第18話
「少し話してくるから大人しくしていてくれ」
「わかりましたわ」
旦那様に連れ回さ――ゴホンッ、エスコートされながら、ひとしきり挨拶が終わると突然そんなことを言い出した。
きっと、殿方だけの話があるのかもしれない。
それに正直、足は慣れないヒールに悲鳴を上げている。
一人で行こうとする彼の申し出はなんとも救いで、心の中で「いってらっしゃいまし!」とハンカチをヒラヒラさせていた。
「……そこに座わって待っていろ」
急に連れ回すことをやめたのは私に聞かれたくない話があるのかと思っていたけど、違う。どうやら、旦那様は私の異変に気が付いていたみたい。
貴族の女性としてまだまだ詰めが甘いと反省しつつも、そうやって気遣ってくれる彼に感謝した。
素直に甘えて、促されるままにソファに腰をかけると旦那様は不安そうに私に目を向けている。
そこまで心配されるようなことはないと思うけれど、意外と心配性なのかもしれない。
安心させようと笑みを浮かべて手を振ると彼は背を向けて人混みの中へと紛れていく。
「…………」
旦那様が傍にいなくなれば、向けられる視線がなくなると思っていた自分の甘さに泣けてきた。
より一層、無遠慮なそれが刺さって仕方ない。
誰が一番最初に話しかけるか、なんて雰囲気もあるけれど、立場上、普通なら私に声をかけることはない。
それだけが安心材料っていうのもなんだか悲しいものだわ――なんて現実逃避をしていたら、色んな感情が混ざる視線を向けられる中、純粋な目とバチッと合ってしまった。
「……どうかなさったの?」
頬を赤らめて慌てる姿はなんだか小動物のようで愛らしくて、声をかけずにはいられなかった。
「あの、もしかして……ローレンス公爵夫人でしょうか?」
「え、そうだけれど……」
おずおずと近寄ってきてくれた令嬢は、ぎゅっと手を握りしめている。まるで、勇気を出して声をかけているようで健気だ。
そこまで怯えなくても、取って食ったりしないのに――と、怖い顔をしているのかしら、とショックを受けずにはいられなかった。
でも、問いに答えると彼女の表情はぱあっと明るくなる。
「わ、私……! 侯爵家の次女、クリスティーナ・エイベルと申します!」
「良かったら、隣に座ってお話しましょう?」
「はい! お声かけて貰えてうれしいです」
胸に手を添え、勢いよく挨拶してくれる令嬢に、瞬きを繰り返してしまった。
まさか、こんな好意的な対応をされるとは思っていなかったから、拍子抜けしてしまう。
子供のように目を輝かせる姿に毒気を抜かれて、口角が上がる。
首を傾げて、隣の空いている席をトントンと優しく叩けば、クリスティーナ嬢は首を激しく上下に振った。
「ふふ、熱い視線をもらったら、なんだか気になっちゃって」
「ぶ、不躾で申し訳ありません。会場に入られてから、夫人のドレスがとてもきれいで……! ずっと話してみたいなと思っていたんです」
生意気な弟しかいないから、もし、妹がいたらこんな感じなのかしら――と、憧れの妹像を彼女に重ねてしまう。
だからか、私は気が緩んでしまっていて、クリスティーヌ嬢をからかうように言ってしまった。
あ、やらかしたかもしれない――なんて、思ったけれど、彼女は思った以上に純粋みたい。
頬を両手で包むようにして恥ずかしがりながら、謝るけれど、話が一瞬にして飛ぶ。
アメジストの瞳がキラキラとしていて、明らかに本音だとそれが教えてくれた。
「まあ、それはありがとう」
「どちらのブティックで頼まれたのですか?」
「ええと――……!」
本音と建て前――それが存在する社交界の中でこんな子がいることに救われる。
それにドレスはこの日のためにメアリーとアン、ミリーにデザイナーたちが全力で考え、作ってくれたもの。だから、褒められるのは素直に嬉しかった。
ワクワクと尋ねてくるそれに答えようとした瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
一体、何が起きたのかが分からなくて、瞬きを繰り返すけれど、明らかに違和感がある。頭皮から頬へと流れる雫に、ドレスから身体へと染み込む水気にゆっくり手のひらを見ると、手袋は濡れていた。
「きゃあああ……!!」というクリスティーヌ嬢の叫び声に、やっと我に返った私は、すぐさま彼女に目を向ける。
「クリスティーヌ嬢! 濡れていない!? 大丈夫!?」
「わ、私は大丈夫ですけど、公爵夫人が……!」
淡い紫色のドレスに飛び散っている様子もなければ、彼女自身が濡れている様子もない。パッと見た雰囲気は彼女に被害はなさそうだとおもいながらも、声をかけずにはいられなかった。
クリスティーヌ嬢は目に涙を溜めて、頷きながら、ポケットからハンカチーフを取り出し、私を拭ってくれる。
顔を真っ青にしながら、私のことを心配してくれる彼女の優しさに胸を撫で下すと、上からクスクスという笑い声が聞こえてきた。
「あら……! 申し訳ありませんわ! 人とぶつかった衝撃で……!」
ちゃっかり、慌てたように言っているけれど、表情は歪んだように笑ってみえる。それを見て、困惑していた頭が急に冷静になってきた。
スンッと鼻腔を擽る香りが何なのかと考えれば、答えはすぐ出る。わざわざ赤ワインをワザとぶっかけにきたらしい。
それにしても、頭からかけることないだろうに――と、カナリア嬢の幼稚さに呆れていると少し離れた所からも小さな笑い声がした。
嘲笑い、試すような視線ばかり。
心配しているのなんて、ごくわずか。いいえ、クリスティーヌ嬢くらいかもしれない。
でも、これが社交界――私が相手にする人たち。
元々社交の場に顔を出すのが、苦手だった。
嘘を上手く飲み込まないとやっていけない世界だからって言うのもあるけれど、自分らしくあることを許されない雰囲気が、あまりにも窮屈で。
でも、今のは私は公爵夫人――これくらい上手に乗り越えなくては、それまでの人間だと更に見下されてしまう。
私がただ黙っていることもそうだろうけれど、カナリア嬢の威圧に気圧されているのか、クリスティーヌ嬢はおろおろとしているのが、目の淵に映る。
落ち着け――と息を深く、深く吐き捨てて、スクッと立ち上がった。
そして、一番最初にしたことは――カナリア嬢の手をギュッッと握ることだった。
「まあ、大丈夫!? お怪我はありませんこと!?」
「っ!?」
立ち位置が思っていたより、彼女寄りだったから、近い。
急に立ち上がるとは思っていなかったからか、顔があまりにも近すぎたからか、彼女はギョッとして、よろめいた。
「危ないわ……!」
転ばせるつもりは全くないからこそ、勢いが良すぎたことに内心おどろきつつも、カナリア嬢の倒れそうな身体を受け止めるように肩を掴む。
グイッと引っ張って、自分が座っていた場所へと座らせた。
私の全身は赤ワインでびしょびしょ。
手袋もひたひたに浸っているから、私が触れたことろはもちろん赤ワインで濡れる。
でも、それに気が付かないように「靴が合わなくてよろめいてしまったのでは?」なんて、本気で心配してみせた。
「……あ、貴女のせいでドレスが汚れたじゃない!」
わなわなと肩を震わせるカナリア嬢は顔を真っ赤にさせて、わめく。
これで、どちらの方が「器が広いか」が証明された。
「まあ、ごめんなさい! あなたの身が心配で……!」
そう言われてしまえば、返す言葉はないのでしょう。
恨めしそうにこちらを見ていると思えば、ガバッと立ち上がり、思いきり腕を振った。
「っ、ふざけない――!」
あ、これは流石にまずい――と思ったけれど、咄嗟の事でよけれそうもなくて、痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑った。
「――……?」
けれど、待てど暮らせど、痛みは来ない。
その代わりになんとなく、背後が温かい感覚がする。
そっと目を開けて目の前を見れば、誰かの手が彼女の手首を掴んでいた。
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