第1話 薄れる生と死の境目
「あそこで飛び降りれる人、なかなかいないんですよ」
付き添いのオペレータにヘッドセットを返す際、そんなことを言われた。
「それで、どうでした? バーチャル自殺レベル4の感触は」
「……微妙です。むしろ気持ちよかった」
「このレベルでまだそんな事言うの、宇川さんくらいなものです」
素直に言ったつもりなのに、返ってきた答えは淡白だった。
体に接続された配線をプチプチと剥がして専用のベッドから降りると、意外にも下半身がガクガクしてうまく歩けない。
「やっぱり、運動中枢にはダメージがあったんじゃないですか?」
「さあ。意識が途絶えるときには首から下の感覚がなかったからわかんないです」
なんとか歩いて部屋から出ると、外はすっかり日が落ちていた。
死にたい、と誰もが思ったことがあるだろう。
誰もがその欲求を浮かべながらも最後の一歩が踏み出せず、思いとどまった経験があるはずである。
その最後の一歩を仮想世界で飛び越えてみませんか、と開発に乗り出した企業があった。
俺はそのテストプレイヤーして今日も仮想空間に乗り込んでいた。
言うなれば、遊園地によくあるお化け屋敷の死亡体験版といったところだ。
体に貼り付けられた配線で筋肉の動きを感知し、また電流を流して痛みや快感を疑似体験させる。もちろん本来の感覚よりも大幅にカットされたそれらは、よりリアルな臨死体験を引き起こす。
だから俺は布団に入るときもこれがまだ仮想空間にいるような感覚が抜けず、ふんわりとした中で眠りについた。
気がつくと、俺はビルの屋上に立っていた。
「……はは、夢だな」
あのバーチャル自殺世界で見た仮想空間とほぼ同じ。近所の町並みをモデルにして作られたビルは、ビル街の真ん中あたりにある地上十階建ての建物だ。
乱立するビルの隙間が人が入れるギリギリの隙間しかなく、ここから飛び降りるのは少し骨が折れる。
正しくは、うまく『死ぬ』ためにはどちらの壁にも接触せず落ちる必要がある。死ぬつもりがなく壁すれすれに歩いて、ひょんなことで足をすべらせるなんてアクシデントでもない限り、障害物に当たらず落ちることは難しいのだ。
だからさっきは、裏手から飛び降りた。
ビルの裏手は軽自動車位が通れる隙間がある。ゴミを回収して回るトラックを走らせるためだ。
下を覗き込むと、そのゴミすらなく茶色くなったコンクリートがむき出しになっている。
「現実か、夢か、はたまた仮想空間か」
俺はまたフェンスをよじ登って吹き上がる風に身を預けた。吹き込む空気が圧縮されて空へと舞い上がる勢いは、残念ながら人を一人支えられるほどの勢いはない。
だが、落ちそうになった人を押し戻す程度の力はあった。
「ん、やっぱもう一歩奥に行かなきゃダメか」
俺は何の迷いもなく、空中へダイブした。
これが現実かどうかもわからない。
夢や仮想空間であるかもしれない。
だが、不思議と死なない気がした。
いや死んだ所で特に気にすることもない。
どうせ俺が生きてても、誰かの迷惑にしかならないから。
ビタァン! と汚い音が裏路地に響いた。
「いっっ…… !!」
今度は頭から落ちたようだ。
脳が半分ひしゃげ、肩から下が感覚がない。
どうやら首が衝突の際に折れたらしく、視界には見えるはずのない自分の背中が写っていた。
息を吸おうにも肺へ命令がいかない。
苦しい。
痛い。
助からない。
だが、身体的な苦しさの奥から想像しなかった感情が湧いてくる。
これでいい。
これでいい。
これでいい。
これでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいいこれでいい。
目はその機能を失い、脳はその活動を止めた。
俺はようやく、生きることから開放されたと悟った。
「はい、ヘッドセット外しますよ」
突然目の奥が灼ける感覚に襲われた。
「んくっ!?」
「あ、大丈夫ですか?」
「え、あれ!? ここは……」
「やだな宇川さん、自殺シミュレータのテストプレイしてたの忘れたんですか?」
「あ、あああ、ああ…… ですね、リアルすぎて」
「ははは。それならウチとしても嬉しいですけど」
全身の血液が冷え切っている。
汗が背中と脇に集中して吹き出ており、逆に口の中がカラカラ乾いていた。
「今日はこの辺にしましょう。お疲れ様です」
「ええ、ええ。そうですね」
俺は専用ベッドから立ち上がると、扉の方へ歩き出した。
「あれ、宇川さんどちらへ?」
「どちら、って。帰るんですが?」
「やだなぁ。テストプレイ中は情報保護のため、シミュレータ完成まで帰れませんよ。もう一週間もここにいるのに忘れちゃったんですか?」
オペレータは真顔でそう言い放った。
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