第1章 知恵の実

1-1 人殺しの子ども

 スマホの表示が圏外けんがいになっていることに気づいたのは、目印めじるしの発見と同時だった。

 昼下がりの山を切りひらいた道は、自転車がなければ二時間は歩く羽目はめになっただろう。こころよく貸してくれた民宿みんしゅくのオーナーに感謝しつつ、舗装ほそうされていても悪路あくろきわめる凸凹でこぼこ道を、自転車で風を切りながら三十分ほど進んだときだった。下り坂に差し掛かり、視界の両側を流れ去る景色のはしに、しげみにもれかけた木製看板かんばんが見えたから、ブレーキを掛けた嘉嶋凛汰かしまりんたは、雑草が好き放題に侵食しんしょくしている車道のすみに、旅の荷物が満載まんさいの自転車を停めて――荷物の重みに負けて、たたらをんだ。

 成長期に入っても全然伸びなかった身長は、日常のさまざまな場面であだとなる。憮然ぶぜんとした凛汰りんたは、自転車をしっかりと停め直すと、前かごにたて向きで突っ込んだボストンバッグが倒れないよう整えてから、雲一つない青天せいてんの下を歩き出して、四月の木漏こもれ日を燦々さんさんと浴びた木製看板の前で、立ち止まった。

 年季ねんきの入った看板は、蜘蛛くもの巣が幾重いくえにもからんでいる。雨風あめかぜに長年さらされてきたと分かる文字は、塗料とりょう無残むざんただれていたが、かろうじて『櫛湊村くしみなとむら』と読み取れた。

 山をわたる春風が、凛汰りんたの茶がかった髪を撫でていく。日差しで温められた土草の匂いは、海の匂いも含んでいた。香りにさそわれるように顔を上げれば、森を形作る木々の向こうに、陽光をまぶしく反射した海原うなばらと、人里ひとざとの風景が一望いちぼうできた。広大な田畑のあちこちに民家が点在てんざいするながめは、都会育ちの凛汰には馴染なじみがないものだ。

 何よりも興味深いのは、村一帯をいろど淡紅色たんこうしょくだ。濃いピンク色を開花させた木々は、見た目が桜によく似ている。一息ついたことで、忘れていた暑さを思い出した。行き先は寒冷地かんれいちだと聞いていたが、暖冬だんとうの影響なのか、汗ばむほどの陽気ようきだ。ジャケットを脱ぐ前に、ポケットからスマホを取り出した凛汰は、電波のアンテナが一本残らず消滅しょうめつしていることを知った。覚悟かくごしていても、苦々しい気分になる。

 通信手段をふうじられた今、いたずらに電池を消耗しょうもうしても意味がない。スマホの電源を落とそうとしたが、ふと思い直して、画像フォルダを開いた。油彩画ゆさいがを撮影したデータの中から、一人の女をモデルにえがいたものを探し当てると、写真をタップして拡大してから、ついにたどり着いた寒村かんそんに向けて、スマホの画面を突き出した。

「着いたぜ、母さん」

 がらにもないひとごとこたえるように、海風うみかぜが全身に吹きつけた。故人こじんは、写真を撮られることを極端きょくたんきらったから、凛汰の選択が気に入らないことは承知しょうちしている。凛汰としては、もし葬儀そうぎり行っていた場合、遺影いえい手配てはいに手こずることは必至ひっしなので、狼藉ろうぜきはたらいたとは思っていない。とはいえ、荼毘だびしてから日が浅いという現実を、おのれの中で消化できていないことは事実なので、感傷かんしょうをここにててから村に入るために、もう一度だけ、独り言を残した。

「クソ親父おやじは、必ず東京に連れ戻すから」

 今度こそスマホの電源を落とした凛汰は、借り物の自転車の前かごから、縦向きのボストンバッグを引っこ抜き、前かごへ水平にせてから、チャックを開ける。大量に買い込んだカップめんを始めとした備蓄食びちくしょくを押しのけて、スマホを内ポケットに片付けようとした際に、指先をかすめた封筒ふうとうが、凛汰の神経を逆撫さかなでした。薔薇ばらとげに触れてしまったような痛みが、わずらわしくて仕方がない。

 ただ、気の緩みをただされた気分になったので、凛汰は結局ジャケットを脱がずに、スマホを元通りポケットに仕舞った。そして、ボストンバッグから乱暴に引っ張り出した封筒も、ジャケットのポケットに突っ込むと、自転車にまたがって走り出した。


     *


 山と海にはさまれた小さな村は、一目ひとめだと分かる住宅が多かった。住人らしき人影も、今のところ見かけない。田畑たはたの間の細道を、自転車を押して歩いた凛汰は、海の方角に丹色にいろ鳥居とりいを見つけた。かみさびた鳥居のすぐそばには、檜皮ひわだ色の屋根を持つ拝殿はいでんがあり、紅白こうはく鈴緒すずおが目を引いた。拝殿の裏手に位置する小山にも、遠目には見えづらいが、海に面した山頂さんちょう付近に、鳥居がもう一基いっきあるようだ。

 鳥居と拝殿をコの字型につな平屋ひらやは、宮司ぐうじ一家の住居だろうか。神社とは反対方向にびた道は、山々のふもとに民家が集まった区域に通じている。さがし人は十中八九じゅっちゅうはっくそちらにいるが、先に現地の人間を訪ねるのがすじだろう。凛汰は、迷わず鳥居を目指した。

 神域しんいきに近づくにつれて、花の香りを意識した。あわしぶみを感じる匂いは、ライムの果皮かひが持つ苦みに似ている。それでいて、濃厚のうこうな甘みをはらんだ香りは蠱惑的こわくてきで、さわやかな日本晴にほんばれにはそぐわない。そんな印象をいだくのは、あまりにも花が多い所為だろうか。旅人たびびと手招てまねきするように枝葉を伸ばした樹木の群れは、やはり桜に酷似こくじしていたが、小ぶりな八重咲やえざきの花々は、皆一様みないちよううつむ加減かげんで、つつましくこうべれている。敬虔けいけん淡紅色たんこうしょくかしずく道を、このまま進んでいいのか、不意ふいに迷った。

 ――行きはよいよい、帰りはこわい。かつて家族が口ずさんだ歌の一節いっせつが、脳裏のうりで不吉にひびき渡る。くだらない臆病風おくびょうかぜに吹かれたのは、きっと一人旅で疲れたからだ。そう結論づけた凛汰が、自転車を押す手に力を込めたときだった。

 ――シャン、と鈴の音が響き渡り、静謐せいひつな空気に溶けていく。清らかな音色は、鳥居の向こう側から聞こえていた。近づいた凛汰は、鳥居の手前で、瞠目どうもくした。

 鳥居と拝殿はいでんを繋ぐ石畳に――巫女装束みこしょうぞくの少女が立っていた。腰まで届く黒髪が、春の暖かい風に遊ばれて、さらさらと白衣はくえ緋袴ひばかまの上をすべっていく。白足袋しろたび下駄げたいた足が、一歩、二歩と境内を進む。櫛湊村くしみなとむら象徴しょうちょうする花のようにうつむく少女は、凛汰という来訪者に気づいていない。燦然さんぜんと降り注ぐ陽光が、横顔のあどけなさに相反あいはんするうれいを照らし出した。

 現世うつしよに光をあたえる天に向けて、少女の右手が伸ばされる。指先をそろえた手のひらを、淡紅色の花びらがかすめていった。続いて伸ばされた左手も、優美ゆうび所作しょさ虚空こくうおよぎ、胸元へ緩やかに引き寄せられる。ほっそりとした白い手は、決して何もつかみはしないのに、殉教的じゅんきょうてき充足感じゅうそくかんが、どうしてか強く胸を打つ。空をあおいでいた少女は、青色をうつした双眸そうぼうを再びせて、白衣はくえすそに風をふくませながら、一揖いちゆうする。巫女舞みこまいおどっているのだと、せられてようやく凛汰は知った。

 そして、礼をやめた少女は、すうと右手を持ち上げると、近くの木箱に置かれた神楽鈴かぐらすずを、流れるような動作で手に取って、ゆっくりと鳥居に手向たむけて――凛汰に気づき、琥珀こはく色の目を見開いた。白い頬が、さっと淡紅色に色づく。

「あなたは……」

 鈴を転がすような声には、戸惑いと畏怖いふにじんでいた。凛汰がいぶかしんだとき、横合いから「美月みづき? どうしたの?」と声が聞こえた。

 二人そろって振り向くと、先ほど宮司ぐうじ一家の住居だと想像した平屋の縁側えんがわから、妙齢みょうれいの女が顔を出していた。鉄納戸てつなんど色の着物に梔子くちなし色の帯をめて、黒髪を後頭部で品よく結い上げたたたずまいが、おっとりと目を細めた表情に似合っている。美月みづきと呼ばれた少女が、助けを求めるように「楚羅そらさん」と言った。楚羅そらと呼ばれた女も、凛汰を見下ろして、息をんだ。べにを引いたくちびるから、ささやき声がれる。

「〝まれびと〟……三人目の。本当に、託宣たくせんの通りになるなんて。いいえ、きっと必然ね」

 ――まれびと。明らかに凛汰を指した言葉について、今すぐ追求したい気持ちにられたが、まずは挨拶あいさつが先だろう。凛汰は、つとめて友好的な笑みを作った。

「初めまして。嘉嶋凛汰かしまりんたと申します。東京から来ました」

 話を聞いていた少女が、驚きと困惑の表情で「嘉嶋かしま……」と復唱ふくしょうしている。対する女は落ち着いたもので、先ほどの独白どくはくなど存在しなかったと言わんばかりにました顔で、はんなりと柔和にゅうわに微笑んだ。元々細めていた双眸そうぼうが、よりいっそう細くなったことで、どことなくきつねに似た顔になる。

嘉嶋かしま先生の息子さんね。初めまして。私は、海棠楚羅かいどうそらと申します。この神社の宮司ぐうじつとめている海棠浅葱かいどうあさぎの、つまです。……さあ、美月。貴女あなたも、ご挨拶あいさつなさい」

「……初めまして。えっと……海棠かいどう……美月みづきです。嘉嶋かしま先生には、美術の授業でお世話になりました」

「親父の教え子か。この村の中学校で、臨時りんじで美術教師をしてるって話、本当だったんだな。中三?」

「そうでしたけど、もう卒業したから、来週から高校生……です」

「それなら、俺と一緒だな」

「……えっ?」

「俺も、中学を卒業したばかりで、来週から都内の高校に通う学生だから」

 薄く笑った凛汰に対して、美月はきつねにつままれた顔をした。それから、巫女舞みこまいをやめたときのように、ぱっと顔を赤らめた。

「何よ。敬語けいごを使ってそんした」

「勝手にかしこまってたのは、そっちだろ」

「だって、私たち初対面なのに、あなたの態度が大きいんだもん。でも、よく見たら童顔どうがんだし、年下かもしれない男子に畏まるなんて、私がどうかしてたみたい」

「お前、結構いい性格してるな?」

 鳥居をはさんで火花を散らし合っていると、やり取りを縁側えんがわから見守っていた楚羅そらが、しとやかな笑い声を立てた。そして、居住いずまいを正して凛汰に言った。

「ようこそ、おしくださいました。嘉嶋先生に会いにいらしたの?」

「まあ、そんなところです。俺の親父が、この村で厄介やっかいになってるって聞いたんで」

「そう。息子さんが遠路えんろはるばる会いに来てくれるなんて、嘉嶋先生もきっと喜ぶわね。嗚呼ああ、少しお待ちになって。主人しゅじんを呼んできますから」

 そう言って頭を下げた楚羅そらが、家の中に静々しずしずと戻っていく。和装わそうの後ろ姿を見送った凛汰が、自転車を鳥居のそばに停めに行くと、境内けいだいに取り残された美月みづきが「ねえ」と心細そうに声をった。

「お父さんに会うために、東京から来たってことは……嘉嶋先生を、東京に連れ戻しに来たってこと?」

「ああ」

 首肯しゅこうした凛汰は、自転車から離れると、改めて鳥居の前に立つ。美月と向き合い、神社にまつられているであろう神様にもよく聞こえるように、はっきりと言った。

「俺の母親・嘉嶋志津子かしましづこを殺した、クソ親父――嘉嶋礼司かしまれいじを、東京に連れ戻すために、俺は櫛湊村くしみなとむらまで来たんだよ」

 ――ざあ、と吹きすさぶ潮風しおかぜが、淡紅色の花びらを巻き上げる。言葉を失っていた美月が、凛汰に警戒けいかい眼差まなざしを向けてきた。臆病おくびょうそうに見えて、実は正義感が強いのだろうか。そんな義侠心ぎきょうしんは、櫛湊村に逗留とうりゅうしている嘉嶋礼司かしまれいじかばう形で作用したのか、やがてつむがれた言葉には、かすかな糾弾きゅうだんの響きがあった。

「あなたが何を言ってるのか、私には分からない。私にとっての嘉嶋先生は、人を殺すような人じゃないもの。あなたは、嘉嶋先生を……あなたのお父さんを連れ戻して、どうする気なの?」

師事しじするんだよ」

 美月は、ぽかんとした顔をした。先ほどまでの警戒が、一瞬にしてほどけている。ころころと変わる表情を目の当たりにした凛汰は、少し愉快ゆかいに思いながら、口のり上げて、笑ってやった。

希代きだいの画家・嘉嶋礼司かしまれいじ師事しじすることで、俺は、一流の画家を目指す」

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