五日間
店から飛び出した俺は、冷静を追い求めて一つ一つ状況を整理した。
少なくとも、俺は生きている。
酷い頭痛と疲労感はあるが、外傷は無い。
五日間タイムスリップしたとしか思えない状況だが、いくら“技術”を用いても時間移動は不可能だ。
未知の理論で可能かもしれないが、今はその可能性を排除しなければ。俺の思考はいつまでも散らかったままだった。
だから、五日間は確かにあった。それを知らないのは、俺だけだ。
俺以外の人間にとっては連続した時間で、五日間の俺を観測した人間もいるに違いない。
俺は自身の考えにぞっとした。
分子メモリのデータに居たチョンウのパートナーは、10年後、20年後に目を覚ました時、記憶の断面は今日より昔に存在する。
つまるところ、彼女は自分が数十年のタイムスリップを行ったと錯覚するわけだ。
……果たして、俺は俺なのだろうか? 俺の心らしいが、これは本当に俺の体か?
自分の右腕を捲って見る。
昨日……正確には六日前の仕事の際、テロリストの鉄パイプを受けた右腕に打撲痕が残っていた。
微かに痛みもある。確かにあった記憶を証明する傷痕。
もし肉体のコピーが可能であれば、傷までコピーされるかもしれない。
肉体のコピーが可能になったという話は聞いたことがない。だが、タイムスリップよりはずっと現実的な話だ。
疑心暗鬼の塊となった人間には、0.0000001%未満の可能性ですら信じ難いものではない。
日本貨幣だって、もうこの国では使えないかもしれない。蜀犬日に吠ゆ。下らない妄想が脳裏を過る。
(……そもそも今の俺は、金も持っていないようだが)
ふう、とため息をつき、気持ちを落ち着かせる。とにかく冷静にならなければ。
記憶が無い以上、俺は俺自身が信用できない。俺の五日間を見ていた人間と連絡を取る必要がある。
エーテルビジョン同士の連絡は履歴として残っており、この五日間に何があったかを知るには重要な情報だ。
特に重要なのは、壁子からの連絡。
この異変が魔法協会やテロリスト絡みの事なら、彼女と一緒に何らかの作戦を行っていた可能性が高い。
エーテルビジョンを視覚野に投影した瞬間、俺はぎょっとした。
壁子からの連絡は無かった。
代わりに、見ず知らずの人間から、百件近くの連絡があったのだ。
名前は『クー・シー』。
直接の関りはもちろん、そんな名前に聞き覚えもない。
「出ろ」
「出ろ、おっさん」
「出ろカス」
「カスカスカスカスカスカスカスカスカスカスカスカスカスカス」
「出ろ!!!!!!!!!!!!!」
「どこにいんのよ!!!!!!!!!!!!!!!!」
クー・シーのメッセージは、上記の様な内容がほとんどだ。
女性、それも若そうというか……あまり知性は感じない口調。
とにかく俺と連絡を取らなければならないという、切羽詰まった感情だけが伝わってくる。
昨日と今日の二日で100件余り。記憶を失う前の俺は何故既読をつけなかった? 無視していたのか?
(クー・シーは偽名っぽいが……一緒に作戦を行っているゲストか? ……こいつに連絡を取るべきだろうか? いや、まずは一番信用できる人間に連絡するべきだ。つまり、壁子に……)
と、その瞬間。着信音が聴覚野を直撃し、俺はぎょっとして立ち止まった。
エーテルビジョンでの音声通信の連絡。
相手はまさしく、この鬼メッセージの送り主である『クー・シー』だった。
仕方が無い。
恐る恐る、俺は通話に出た。
「カス! 二日間もどこで何やってんのよ!? 連中に捕まって死んだのかと思ったじゃない!」
聴覚野にキャンキャンと、子犬のような怒声が突き刺さった。
俺は思わず顔を顰めつつ、脳内音声を再生した。
「……クー・シーってのは、お前か?」
我ながら、ズレた質問だった。エーテルビジョンは本人そのものが媒体なのだから、当然本人にしか使えない。
「クー・シーってのは私よ! あんたらが決めたコードネームでしょ!? 忘れたの!?」
俺たちが決めたコードネーム?
「……そうなのか。じゃあ、クー・シー。今から言う事を落ち着いて聞いてくれ。
俄かには信じがたい事だが、俺はここ五日間の記憶が無い。知人と飲んでいた居酒屋で、気が付いたら五日経っていたんだ。まるでタイムスリップでもしたみたいに。
だから、申し訳ない。君の事を俺は覚えていない。誰が敵で、誰が味方なのかも分かっていないんだ。すまないが、一度壁子と会ってから……」
「はい、はい、はい! はいはいはい!」
挙手しながらがなり立てている画が容易に想像できる。
クー・シーは俺の言葉を遮った。
「あのさ。記憶を失ったとかっていう、クソ信じられない状況は置いといて! この通信は傍受されてるんでしょ!?
この通信で位置が特定されるから、通信を切ったらすぐに移動しろって、今のあんたには言った記憶は無いんだろうけど、私は耳にタコが出来るぐらいあんたから聞いた!
あんたこそすぐそこから逃げた方が良いよ!
壁子の事は後にして、とにかく逃げた方が良い! 町から出て!」
そう言うと、呆気に取られる俺を突き放すように、クー・シーは一方的に通信を切った。
一体どういう事なのか、さっぱりわからない。そもそも、エーテルビジョン内の通信の傍受なんて、そう簡単に出来ることじゃない。
(クー・シーとか言うやつを信じるべきか? 最初から俺の記憶が無いことを知りながら、騙そうとしている可能性は?
……とにかく、壁子だ。今はあいつ以外を信用する事はできない)
俺は壁子に連絡しようとしたが、その瞬間、唐突にビジョンが消え去った。
俺は思わず立ち止まり、眉を顰める。
エーテルとは、人を介したエネルギーであり信号だ。
視覚野に電気信号としてしか存在しないエーテルビジョンは、魔法協会内のターミナル内にシステムとして存在し、俺という個人情報の相互通信を行っている。
つまり、ビジョンが消え去ったということは、俺と他者とのエーテルの結びつきが遮断されたという事だ。インターネットが断線したように。
考えられる原因として、周りに一切の人間が存在しないか、あるいはターミナルそのものが故障したか、何者かの攻撃を受けているか。
俺は今、駅の線路沿いを歩いている。1km圏内に人が一人でもいればエーテル通信は可能であり、こちらは問題ない。
魔法協会のターミナルが故障したり不調になる事は良くあるが、今回もそうだと思い込むのはあまりに楽観的が過ぎるだろう。
悲観的に考えると、やはりこれは何者かが意図的に俺のエーテルを遮断したのだ。
そんな芸当が可能だとすれば、魔法少女に違いない。
もし相手が魔法少女で、相手に殺意があれば、俺は100%死ぬ。
そして俺の目の前には……眼鏡をかけた女子高生が、ニヤついた表情でこちらを見ている。
根暗そうな少女で、眼鏡の奥の瞳には深い闇を湛えている。全身からは殺人鬼独特の死臭を感じる。
みるみる内に俺は自分の気持ちが落ち込み始めているのが分かった。
楽観的な推測は信じない。
が、悲観的な推測が現実になりつつあると、やはり心の奥底では『こんな悲観的な考えよりは、今の状況はマシだよな?』なんて信じていた事をまざまざと思い知らされた。
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