は十六時頃まで自由に過ごせばいいって、ゆうべ言ったでしょう?」

「わ……分かりました。浅葱あさぎさん、楚羅さん。私が、行ってきます」

 大人たちの会話にたまりかねたのか、美月は歯切れの悪い言葉で承諾しょうだくした。隣に立つ凛汰を振り向き、小声で「着替えてくるから」と言い残して、玄関の引き戸をガラガラと開き、急ぎ足で家に入っていく。美月が去った境内けいだいに、のどかな静寂せいじゃくおとずれた。御山おやまでウグイスが鳴く声が、すかんと空に抜けていく。しばしの後に、凛汰が海棠夫妻ふさいへ「お世話になります」と伝えると、浅葱は精悍せいかん面立おもだちに苦笑をのせた。

「こちらこそ。行き先が学校でも、君が一緒なら安心だ」

「学校でも?」

「ああ、ごめん。こちらの話だ。高校生になる美月には、関係なくなることだから」

「そうだわ、凛汰くん。嘉嶋かしま先生との再会を済ませたら、美月と一緒に海棠神社まで戻っていらっしゃいよ。今宵こよいは〝姫依祭ひよりさい〟をり行う日ですから」

「……。ヒヨリサイ?」

 凛汰が楚羅に訊き返したとき、玄関の引き戸がガラガラと開いた。「お待たせ!」と言った美月は、よほど急いで着替えたのだろう。意外な早さに驚いた凛汰は、さっきまで巫女装束みこしょうぞくまとっていた少女の服装を見るなり、別の意味で驚かされた。

「その制服、中学校と高校、どっちのだよ」

「中学校、だけど……」

「卒業した学校の制服を着たらコスプレになるって、先生に教わらなかったのか?」

「ほ、放っておいてよ。高校の制服は、りょうに送る荷物に入れちゃったし、でも、学校に行くなら私服は駄目だし……何を着ればいいのか、分からなかったんだもん」

 こん色のセーラー服の胸元で、桃色のスカーフを結んだ美月は、プリーツスカートをぎゅっと握り、ほおあけに染めて凛汰をにらんだ。不服ふふくそうに唇を結ぶ娘を、海棠夫妻が微笑ましげに見守っている。三者を一瞥いちべつした凛汰は、軽い口調で言った。

「それじゃ、巫女さん。道案内よろしく。海棠さん、神社の近くに自転車を停めましたけど、構いませんか?」

「今は問題ないけど、君がここに戻るときには、場所を移してもらおうかな。……重そうな荷物だね。貴重品だけ携帯けいたいしてくれたら、うちで預かっても構わないよ」

「ありがとうございます。でも、荷物は平気です。それじゃあ、またあとで」

「うん。いってらっしゃい」

 浅葱の穏やかな声に、楚羅が「お気をつけて」と声をえた。ボストンバッグを肩にげた凛汰が、美月と共に歩き出すと、背後から「貴方あなたも、そろそろ着替えますか?」「木船きぶねの準備が途中だから、まだこの格好で」という夫婦の会話が聞こえてきた。畦道あぜみちを先に進んだ美月は、制服の件でおかんむりの様子だが、凛汰は構わず話し掛けた。

「なあ、ヒヨリサイについて教えてくれ」

「……あなたって、すごいね。初対面の人と話しても、全然物怖ものおじしないんだもん」

「物怖じなんかしてるあいだに、知りたいことを知るチャンスをのがすからな」

「そういうところ、うらやましいな」

 声音の弱々しさから、今の台詞せりふが凛汰への皮肉ひにくでないことが伝わった。こちらを振り返った美月は、はかなげな微笑を見せてから、前を向いて歩き出した。

「〝姫依祭ひよりさい〟は、櫛湊村くしみなとむらのハナカイドウが満開になる頃に、海棠神社がり行う神事しんじで……〝憑坐よりましさま〟に、日頃の感謝をお伝えするために、おいのりをささげる行事だよ。漢字は、お姫様の『姫』に、り代の『依り』で〝姫依祭〟」

「……日頃の感謝、ねえ。ヨリマシさまは?」

「〝憑坐よりましさま〟は、海上安全と夫婦和合ふうふわごうつかさどる神様。漢字は、き物がすわる、って書くの。今は、漁に出る村人はもういなくて、農業と狩猟しゅりょうで生計を立てている方がほとんどだけど、この村で暮らす私たちにとって、海は身近な存在だから」

「海上安全と、夫婦和合……ふうん」

「今日の黄昏時たそがれどきに、私も巫女として〝姫依祭ひよりさい〟に参加するんだけど……楚羅さんが言うには、私は……次の〝憑坐さま〟の巫女に、選ばれるかもしれないんだって」

「……〝憑坐さま〟の巫女? それは、普通の巫女とは違うのか?」

 歩調を早めた凛汰は、美月の隣に並んだ。こくりと頷いた美月が、何かを打ち明けかけたとき、しゃがれた声で「美月ちゃん」と呼び掛ける者がいた。進行方向で田畑をたがやしていた老翁ろうおうが、満面の笑みで手を振っている。そして、凛汰の顔を見るやいなや、ハッとした顔に豹変ひょうへんして、両手をすり合わせておがんできた。凛汰は会釈えしゃくしたものの、実は内心ぎょっとしていた。隣の美月は冷静で、老翁ろうおうに礼儀正しくお辞儀じぎをした。

「こんにちは。こちらの方は、嘉嶋先生の息子さんです。皆さんには、今日の〝姫依祭〟のあとで、浅葱あさぎさんが正式に紹介してくださる予定です」

 そんな予定は、聞いていない。それでも、とりあえず話を合わせるつもりでいたが――『嘉嶋』の名ががったとたんに、老翁は笑顔をこおりつかせた。「……あらぁ、そうかい。旅のお方、ようこそおいでくださった。なーんもない村だけど、くつろいでいってください」という社交辞令しゃこうじれいだけを口にして、凛汰の返事を待たないまま、そそくさと田畑を去っていく。気まずそうな目をした美月が、凛汰の顔色をうかがった。

「……ごめんね。村の人たちに、悪気はないの」

「お前が謝ることじゃないだろ。クソ親父の奴、逗留とうりゅう先でも嫌われ者なんだな」

 美月は、ますます気まずそうに委縮いしゅくした。そして「私は嫌いじゃないよ、嘉嶋先生のこと。だから、さっきみたいなことがあると寂しいんだ」と礼司を擁護ようごし始めたから、凛汰は耳を疑った。他者から憎悪ぞうおされることはあれど、したわれることはまれな男だと思っていた。畦道を抜けてすぐに、淡紅色たんこうしょくの花をたくわえた樹木の隣を通り過ぎると、頭上に垂れ下がった花びらを見上げた美月が、凛汰に言った。

「この花が、さっき〝姫依祭ひよりさい〟の説明で話したハナカイドウ。……知ってた?」

「いや、知らなかった。他にも、知ってることを教えてくれるか?」

 頼られたことが嬉しいのか、美月の表情が明るくなる。数多あまたの花びらで編まれたひさしの下で、少しだけ生き生きした顔を見せた少女は、落ち着いた口調で語り始めた。

「ハナカイドウは、桜と同じバラ科のお花なの。桜の花期が終わる頃に、入れ違いで咲き始めるのが一般的だけど、今年は暖かいから、開花がいつもより早いみたい。つぼみのときはべに色だけど、お辞儀をしてるみたいにうつむいた花が咲くときは、少し薄まったピンクになるの。品種によっては、小さくて赤い林檎りんごみたいな実をつけるんだって」

「へえ。食えるのか?」

「どうだろう……ハナカイドウは、結実けつじつすることが少ないみたい。でも、村にはミカイドウって品種の木もあって、ハナカイドウよりも結実性が高いんだって。私は、まだ見たことも食べたこともないけど……」

 睫毛まつげせた美月の目元に、淡紅色の影が落ちる。名を知ったばかりの花の小枝は、薄紫色をまとっていて、少しだがとげえていた。

「よく美人に例えられる花で、綺麗な人がうちしおれた様子を言い表した『海棠の雨に濡れたる風情ふぜい』って慣用句かんようくもあるよ。あとは……絶世ぜっせいの美女・楊貴妃ようきひが、前日のいがめなくて微睡まどろむ様子を、俯きがちに咲くハナカイドウに例えたことから、『睡花すいか』って別名が生まれたみたい。『垂糸海棠すいしかいどう』って別名もあったかな」

「ずいぶん詳しいんだな」

「うん。櫛湊村のことを、頑張って勉強したから」

「ここは港町だと思ってたけど、ハナカイドウの村だったんだな。おかげで、よく分かったよ。村を象徴しょうちょうする花の名字を持ったお前が、特別な家の娘だってことが」

「……私の家は、確かに特別だと思う。でも、私自身は特別じゃないよ」

 山のふもとへ近づく二人の間を、ぬるい風が吹き抜ける。美月は、セーラー服のえりに掛かった黒髪を、そっと白い手で払ってから、躊躇ためらいがちな声で言った。

「私、海棠家の養子ようしなんだ。浅葱さんと楚羅さんの、本当の娘じゃないの」

「そうか」

「驚かないの? あ……私が、二人に敬語けいごを使ってたから?」

「いや、敬語を聞くよりも前だ。自己紹介を聞いたときから、そうだろうなと思ってたぜ。『海棠』って名乗ることに、慣れてない感じがしたから」

 美月は、目を丸くした。それから、寂しさを素直に認めた顔で、微笑んだ。

「物心ついたときから、私にはお母さんがいなくて、お父さんと東京で二人暮らしをしてたんだ。でも、お父さんが一年前に亡くなって……身寄りのない私は、施設に入るしかなかった。でも、養子に来ないかって申し出てくれたのが、海棠さんなの」

 気づけば、砂利道が舗道ほどうに変わっていた。まばらに建った家々を見渡す美月は、人目を気にするように訥々とつとつと、身の上話の続きを語った。

「海棠家の養女になる前の名字は、不知火しらぬい。浅葱さんは『海棠の名字には、ゆっくり慣れたらいい』って言ってくれたし、楚羅さんも『私たちのことを、お父さん・お母さんって無理して呼ばなくていいからね』って言ってくれて……二人とも、素敵な人なの。浅葱さんは、私が寂しい思いをしていないか、いつも気に掛けてくださったし、浅葱さんのそばで巫女を務める楚羅さんは、いつも誰よりも早く起きて、誰よりも遅く眠るんだよ。私ね、いまだに楚羅さんのすっぴんを見たことがないの。私も、おつとめを頑張るって言ったけど……高校を出てからでいいのよ、って言われちゃった。天涯孤独てんがいこどくになった私を、引き取ってくれた二人には、すごく感謝してるし、おんを感じてる」

「……じゃあ、やっぱり俺と一緒だな」

「一緒?」

「年齢だけじゃなくて、東京から田舎に来たってところが。すごい偶然だよな」

「あ……ほんとだね。えっと……あなたのこと、嘉嶋くん、って呼べばいいのかな」

「凛汰で。親父と同じ呼び方は、嫌だから。それと、俺自身は、お前が『海棠』でも『不知火しらぬい』でも、どっちだって構わないぜ。どっちでも、お前が美月であることに変わりはないからな」

「……凛汰って、変な人」

 こちらの呼び捨てに対して、すぐに呼び捨てで応じた美月は、決して適応力てきおうりょくが低いわけではないだろう。にもかかわらず、美月がひかえめな態度を取っているのは、家庭の事情だけが理由だろうか。凛汰と話すことは嫌がっていない様子なのに、先ほど海棠家の玄関先で、母校に行くことをしぶった態度が、どうにも凛汰にはせなかった。

「着いたよ。春休み中だけど、先生はいるから。嘉嶋先生も、来てるといいな」

 開け放たれた校門の前で、美月が足を止めた。フェンスに囲われた敷地しきちには、どこの学校でも似たり寄ったりなグラウンドと、木造二階建ての校舎があり、裏手には急峻きゅうしゅんな山がひかえていた。へいに埋め込まれたプレートには、『櫛湊くしみなと第三中学校』と書かれている。

「村の中学校は、第一と第二もあるのか?」

「昔はね。この学校も、那岬町なみさきちょうの中学校と、一年後に統廃合とうはいごうが決まってるよ。隣町までは徒歩で二時間かかるから、帆乃花ほのかちゃんと梗介きょうすけくん……もうすぐ中学三年生になる二人の在学期間中は、廃校はいこうにならなくてよかった」

「昔は、子どもがたくさんいたんだな」

「そうみたい。この村では、若いむすめに不幸が相次あいついだ時期があるんだって。村の皆さんは、流行はややまいだって言ってた。身内を亡くした人もいるかもしれないから、詳しい話は訊けなかったけど……そういう理由で、櫛湊村は若者が少ないの」

「この村に、高校はあるのか?」

「ないよ。隣町の高校を受験して、りょうに入るのが定番みたい。私も、今日の〝姫依祭ひよりさい〟が終わったら、那岬町に移る準備を進めなくちゃ」

 美月は、何でもないことのように言って、グラウンドに入った。長い髪とプリーツスカートを揺らして振り向き、凛汰に気丈きじょうな笑みを見せてくる。

「凛汰が、嘉嶋先生を東京に連れ戻すよりも、私が村を離れるほうが早いと思う。短い間だけど、よろしくね」

 実父じっぷ死別しべつして、住み慣れない寒村かんそんに引き取られたかと思いきや、一年もたたぬうちに寮生活を余儀よぎなくされて、村を出る。美月の笑みにこもった感情が、安住あんじゅうの地を得られない人生をなげいた悲哀ひあいなのか、血のつながらない家族と距離を置ける安堵あんどなのか、凛汰には判断できなかった。

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