第16話


「――何をしている」

「っ、こ、公爵様!?」



 すっぽり身体が包まれる感覚にそっと見上げれば、抱きしめるように立っていたのは旦那様だった。

 険しい顔――というよりも、カナリア嬢を睨む目はとても鋭い。そのせいか、彼女の声は上擦っていた。


 しばらく話し込んでいるだろうし、彼の耳に届く範囲の騒ぎになっているとは思わなくて、戻って来たことに驚きが隠せない。



「まあ、お話は終わったのですか?」

「……、…………君はこの状況でよくそんなことを聞けるな」



 パチパチと瞬きを繰り返して、率直な疑問を投げかけたのだけれど、旦那様は力が抜けたような顔をしていた。



「……」



 こんな状況――というのは、全身ワインで濡れていることかしら。それとも、平手打ちを食らいそうになっていたことかしら。いいえ。きっと、その両方なのかもしれない。


 なんとなくこういうことがあることは想像していたから、傷ついてはいない。恋愛小説とかによくある展開が、現実になった――というだけ。

 でも、なんだか私のことを心配しているように見えて、心がくすぐったくなる。



「ふふ、大丈夫ですから」

「全く、何が大丈夫なんだか」

「あ、の……公爵様、これは、その、あの……」



 安心させようと笑いかけると、旦那様は上着を脱いで、私を包むように羽織らせてくれた。

 ふんわりと鼻腔を擽る香りとぬくもりにホッと息ができるような気がすると、彼のため息が聞こえてくる。


 不器用な優しさにニコニコしていると、カナリア嬢は慌てふためき、顔をサーッと青くさせていた。

 何か言おうとしているけれど、言葉が出てこないみたいだ。



「……。私たちはこれで失礼する」



 いくら待てども謝罪はないからか、それとも初めから彼女の言い訳を聞く気もないからか。カナリア嬢を見る目をさらに鋭くさせていて、肩を抱く力が強い。

 痛くはないけれど、促されるその腕に促されるように歩いた。



「……」



 見世物になっていたから、この場を離れられるのは少し安堵する。

 けれど、心配をかけてしまったクリスティーヌ嬢にお礼も謝罪も出来ていない。それだけが心残りで、チラリと彼女へ視線を向けるとバチッと合った。


 彼女は首を横に振って、柔らかい笑みを浮かべてくれていた。なんて出来た令嬢なんだろう――と、感動さえ覚える。

 クリスティーヌ嬢の心配りに今は甘えることにして、ペコッと頭を下げた。



「まって、待ってください……! 公爵様!!」



 背中越しに聞こえる叫び声は悲痛だ。

 すいた人に誤解される――いいえ、誤解じゃないけれど、見られたくはなかったはずの姿を見られてしまったのだから、仕方ない。


 痛々しい訴えは続いていても、足は前へと進んでいく。

 隣にいる旦那様を盗み見るけれど、彼は変わらず、険しい顔をしたままだった。



◇◇◇



 ガタガタと揺れる馬車の中は静かだった。

 窓から見える空を見れば、星々がキラキラと輝いている。夜会の煌びやかさと違って、柔らかくて優しい。


 とことん、貴族に向いていない――と、苦笑してしまう。



「――傍にいられなくて悪かった」

「旦那様が謝ることは何もありません。それに助けていただきました」



 馬車の音と、虫の鳴く音に耳を傾け、ちょっぴりお尻の心配をしていると、突然、声が飛んでくる。

 外に向いていた視線を戻せば、彼は眉根を寄せた深い青と交わった。


 少し落ち込んでいるようにも見えて、クスッと笑ってしまう。

 首を横に振ってみるものの、旦那様は腑に落ちなさそうだ。


 あの場で怒っていたら、「品位がない」とみなされて、何も言わずに受け入れていたら、「所詮平民に落ちた人間だ」と罵られるだけ。

 どっちにしろ社交界の笑い者になり、見下される。だから、惚気て彼女の身を案じることにした。


 もし、あそこで旦那様が現れなかったら、さらに大事になっていただろうから、約束通り守ってもらったと言っていい。

 だから、彼に落ち度は何処にもない。



「……大丈夫か」

「大丈夫ですよ」

「そうは見えないが」



 ジッと見つめる瞳は私を探っている。

 何の確認か分からない問いに笑って見せるけれど、彼はそれも不満そうだ。



「……。…………ちょっと、嘘です」



 上手に隠せていると思ったのに、隠せていなかったみたい。

 実は結構、お腹の方にふつふつとした感情が湧いてきていて、それをなんとか内に秘め続けていた。


 やっぱり、と言わんばかりに息を深く吐き出す彼に言わずにはいられなかった。



「せっかくメアリーたちが綺麗にしてくれたのに申し訳ないのと、」



 ドレスの色が濃い色だったからこそ、あんまり目立ってはいない。でも、それでも今日のために一生懸命考えて、作ってくれて、着飾ってくれた彼女たちの思いを考えると、胸が痛い。

 それに――



「ワインの匂いで酔いそうです」



 元々、そんなにお酒は強くないのに、頭から被ってる。

 ハンカチーフで拭いているからと言って、匂いはこびりついていて、取れる気配はないしで、散々よ。



「……。…………ははっ! 君は呑気だな!」



 ふわふわっとしている頭の感覚に、頬を膨らますと彼は目を真ん丸にさせていた。次第にふるふると震え、声を荒げて笑う。

 まるで、子供のような無邪気な笑顔をしていた。



「っ!」



 人の笑顔が好き。だから、公爵家の人達の笑顔をみれるようになれたらいいな――って、いつも思っている。

 でも、旦那様のそんな顔を見れるとは思っていなくて、息を飲んだ。


 ツボに入ってしまったのか、笑いが止まらない彼はクックックッと喉を鳴らしている。

 何が楽しいのかは分からないけれど、楽しそうならいいか、と静かに息を吐いた。


 まだ嫁いで一ヶ月ちょっと。たいして旦那様を知らないし、知っているとは言えない。

 仏頂面でちょっぴしつまんなそうで、冷たい顔。社交界で常に張り付けていた笑顔の仮面なんかより――



「そうやって笑っている方がずっといいですよ」

「…………」



 ただでさえ、素敵な人なんだから、笑っていた方がもっといい。旦那様はいつもどことなく、張りつめているから余計そう、思う。

 ポロッと出たそれに彼は笑い声をピタリと止め、目を見開いてこちらを見た。


 あら、残念。笑顔が消えてしまうことを言ってしまったのかもしれないと名残惜しく思いながら、先ほどの笑顔を脳裏に思い起こす。

 もう一度、自問自答しても思うことはやっぱり同じ。



「――うん、そっちの方が似合ってます」



 彼の心中など知りもせずに、私はひとりで納得するように頷いて、口角を上げた。


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