裏第2話 絶望と希望
「私と一緒に来てくれないか?」
差し伸べられた手を俺は虚ろな瞳で見つめる。濁った瞳の先に、女性のモノと思しき華奢な手のひらが映る。
この場にはおおよそ不相応なその手のひらは、まばゆい光を放っているかのように白く、綺麗だった。
(何故、彼女はこの場に来たのだろうか?)
単純な疑問だった。
もはや、まともに働かなくなっていた頭でぼんやりと考える。思考を巡らせるのは随分と久しぶりだった。
脳みそに血液が少しだけ行き渡る感覚。頭を使うことで血の巡りが良くなるのは、あながち間違えじゃないのかもしれない。
監禁生活が長引くにつれて、俺は段々と思考を手放すようになっていた。
何故なら、まともな思考が残っていればあまりの辛さに心が悲鳴を上げ、害虫が蔓延る環境に吐き気を催し、そのまま死にたくなるからである。
いや、そのまま死ねたらどれだけ楽だっただろうか。理由が分からないまま俺は生かされている。……違うな。死ぬことを許されない。
だからこそ、俺は思考を放棄したのである。何も考えなければ何も感じることはない。涙を流して今の環境に絶望する必要もなかった。
思考を放棄することが一番楽だったのである。
日に2回程度支給される粗末な食事を口にし、それ以外の時間がただひたすらに虚空を見つめ、そのまま眠りに落ちる。
その繰り返しで1日が過ぎていく。正直、この薄暗い環境で時間間隔などあったものではないが、人間、慣れてしまえば意外と平気なものだった。
俺の事を見張る看守役や食事を持ってくる兵士からは、心無い罵声を浴びるも思考を放棄した俺には関係ない。
言葉は意味を持たない言葉の羅列と化していた。兵士たちもそんな俺を多少哀れに思ったのか、最近は何も言ってこない。
だからこそ、このある意味平穏な環境を壊す、その差し出された右手に俺の思考回路が戻ってきたのだった。
重罪人が拘束されるような、こんな汚らわしい場所に似合う人間の右手ではない。直感的にそう思ったからこそ、疑問も湧いてきたのである。
(何故、彼女は俺に手を差し伸べているのだろうか?)
そもそも、話しかけているのはどんな女性なのだろうか? 視線をわずかに上へとずらすと、差し出された右手の主と目が合う。
鮮やかな銀色の髪をした、恐らく成人しているであろう女性だった。俺から濁った瞳を向けられても、決して視線はそらさない。
意志の強そうな瞳が、優しく、包み込むようにして俺を捉え続けていた。
「もう一度だけ言おう。私と一緒に来てくれないだろうか? 私には君が必要なんだ」
聞き間違いを許さないかのように、銀色の髪を持つ彼女は力強く言葉を紡ぐ。
先ほどよりも更に意志を感じるその瞳は、俺が来てくれることを微塵も疑っていない。
隣に、もう一人別の男がいるが、こちらはめんどくさそうに俺を見つめるばかりだ。
(俺が……必要?)
必要という言葉が何度も頭の中を巡る。今の俺を見て、必要と言われる意味が分からない。
気付くとこの世界に召喚され、失敗作と虐げられ、投獄されている。もちろん、この間に俺の事を必要とした人なんて一人もいない。
事実、こんなことを言ってくるのは彼女が初めてだった。だからこそ、心が少しだけ揺らいだのだろう。
(もしかすると、この手を掴めば俺は救われるのか……)
恐らく、俺がここから自力で出られるようになることはない。少なくとも、人間以下の扱いをうけているうちは……。
つまり、この手を掴むことは俺がここから出られる唯一のチャンスというわけだ。
「…………」
彼女は俺の事が必要と言った後は、黙って俺を見つめ続けている。
その瞳があまりに純粋で、悪意がこもっていなくて……俺は彼女に向かって手を伸ばす。
きっとこれで楽になれる。俺はここから出られるんだ。
ゆっくり、ゆっくりと彼女へ向かって手を伸ばし続ける。
彼女の瞳が期待に見開かれた、まさにその時、
(……だけど、彼女が俺を裏切ったら?)
あらぬ考えが頭をよぎり、伸ばしかけていた右腕が止まる。
俺はこの世界にきて何を経験した? どんな仕打ちを受けた?
訳が分からないまま罵られ、殴られ蹴られ、あげくの果てにはこんな独房で生き地獄。
何故、目の前にいる彼女が同じことをしないと期待できる?
どくんっ、どくんっ、と心臓が嫌な跳ね方をする。唇がわなわなと震え、冷や汗が背中を伝った。
「……どうした?」
突然動きを止めた俺に、銀髪の彼女は怪訝そうな表情を浮かべる。
しかし、今の俺から見える彼女の表情は陰で覆われ、表情を伺い知ることができなかった。
これもこの時の精神状況が織りなす幻想だと気付いたのは、随分と後の話である。
そんな事と知るよしのない俺は、急に表情の見えなくなった彼女に強烈な恐怖感を憶え、もはや身体の震えを隠すことができなくなっていた。
胃の中から何かが込み上げてくる衝動。気付いた時にはすでに遅く、俺は込み上げる衝動そのままに胃の中のモノを吐き出していた。
ただ、吐き出すだけなら良かったのだが、よりによって差し伸べてくれた彼女の右手に吐瀉物をかけてしまう。
(あっ……あっ、あっ……)
心拍数がこれまでにないほどの上昇し、顔から血の気が引いていくことが分かる。
「……あっ、……ご、……っ、……ごめ……っ、ご……っ」
言葉が出ない。誰とも話すことのない獄中生活の中で、声帯がまともに機能しなくなったようだ。
更に、彼女の顔には変わらず陰がかかり、その表情すらうかがい知ることができない。感情が読み取れないからこそ、より恐怖感も増す。
焦りが焦りを生み、吃音のように同じような言葉が連続して口に出る。
謝ることはおろか、言葉すら彼女に伝えることができない。せっかく差し伸べてくれた手に迷いを浮かべ、あろうことか吐瀉物をぶちまけてしまう。
考えうる限り、最悪の状況だった。
「うわっ、汚なっ! 全く、これだから失敗作は……」
隣にいた男から何気なしに呟かれた失敗作という言葉が、心に残っていた希望を無残に打ち砕く。
(……そうだ。俺は失敗作だったんだ。だから、ここから出るなんて考えちゃ駄目なんだ)
そもそも、誰の役にも立てない俺がここから出ようとしたことが間違いだったんだ。
俺はこの独房がよく似合う失敗作で、迷惑をかけないように静かに過ごしているべきなんだ。
段々と目の前が真っ暗に染まっていく。しかし、今の俺にとってはむしろ好都合だった。
これで吐瀉物をかけてしまった彼女の表情を見なくて済む。もしかすると、怒りに顔を歪ませているかもしれない。あまりの気持ち悪さに青ざめているかもしれない。
いずれにせよ、もう二度と俺が彼女と顔を合わせることはないだろう。このまま独房から帰り、俺はまた一人になる。
そもそも、誰かに助けられることを期待するほうが間違いだったのだ。
だから、これでよかったのである。吐瀉物をかけてしまったのは申し訳ないけど、殴られて済むのならむしろそれでいい。
変に希望を持たせて絶望に叩き落されるよりはよっぽどましだ。
それに殴られるにしても、どうせ死なせてはくれないんだから、痛いだけで済むだろう。
「だから言ったんですよ! まともな精神状況じゃないって。連れ出すのは不可能だって!」
「…………」
「まったく、国王陛下の頼みだからわざわざこんな薄汚いところまで来たのに……とんだ無駄足でしたよ!!」
何か目の前から聞こえるが、俺にとっては関係のない話だった。伸ばしていた右腕をゆっくりと降ろす。
ついに、俺は差し伸べられた手を握り締めることができなかった。
度重なる拷問に近いような扱いに、俺はすっかり廃人のようになってしまっていた。
裏切りという言葉が頭をよぎったのも、その影響だろう。だって、俺はこの世界で誰からも信用されていなかったのだから。
彼女の提案がこれ以上もない、良いものだと言葉では理解できていた。こんなクソみたいな独房から脱出できるのだ。普通の精神状態であれば、まず真っ先にその手を握り締めただろう。
しかし、頭が、身体がその提案を拒否するかのように動いてくれない。
(…………もう寝よう)
彼女に付いて行ってここから出たとして、またこのような拷問に近いことをされたら? 裏切られたとしたら?
今度こそ俺は耐え切れないだろう。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、頭皮から血が流れ出るほど頭を掻きむしり、拘束されて牢屋に入れられればここから出せと発狂し続けるだろう。
必要と言ってくれているが、この世界に来て散々失敗作と罵られ嗤われた。そんな俺のどこに、必要となる要素があるのだろうか?
いや、あるわけがない。異世界のご都合展開のような力は、俺のどこにもありゃしないのだ。
絶望から希望を求めて立ち上がり、再び絶望を味わう。これ以上の絶望を味わうくらいなら、今のまま思考を放棄して植物人間のように過ごしたほうがよっぽど楽だ。
人間が一番絶望を感じるのは、天国から地獄に落ちた時。すなわち希望を無残に打ち砕かれた時だ。
幸い、俺はまだこの世界で地獄しか味わっていない。先ほどの希望も、傷が浅いうちに砕かれてよかった。
「こんなもの、後で洗えばいい。……むしろすまなかった。君の絶望を甘く見ていた、私の責任だ」
ところで、何故俺はこの世界に召喚されたのだろう? それくらいは聞いてもよかったかもしれないな。
「確かに、君の受けた仕打ちは到底受け入れられるものではない。それに絶望感を感じるのは至極当然の事だろう。私だって、君と同じ状況になれば人生を諦めていたはずだ」
いや、今更考えても無駄なことだ。無駄なことに思考を使うくらいなら、何も考えずボーっとしていたほうが良い。
「ただ、その絶望感がここを出ない理由にはならない。絶望してしまって思考を放棄すれば、何もできないのだから」
今日の晩飯は何だろうか? この前がお粥みたいなものだったし、たまにはパンを食べたいな。
「私にとって君が必要なのは変わらない。これからもずっとだ」
あぁ、でもこの前のパンを食べた時はお腹が痛くなったっけ。多分、カビでも生えてたんだろうな~。
「だから私は……無理やりにでも、君をここから連れていくことにする!!」
ガシャンっという音と共に、グイッと身体が目の前に引っ張られる感覚。
突然の衝撃に思わず目を見開くと、銀髪の彼女と目が合った。……先ほどの陰はかかっていない。
隣では一緒に居た男がギョッとした表情を浮かべている。
そんなことはお構いなしに、彼女……エシュミト・レイは俺に向かって微笑んだ。
「すまない。強引な形になってしまった。だけど、私にとってはそれほどまでに君が必要だったんだ」
力強い言葉に、俺の心がドクンっとはねる。それは先ほど感じた心拍数の上昇とはまた違ったものだった。
いつの間に手枷、足枷が外されたのか、自由になったのは久しぶりは俺は少しよろけてしまう。
よろけた俺をしっかりとレイは抱きとめると、再び力強い言葉を投げかける。
「人が絶望するのはある意味当然のことだ。希望があれば、絶望もある。君が受けた絶望は堪えがたいものだっただろう。……ただ、目の前に希望があるのに、絶望に打ちひしがれたままなのは、私にとって納得できない!」
文字通り、初めて彼女の言葉が耳に届いた気がした。初めて彼女の言葉をきちんと受け止めた気がした。
「確かに、希望をみせられてもう一度絶望したら立ち直れないかもしれない。だけど、それで希望に縋らないのは違うだろ? 絶望を壊すことが出来るからこそ、希望が生まれるんだ。私は、今の君の、絶望を壊すことができる!」
絶望に押し潰され、希望を見ても目を逸らすことしかできなかった。自ら向かっていこうという気持ちすら持てなかった俺に対して、彼女はしっかりと向き合えと言っている。
希望があるのだから、絶望に抗えと言っている。
「だから私は君を連れていく。君の力が必要で……その力が私にとっての希望だからだ」
希望と言われた瞬間、心の中の歯車が回り始めた、そんな気がした。
絶望という言葉に埋め尽くされていた俺の心に、一筋の光がさす。これまで暗闇しかなかった部分に光が差し込み、希望の火が灯った瞬間だった。
「君が受けた非礼は私から詫びる。本当にすまなかった。……ただ、これだけは信じてほしい。私はこれからいつ、いかなる時も君の味方だということを」
「……っ、あっ………っ、……あ」
言葉が出ない俺を優しく制す。今は無理して喋らなくてもよいと言ってくれているようだった。
そして、隣で呆気に取られている男に向かって言い放つ。
「それでは、予定通り彼は私の部隊に配属させてもらう。国王様へもそう伝えてくれ」
今思えば、彼女の強引さはこの時から発揮されていたのだと、そう感じるような出来事だった。
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