第2章 ヨモツヘグイ

2-1 証拠隠滅

 カーテンの隙間すきまから入る白い日差しが、意識を浅い眠りから引き上げた。

 窓際の床から起き上がった際に、身体に掛けていた毛布がずり落ちる。ジャケットを着たままのおのれの姿を見降ろして、凛汰は昨夜のことを思い出した。万が一の奇襲きしゅうに備えて、即座に動ける準備をしていたが、さいわいにも杞憂きゆうに終わったようだ。

 そばにいた布団には、美月がくるまって眠っている。掛布団からのぞいた頬には、涙のあとが残っていた。凛汰は、腕時計を確認する。時刻は、午前五時四十分を指していた。

「美月。起きろ」

 声を掛けると、美月は身じろぎしてから、両目を見開いて跳ね起きた。面食めんくらった凛汰が「どうした?」と訊くと、呼吸を乱していた美月は「ちょっと夢見ゆめみが悪くて」と答えながら、寝ぼけまなこを凛汰に向けて、恥じらうように目をしばたき、らして、またこちらを見てから、小声で言った。

「おはよう……」

「……ああ、おはよう」

 調子を狂わされた凛汰は、「顔を洗ってこいよ。朝飯を済ませて出掛けるぞ」と言って立ち上がり、台所に向かった。美月は、苦しげな声で「うん……お布団、使わせてくれてありがとう」とささやいてから立ち上がり、ブラウスとスカートにカーディガンを合わせた姿で、ふらふらとユニットバスルームに入っていく。美月にも厳戒げんかい態勢をいたので、熟睡じゅくすいできなかったに違いない。凛汰は、電気ケトルにペットボトルの水を注ぎ、湯をかしている間にクローゼットを開けた。ぎっしりと積み上げられた備蓄食びちくしょくの中から、インスタントのコーンスープを二つ選び、故人こじんが買い置きしていた紙コップを用意する。

 ――嘉嶋礼司かしまれいじが暮らしていた教員寮きょういんりょうの二〇二号室は、二人の学生が寝泊まりするには手狭てぜまかと思いきや、最低限の家電製品しか置いていないためか、1Kの部屋でも特に不便は感じない。それどころか、籠城ろうじょうにはうってつけの環境に整備せいびされていたことを、クローゼットに詰め込まれた飲料水や、インスタント食品の数々を見たときに、凛汰は思い知らされた。

 ――父は、櫛湊村くしみなとむらきょうされる食事を、全く口にしなかったのだろうか。それとも、荷物をまとめて海棠かいどう家を出た美月が、凛汰と行動を共にすることを予測していたのだろうか。いずれにせよ、凛汰が持参した備蓄食びちくしょくと合わせれば、一週間は立てもれるが、長居ながいするつもりは毛頭ない。居間に戻った美月と共に、スープと菓子パンの朝食を取った凛汰は、壁をへだてた隣室の二〇一号室を気にして、声をひそめた。

「家を出るときは、荷物を一応持っていくぞ」


     *


 早朝の参道は、うっすらときりに覆われていた。足元をドライアイスのように流れるもやは、朝日の薄絹うすぎぬまとっている。土草つちくさの青い匂いを潤沢じゅんたくに含んだ御山おやまの風は、すすの残り香も乗せていた。水色にみ切った空の下で、リュックを背負って歩く美月は、道中どうちゅうで涙ぐんでいる様子だったが、一度も泣き言はらさなかった。凛汰も、少しだけ中身を減らしたボストンバッグを肩にげて、黙々もくもくと頂上を目指して歩き続けた。

 そして、櫛湊村の神域であり、嘉嶋礼司の遺体を見つけた現場である断崖絶壁だんがいぜっぺきに、二人でたどり着いたとき――現場検証けんしょうは不可能となったことを、凛汰は悟った。事態に気づいた美月も、愕然がくぜんと立ち尽くしている。

「そんな……」

「やられたな」

姫依祭ひよりさい〟の最中さなか木船きぶねが炎上した空き地には、炭化した木材の一部と、砂地に拡がる炭のあとが残るのみで、礼司の遺体いたいはおろか、船体の大部分が持ち去られていた。そして、崖に続く鳥居とりいの前には――紺色のセーラー服姿の中学生がいる。ショートボブの黒髪が、緩い潮風になびいていた。

「おはよう。三人目の〝まれびと〟と、村を捨てた裏切り者」

 蛇ノ目帆乃花じゃのめほのかは、皮肉げな笑みを向けてきた。まばたきをした美月は、戸惑った声音で「えっと、帆乃花ちゃん……?」と呼んでいる。逡巡しゅんじゅんした凛汰は、帆乃花に訊ねた。

「帆乃花。どうして昨夜の〝姫依祭〟に顔を出さなかったんだ?」

野蛮やばんで古臭いお祭りなんて、どうでもいいからよ。……何よ、あんたまであたしに文句を言うの? 村のジジババたちに従って、今日は仕事をしてるんだから、文句を言われる筋合いはないんですけど」

「仕事?」

「片付けと見張り」

 帆乃花は、悪辣あくらつな笑みに侮蔑ぶべつを溶かして、凛汰と美月をめつけた。

「この場所は〝姫依祭〟でまた使うから、現人神あらひとがみであらせられる海棠先輩と、東京からド田舎に乗り込んできた蛮族ばんぞくに、お掃除の邪魔をされたら迷惑なの。ま、迷惑がってるのはあたしじゃなくて、村のジジババたちだけどね」

「殺人現場を勝手にらすほうが、蛮族ばんぞくの振る舞いだと思うけどな。で、親父の死体をどこにやった?」

「海にてたわよ」

 はる崖下がけしたから、岩礁がんしょうで波がくだける音がした。笑みを消した帆乃花は、どうでもよさそうに吐き捨てた。

「海に捧げられたものは、全て〝憑坐よりましさま〟のものになるからね」

「へえ。〝憑坐さま〟の正体は、やっぱり海に所縁ゆかりがあるんだな」

「……それ、誰に訊いたの?」

「さあ、誰だろうな」

「あんたってさ、あたしたちが嘉嶋先生の死体を始末しまつすることくらい、予想できたんじゃないの? それなのに、なんでもっと早く来なかったの?」

「こっちには美月がいるとはいえ、俺自身に地の利がないド田舎で、人殺し集団がひそんでるかもしれない夜の山に出掛けるなんて、自殺行為以外の何物でもないだろ。それに、視界が悪い夜中に得られる情報なんて、たかが知れてる。親父の遺体だって、損傷そんしょうが激しすぎて、素人には調査が難しい。木船に殺人の証拠が残っていたとしても、あれだけ派手に燃やされたら、焼失の可能性が高いから、リスクに見合うものじゃない。……来なくて正解だったぜ。蛮族と鉢合はちあわせずに済んだからな。お前らの罪状ざいじょうに、死体遺棄罪したいいきざいが加わることを覚悟しておけ」

「……なんでこたえてないの? ムカつくんですけど」

「お前らは、この状況を作った〝まれびと〟殺しの犯人が、にくくないのか?」

「憎いけど? ジジババ共だって、犯人に興味を持ってるわよ。でも、それ以上に、供犠くぎを今すぐ捧げたいの。ド素人の捜査そうさで無駄な時間を使われるよりも、早くあんたにあきらめてほしいわけ。ねえ、なんで死んでくれないの? 強情張りのお姫様」

 帆乃花は、露骨ろこつな敵意を美月に向けた。寂しげに唇を結んだ美月は、委縮いしゅくするかと思いきや、毅然きぜんと帆乃花を見つめ返した。

「私は……死にたくない。生きるために、村を出たい。そのためにも……嘉嶋先生を殺した犯人が誰なのか、凛汰と一緒に突き止めたいの」

「何それ、自分勝手じゃん」

「私が生きたいと願うことを、自分勝手だなんて、誰にも言ってほしくない」

「……海棠先輩が、そういう言い方をするなんて思わなかった。最悪の気分なんですけど。あたし、もう帰る」

「待てよ、帆乃花。死体の始末は済んでるのに、なんでお前だけ居残った?」

 凛汰が追及すると、帆乃花は嫌らしい笑い方をした。――蛇ノ目梗介じゃのめきょうすけと、同じ顔だ。

「あんたたちに会いたかったから。嘉嶋先生がゴミみたいにてられて、ショックを受ける顔をおがんだら、あたしの最悪な気分が、少しはマシになるかもしれないでしょ?」

 美月の頬が、紅潮こうちょうした。同時に、強い潮風しおかぜが海から陸へ吹きつけて、鳥居の前にいた帆乃花の背中を突き飛ばした。ショートボブの黒髪が、ぶわりと風をはらんだ瞬間に、前のめりになった帆乃花が「キャアァ!」と金切かなきり声を張り上げて、バッと両手で頭を押さえてうずくまった。凛汰が「大げさだな」と言ってやると、帆乃花にキッとにらまれた。

「うるさい! どうでもいいでしょ!」

 立ち上がった帆乃花は、風でひるがえったプリーツスカートのすそを片手で押さえながら、凛汰と美月の隣を駆け抜けて、参道の坂道を下りていく。

「騒がしい奴だな。……美月、大丈夫か?」

「……え? ごめん、ぼうっとしてたみたい……」

 美月が、我に返った様子で辺りを見回した。それから、早足で御山を下りる帆乃花の背中をじっと見つめて、不思議そうに首を傾げていた。

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