憑坐さまの仰せのままに

一初ゆずこ

序章 楽園を追われた日

供犠の遺言

 今から楽園らくえんを追われるのだとさとったとき、さりの天泣てんきゅうが頬を伝った。

 鎮守ちんじゅの森を濡らし始めた雨音が、己の荒い息遣いと混じり合う。まなじりを決した海棠睡依かいどうすいは、頬に張りついた黒髪を、傷だらけの手の甲で振り払った。動揺どうようで震えた指先が、花簪はなかんざしはじき飛ばす。やみの吹きまりと化したしげみに落ちた頭飾あたまかざりを、睡依すい一顧いっこだにせず、歩みを止めない。鬱蒼うっそうとした御山おやまに分け入り、修験者しゅげんしゃのように進み続ける。

 逃避行とうひこうの果てに下駄げたは脱げて、暗緑色あんりょくしょくの道なき道を進むうちに、白足袋しろたびからにじんだ赤色を、小糠雨こぬかあめでぬかるんだ土が塗りつぶす。たばねていた黒髪も、いつしか白衣はくえの背に流れていて、重く濡れそぼった毛先が、緋袴ひばかまいた腰に垂れていた。すぐそばの参道からは、村人の声が聞こえてくる。見つかったか、近くにいるはずだ――耳をふさぎたくなる衝動しょうどうこらえた睡依すいは、呼吸の乱れをおさえて、振り返る。

 木々の隙間からは、下界げかいの景色が一望できた。まばらな民家と田畑の狭間はざまで、毎年眺めてきた淡紅色たんこうしょくの花々が、人里ひとざとくす業火ごうかさながらのあでやかさで、満開の時を迎えている。苦界くがいとなった寒郷かんきょう垣間見かいまみながら、睡依は思う。桜が花びらを散らして、ハナカイドウの季節が訪れても――櫛湊村くしみなとむらの夜は、ひどく冷える。

「――いたぞ! 姫依ひより様、こちらへ……!」

 小娘こむすめを隠した暗闇は、さっと差し込んだ紅蓮ぐれん火影ほかげあばかれた。後方の木立こだちかげから、松明たいまつを持った男衆おとこしゅうが走ってくる。息をめた睡依すいは、一足飛いっそくとびに森を抜けて、参道の終わりにまろび出た。小雨こさめを運ぶ潮風しおかぜが、全身を強くなぶっていく。追手おってかかげた松明たいまつが、寒村かんそん最果さいはてを照らし出した。

 御山の一角いっかくわずかながら切りひらいた神域しんいきには、下界から男衆たちがかついできた木船きぶね鎮座ちんざしている。小ぶりながらも立派な造りの帆柱ほばしらで、あらし前触まえぶれのような風をはらんだ帆が揺れていた。木船のそばにそびえる丹色にいろ鳥居とりいの向こう側には、切り立ったがけしか存在しない。漆黒しっこくの海をのぞ袋小路ふくろこうじで、立ち尽くす睡依すいの背中に、女の声が掛かった。

「妹をさがしているなら、無駄よ」

 睡依は、息を切らせたまま、振り返る。剣呑けんのんな目をした男衆たちが、睡依の退路たいろふさいでいた。松明たいまつを持っていないほうの手は、おのくわにぎっている。物々ものものしい包囲網ほういもうの中心から、静々しずしずと進み出てきた声の主は、睡依と同じ巫女装束みこしょうぞくまとっていた。ただし、逃亡者とうぼうしゃの睡依とはことなり、花簪はなかんざしした黒髪に乱れはない。櫛湊村くしみなとむら神事しんじと同じ名をさずけられた女は、切れ長の目を冷酷れいこくに細めて、淡々と言った。

蛇ノ目じゃのめ家から、報告が入りました。那岬町なみさきちょうに続く林道りんどうで、死体が見つかった、と。花のかんばせが、見る影もないほどにえぐられて……貴女あなたと同じ十七歳という若い身空みそらで、むご最期さいごむかえたそうです。浅葱あさぎさんが、確認に向かっています。これで、よく分かったでしょう? 神におつかえする身でありながら、逐電ちくでんくわだてた不届ふとどき者を、〝憑坐よりましさま〟は決してゆるしません」

姫依ひよりねえさま。どうして……」

 震える声で詰問きつもんしても、無意味だと分かっていた。案の定、八つ歳上の姉は――海棠姫依かいどうひよりは、睡依すいの問いには答えずに、あわれむような声で告げた。

「これで、〝姫依祭ひよりさい〟に参加した娘は、私と貴女の二人だけね。睡依」

 雨脚あまあしが、強くなる。男衆が持つ松明の炎が、一つ、二つと消えていく。それでも悪あがきのように赤く燃え盛る逆光ぎゃっこうが、うつむき加減の姫依ひよりの顔に、禍々まがまがしい影を落としていた。村人たちをしたがえた姉は、美貌びぼう芝居しばいじみた感傷かんしょうをのせて、睡依が追い込まれた鳥居のほうへ、一歩、二歩と近づいた。夜空の下で、唇のべにの形が、赤い三日月みかづきに化けていく。

「〝憑坐よりましさま〟は、貴女を供犠くぎに選ばれました」

 睡依は、一歩、二歩と後ずさる。ならされた砂地すなちから、ごつごつした岩肌いわはだに、立ち位置を徐々に移していく。姫依ひより対峙たいじしたまま、鳥居をくぐる。あと数歩の距離で、断崖絶壁だんがいぜっぺきまで追い詰められる。あせりをつのらせる睡依に、姫依はおごそかに語り続けた。

「〝姫依祭ひよりさい〟で〝憑坐よりましさま〟の巫女みこに選ばれたのは、私でした。それゆえに、貴女あなたは〝憑坐さま〟の巫女をかたった。そして、貴女が継承者けいしょうしゃではないことに、いち早く気づいた者がいたのでしょう。嗚呼ああ、なんておぞましいことを……今宵こよい〝まれびと〟が亡くなればどうなるか、〝姫依祭ひよりさい〟にのぞんだ貴女なら、知らないはずがないでしょう? にもかかわらず、口封くちふうじのために、無辜むこの〝まれびと〟を殺すなんて!」

「違う……違うわ、ねえさま。私は、旅のおかたを殺していない。ねえさまから逃げたのは、貴女の奸計かんけいまったことをさとったから。妹だって、同じです。〝まれびと〟殺しは、ぎぬです!」

 無実むじつを懸命にうったえたが、雨でけぶる正面で、姫依ひよりの背後にひかえる村人たちは、誰もが睡依すい義憤ぎふんの目を向けていた。何を言挙ことあげしようとも、罪人つみびとの言葉はとどかない。唯一ゆいいつ、睡依の元へけつけてくれたかもしれない人も、すでに足止めされている。おのれすくえるのは、己だけだ。睡依は、姉をひたと見つめた。

蛇ノ目じゃのめ家の者が、妹の死体を見つけたと言いましたね。ねえさまのがねですか」

「このおよんで、言い逃れをしようなんて。見苦しくてよ、睡依」

「なぜ、妹を殺したのですか。あの子は、何の罪もおかしていない。ただ、ねえさまのはかりごとからのがれるために、生きるために、村を出ようとしただけです」

「私の身に何かあったときに、資格を持つ者がひかえていなければ、誰が〝憑坐よりましさま〟を慰撫いぶできるというの? 巫女の系譜けいふを絶とうとした浅慮せんりょは、供犠くぎつとめをまっとうすることでしか、すすがれない知りなさい」

詭弁きべんだわ」

「なんて不敬ふけいな小娘なのかしら。私は〝憑坐さま〟のおおせのままに、海棠かいどう神社の巫女として、お言葉を俗世ぞくせに伝えたまで」

「そんなはずがないわ! なぜなら、本物の巫女は……!」

 感情的な訴えは、吹きすさぶ海風うみかぜき消された。男衆が持つ松明も、ついに最後の一つが燃え尽きる。絶望に打ちひしがれる睡依に、姫依ひより聖母せいぼのように笑いかけた。

「睡依。元をたどれば〝まれびと〟であり、海棠家の養女として、家族のちぎりを交わした貴女が、神への冒涜ぼうとくを犯すなんて……私は、今でも心から願っているのですよ。保身ほしんに走った貴女の嘘が、実はまことであれば、どれほどよかっただろう、と。〝憑坐さま〟に選ばれた巫女は、私ではなく、貴女であればよかったのに、と」

 しとやかにつむがれる噓八百うそはっぴゃくを、冷たい雨に打たれながら聞くうちに――胸をいた怒りと悲しみが、死の恐怖を凌駕りょうがした。

 睡依は、もはやここまでだろう。だが、たとえ睡依を苦界くがいに落とした元凶であれ、今まであがたてまつってきた存在に捧げた畏敬いけいの念は、確かにまことのものだった。

「――〝憑坐よりましさま〟のおおせのままに。……ねえさま。その言挙ことあげをする資格は、貴女にはありません」

 後ずさりをやめると、足下で小石がカラリと鳴って、はる崖下がけしたへ落ちていく。ついにたどり着いた行き止まりは、岩礁がんしょうで波がくだける音がよく聞こえた。まぶたを閉じた睡依は、前髪からしたたる雨のしずくいとわずに、瞼を開けた。

血塗ちぬられた因習いんしゅう犠牲ぎせいになる巫女は、これからも俗世ぞくせに生まれましょう。されど、ねえさま。その巫女たちの中に、貴女はいません」

 黄昏時たそがれどきの〝姫依祭ひよりさい〟を終えた直後から、淡紅色たんこうしょくきらめきを宿した両目で、巫女をかたる姉を、じっと見つめる。琥珀こはく色だったはずの瞳にともった色彩に、遠くの男衆たちは気づかなくとも、姫依だけは気づいたようだ。顔色が、ろうのように白くなる。

「〝憑坐さま〟の御霊みたまは、貴女には慰撫いぶできない。貴女によって〝憑坐さま〟の楽園を追放される私にも、きっと。櫛湊村くしみなとむら原罪げんざいが、今はまだゆるされなくとも――遠い未来で、この地を訪ねる〝まれびと〟が、必ずや〝憑坐さま〟の御霊を慰撫してくださることでしょう。そのためのいしずえとして、私は供犠くぎの役目を果たします。ねえさま、貴女が先代の〝憑坐さま〟の巫女の実子じっしであろうと、貴女とて供犠になる可能性はあったはず。巫女であれ、供犠であれ、〝憑坐さま〟のために死ぬ覚悟が、貴女にはおありですか? いいえ、きっと貴女にはありません。貴女が思う以上に、私は貴女を知っているのだから。貴女が大切に育んできた、恋心こいごころさえも」

「罪人と、これ以上話すことは何もありません」

 表情を消し去った姫依ひよりが、酷薄こくはくに告げた。巫女舞みこまいおどるようなたおやかさで、白魚しらうおのごとき左手が持ち上げられて、睡依にぴたりと向けられる。そして、静かな激昂げっこうが伝わる声で、背後の男衆たちに命令した。

「さあ、もう一度〝姫依祭〟を始めましょう。この供犠を、ただちに〝憑坐さま〟へ捧げなさい」

 いきり立つ村人たちが、各々おのおのの武器を構える。しかし、睡依は、緩くかぶりを振った。

「その必要は、ありません」

 ふっと身体の力を抜くと、黒髪がふわりとひろがり、白衣はくえ緋袴ひばかますそふくらんだ。えた潮風しおかぜが、背中を優しく受け止める。幽世かくりよいざな抱擁ほうようこばまずに、俗世ぞくせを離れていこうとする睡依を、姫依が鬼の形相ぎょうそうで見つめていた。男衆たちの怒号どごうとも歓声かんせいともつかない叫び声が、楽園を追われた巫女へのはなむけになることを、神の他に知る者は、眼前がんぜん咎人とがびと、ただ一人だ。

 だが、もしも睡依が逃げびて、楽園の外で生き長らえるなら、そのときは――。

「〝憑坐さま〟の仰せのままに」

 荒れ狂う海に身を投げた睡依は、いのりの言葉を唇にのせて、目を閉じた。

 生きるか、死ぬか。行き着く先は、神のみぞ知るに違いない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る