第15話
「少し話してくるから大人しくしていてくれ」
「わかりましたわ」
旦那様に連れ回され――ゴホンッ、エスコートされながら、ひとしきり挨拶が終わると突然そんなことを言い出した。
きっと、殿方だけの話があるのかもしれない。
それに正直、足は慣れないヒールに悲鳴を上げている。
一人で行こうとする彼の申し出はなんとも救いで、心の中で「いってらっしゃいまし!」とハンカチーフをヒラヒラさせた。
「……そこに座って待っていろ」
急に連れまわすことを止めたのは、私に聞かれたくない話があるのかと思ったけれど、違った。どうやら、私の異変に気が付いていたみたい。
貴族の女性としてまだまだ爪が甘いと反省しつつも、そうやって気遣ってくれる旦那様に感謝の思いが心に広がる。
素直に甘えて促されるままにソファに腰をかけると、彼は不安そうに私を見下ろした。
そこまで心配されるようなことではないはずなんだけれど、意外と心配性なのかもしれない。
安心させようと、笑みを浮かべて手を振れば、背を向けて人混みの中へと紛れて行った。
「…………」
旦那様が傍にいなくなれば、向けられる視線がなくなる――もしくは、半減すると思っていた。その自分の認識の甘さに泣けてくる。
より一層、無遠慮なそれが刺さって仕方ない。
誰が一番最初に話しかけるか、なんて雰囲気もあるけれど、立場上、普通なら私に声をかけることは無い。
それだけが安心材料っていうのもなんだか悲しいものだわ――なんて現実逃避をしていたら、色んな感情が混ざる視線の中、私に近寄る純粋な目をバチッと合ってしまった。
「……どうかなさったの?」
声をかけるとビクッと肩が跳ねる。
驚かせてしまったかもしれないと、ほんのちょっぴり反省しつつも、頬を赤らめて慌てる姿は小動物のようで愛らしくて我慢できなかった。
「あの、もしかして……ローレンス公爵夫人でしょうか?」
「え、そうだけれど……あなたは?」
おずおずと近寄ってきてくれた令嬢は、ぎゅっと手を握りしめている。勇気を出して声をかけてくれたのか、健気だ。
怯えなくても、取って食ったりしない。そんなに怖い顔をしているのかしら――と、ひそかにショックを受けずにはいられなかった。
でも、問いに答えた瞬間、彼女の表情はぱあっと明るくなる。
「わ、私……! 侯爵家の次女、クリスティーナ・エイベルと申します!」
「良かったら、隣に座ってお話しましょう?」
「は、はい! お声をかけていただけてうれしいです」
胸に手を添え、勢いよく挨拶してくれる令嬢に、まばたきを繰り返す。
まさか、こんな好意的な反応をされるとは思っていなかったから、拍子抜けしてしまう。
子供のように目を輝かせる姿に毒気が抜け、口角が上がった。
隣の空席をポンポンと叩き、首を傾げると、クリスティーナ嬢は首を激しく上下に振る。
「ふふ、熱い視線を貰ったら、なんだか気になっちゃって」
生意気な弟しかいないから、もし、妹がいたらこんな感じなのかしら――と、憧れの妹像を彼女に重ねてしまう。
だからか、気が緩んでしまっていて、クリスティーヌ嬢をからかうように言ってしまった。
「ぶ、不躾で申し訳ありません。会場に入られてから、夫人のドレスがとても素敵で……! ずっと話してみたいと思っていたんです」
あ、やらかしてしまったかもしれない――なんてことが頭を過る。けれど、彼女は思っていた以上に純粋で、興奮しているみたい。
赤らめた頬を押さえるように両手で包んで自制していたけれど、話が一瞬にして飛ぶ。
キラキラとしているアメジストの瞳が、本音だと教えてくれた。
「まあ、それはありがとう」
本音と建て前――それが存在する社交界の中でこんな子がいることに救われる。
それにこのドレスは今日の日のためにメアリーとアン、ミリー、デザイナーたちの全力を尽くして作り上げたもの。
彼女たちを褒めてもらえるのは、素直に嬉しかった。
「どちらのブティックで頼まれたのですか?」
「ええと――……!」
ワクワクしながら尋ねてくるクリスティーヌ嬢に答えようと瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
何が起きたのかが分からなくて、瞬きを繰り返すけれど、明らかに違和感がある。頭皮から頬へと流れる雫に、ドレスから身体へと染み込む水気にゆっくり手のひらを見れば、手袋は濡れていた。
「きゃあああ……!!」
クリスティーヌ嬢の叫び声にやっと我に返り、バッと彼女に目を向ける。
「クリスティーヌ嬢! 大丈夫ですか!? 濡れてはいませんか!?」
「わ、私は大丈夫ですが、公爵夫人が……!」
淡い紫色のドレスに飛び散っている様子もなければ、彼女自身が濡れている様子もない。パッと見た感じ、被害はなさそうだと思いながらも、声をかけずにはいられなかった。
クリスティーヌ嬢は目に涙を溜めて、頷く。ポケットからハンカチーフを取り出し、濡れている私の顔や肩まわりを拭ってくれた。
顔を真っ青にしながら、心配してくれる優しさに胸を撫で下すと、上からクスクスと言う笑い声が聞こえて来た。
「あら……! 申し訳ありませんわぁ! 人とぶつかった衝撃で……!」
ちゃっかり、慌てたように言っているけれど、表情は歪んでいて笑っている。それを見て、困惑していた頭が急に冷静になってきた。
スンッと鼻腔を擽る香りが何なのかと考えれば、答えはすぐ出る。わざわざ赤いワインをワザとぶっかけにきたらしい。それにしても、頭からかけることはないだろうに――と、カナリア嬢の幼稚さに嘆息する。
「……」
少し離れた所からも小さな笑い声が聞こえる。嘲笑い、試すような視線ばかりだ。
心配してくれているのなんて、ごくわずか。いいえ、クリスティーヌ嬢暗いかもしれない。でも、これが社交界――私が三年間相手にしないといけない人たちだ。
元々、社交界の場に顔を出すのは苦手だった。
嘘を上手く飲み込まないとやっていけない世界というのもあるけれど、自分らしくあることを許されない雰囲気が、あまりにも窮屈で。
でも、今はそんなことを言ってられない。私は公爵夫人だ――これくらい上手に乗り越えなくちゃ、それまでの人間だと見下されてしまう。
カナリア嬢の威圧に気圧されているのか、私がされるがままになっているからか、おろおろしているクリスティーヌ嬢が目の淵に映る。
さあ、ここをどう穏便に終わらせようか――と、考えを巡らせるとピンッと閃く。
薄く口角を上げて、スクッと立ち上がった。
「まあ、大丈夫!? お怪我はありませんこと!?」
カナリア嬢の手をギュッと握りしめ、顔を覗き込む。
立ち位置の目算を間違えてしまったせいで、思っていたより、近い。
急に立ち上がるとは思っていなかったのか、顔があまりにも近すぎたからか、彼女はギョッとして、よろめいた。
「危ないわ……!」
カナリア嬢の倒れそうな身体を受け止めるようにグイっと引っ張って身体を寄せた。でも、勢いがあまりにもよくて、支える力が足りない。仕方なしにくるっと回って、バランスを取ると、彼女は私が座っていたソファへと自ら座った。
私の全身は赤ワインでびしょびしょ。手袋もひたひたに浸っているから、私が触れた所はもちろん赤ワインで濡れる。
なんて奇跡だろう、こんなコミカルなことが起きるなんてと内心驚きつつも、「転ばずにすんで良かった」なんて、本気で安堵して見せた。
「……あ、貴女のせいでドレスが汚れたじゃない!」
わなわなと肩を震わせるカナリア嬢は顔を真っ赤にさせて、わめく。
「まあ、ごめんなさい! あなたの身が心配で……!」
そう言われてしまえば、返す言葉がないのでしょう。
恨めしそうにこちらを見ていた彼女はガバッと立ち上がり、思いきり腕を振った。
「っ、ふざけな――!」
あ、これは流石にまずい――と思ったけれど、咄嗟のことでよけれそうもなくて、痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑った。
――けれど、待てど暮らせど、痛みはこない。
「……。――……?」
なんとなく、背後がじんわりあたたかい気がする。
そっと目を開けてみると、私の背中から誰かの手が伸びていて、彼女の手首を掴んでいた。
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