第7話


 チチチ、という小鳥の会話にパチッと目が覚める。ベッドから飛び起きて、一直線に外と部屋を仕切るカーテンに手をかけた。

 想像していたよりも明るい日差しに目を瞑る。けれど、じわじわと体中に染みるあたたかさに自然と口角が上がった。



「う~ん! いい天気!!」



 太陽に向かって伸びをしながら、ゆっくり息を吐き出す。

 固まっていた身体が、ほんの少し柔らかくなった感覚に両腕を脱力した。


 タイミング良く、扉をノックする音に声をかければ、メアリーが入室してくる。



「奥様、おはようございます」

「おはよう。メアリー」



 すでに起きていることに驚いているのか、微かに目が見開いた気がしたけれど、すぐさま、いつも通りの表情に戻った。

 昨日は振り回してしまったという自覚がある分、変わらずに仕えてくれる彼女に胸があたたかくなる。



「本日はどうされますか?」

「う~ん、どうしようかしら」



 手際よく整えられるモーニングティーの準備を眺めようとベッドに座り直すと、唐突に投げかけられた。


 旦那様から許可を頂いちゃってるから、今日から実家に行っても何も問題はないんだろうけど、しばらく来るなと忠告されてるし、と頭を悩ませる。


 貴族のたしなみ――というか過ごし方はあまり覚えていない。

 ぼーっとしていたら、時間が過ぎていたような気もし、たまに本を読んでいたようなきもしなくもない。


 どうぞ――と用意されたティーカップを持つ。熱すぎず、冷たすぎないちょうどいいあたたかさは乾いた喉によく潤う。ふんわりと鼻腔を擽る紅茶の匂いがまたほっとさせてくれた。



「では、商人でも手配いたしましょうか?」



 いまだに決まらない予定に唸っていると、メアリーが提案してくれる。

 買い物をするのに呼び寄せるなんて、考えも浮かばなかったから、ピタリと固まってしまう。でも、彼女は平然としていて、それが当たり前だと教えてくれる。


 これが、上級階級なのだ、と。



「奥様?」

「ああ、ううん。旦那様が用意してくださったドレスも宝石もあるから大丈夫よ」



 まじまじと見つめていた私に、メアリーは不思議そうに首を傾げる。それにハッとして、首を横に振った。

 ほっとくとすぐに自分の世界に入り込んじゃうから悪い癖ね、と自嘲しながら、やんわり断る。


 一体、これは何年分だろうと疑問を抱かずにはいられないくらいの量がクローゼットの中にずらりと並んでいたことを思い出したら、正直いらない。

 お飾りなのだから、それらしくつつましくいたい――というものよ。



「では、……」

「そうだ!」

「決まりましたか?」



 私を思って、考えてくれて、他の案を探してくれてる。

 この子が専属メイドで良かったと嬉しくなった瞬間、パンッと両手で叩く音が部屋に響く。その音に驚いて目を大きくさせながらも、こてんと首を傾げる。



「あのね、私――」

「……」



 真剣な私の表情をくみ取ったのか、メアリーもまた真剣だ。ごくりと固唾を飲み込んで私の言葉を待つけれど、そんな大それたことを言うつもりはないの。

 ……私にとってはとっても大事なことなのだけれど。



「すっっごく方向音痴なの」



 その発言に拍子抜けしたのか、メアリーは目をパチパチさせた。



「だからね、初日に案内してもらったけれど覚えきれてなくて……一緒に屋敷散策してくれないかしら?」

「――屋敷散策、ですか」



 初日に通された寝室が、夫婦のものだと知って慌てて飛び出したけれど、そのあと実は人知れず、迷子になった。

 それに昨日、旦那様の執務室の場所も分からずにいたこともあって、危機感を覚えずにはいられない。


 三年間しかお世話にならないけれど、そのたびに迷子になってお世話になる人たちの迷惑になりたくない。だからこそ、今日一日を使って、丁寧に覚えようと閃いたわけだ。



「ええ、皆さんのお手を煩わせるわけにはいかないもの――って、もう、メアリーに迷惑ばかりかけてるわね。ごめんなさい」



 肩書は公爵夫人で、この屋敷の女主人――それが迷子の常習犯というのは、流石にいただけない。しっかりしなきゃ、と鼓舞するつもりで言ったけれど、もう目の前の彼女を振り回していた。

 なんだかいたたまれない気持ちになって、頭を下げると今度は彼女が慌てる番だった。



「あ、頭を上げてください! わ、分かりましたから……まずはお支度しましょう」

「ありがとう。メアリー」



 眉を八の字にして、あわあわする姿が年相応に見えて、可愛らしい――なんて、感想を頭の片隅に置く私は、一度怒られてもいいかもしれない。


 気を取り直したように自身の発言に首を縦に振る彼女に笑顔を返した。



◇◇◇



 公爵家の庭は広い。迷路のように入り込んでいて一人で散歩したなら、絶対迷子になる自身しかないほどだ。

 これは気を引き締めて、道を覚えなきゃ――と思った矢先、人影を見つけた。



「あら、こんにちは」

「……これはこれは奥様。どうかされましたか?」



 声をかけて駆け寄ると、背を向けていたご老人はビクッと肩を揺らす。

 一拍おいて、ゆるりと振り返る彼は微かに目を見開いた。


 メアリーが傍についているからか、私が女主人だとすぐ気が付いたらしい。

 帽子を取って、ペコっと丁寧にお辞儀してくれた。ゆっくり上げられる顔は何とも柔らかく、芯のある方という印象を受ける。



「屋敷の散策していて……ごめんなさい。まだ挨拶していなかったわね。あなたのお名前を聞いてもいいかしら?」

「庭師のゴードンと申します」



 初日に屋敷に関わる人達に挨拶し終えたと思っていたけれど、まだ会えていない人がいたという事実が悲しくて、眉を八の字にした。

 一応、貴族――公爵夫人という立場になる人が、謝るというのはおかしいのかもしれない。それはそれは不思議そうにこちらを見るとハッとして、名前を教えてくれた。



「ゴードンさん。あのね、私の部屋からお庭が見えるの。丁寧にお世話されてるおかげで夜も綺麗でね。すごく感動したの」



 ゴードンの顔はどこか硬い。あまり歓迎されてないのかもしれない――という不安に、日傘を持つ手に力が入る。

 怯みそうな自分を鼓舞させて、嫁いできた初日に味わったあの感動を伝えると、彼は目を真ん丸にさせた。



「有難きお言葉です」

「素敵なお庭を作って下さってありがとう」



 意外そうに、でも嬉しそうな表情が嬉しくなって、口角が上がる。



「……ほっほっほっ、奥様にそう仰っていただき、光栄です」



 何か愉快そうなことがあったのか、声を上げて笑う彼に驚いたけれど、最初に合った壁がなくなった――気がする。

 丁寧に優しく人の心をいやすようなこのお庭を作っているからこその人柄なんだわ。

 とても朗らかで、そばにいると温かい気持ちになるからこそ、確信がある。



「今度、お庭のことを教えてくれると嬉しいのだけれど……」

「こんな老いれでよろしければ、ご案内させていただきましょう」



 まだ彼からお庭のことを聞きたい――という思いはあった。でも、突然お仕事の邪魔をするのは気が引けるし、今日一日がここで終わってしまう予感がする。

 脱・迷子のためにも惜しくおもいながら、ちらりと視線を向けると、優しい笑顔が頷いていた。


 この屋敷に来て心から会話を楽しむことが出来た気がして、次に向かう足取りはとても軽く感じる。



「――それにしてもすごわいね」

「何がですか?」



 くるりと振り返って、話しかけるとメアリーはこてん、と首を倒した。


 私より背丈が低いから、自然と上目遣いになってその仕草が可愛くって、ひとりできゅんきゅんしちゃう。

 誰かとこれを共有したい――と思うけれど、それを共有する人がいないことがとても悔やまれる。



「公爵家って大きいのに使用人はそこまで多くないじゃない? それなのに綺麗に保ってるなんて……やっぱり良家にはプロフェッショナルが集まるのかしら」

「――それぞれ得意なことを持ち場にしているだけです」



 私の返答を待つその姿も可愛らしい、と喉から出そうになる言葉を押しとどめて、ひとつずつ言葉にしていく。


 そう、公爵家ほどになれば、使用人が何百人といてもおかしくない――はず、多分。でも、実際は百人も――もしかしたら、その半分くらいしかいないかもしれない。

 それなのにこの広い屋敷を保てる技術があるというのは、感心するしかない。


 なんだそんなことか、とメアリーは別に誇るでも照れるでもなく、淡々と言うけれど、どう考えてもすごいことだ。

 前へと向き直して、ちらり、と数歩後ろを歩く彼女に目を向けても涼しい顔をしている。



「なるほど……適材適所ってやつかしら」

「――そんな甘い話ではないんですよ」



 何年ここで働いているかは知らないけれど、メアリーにとって驚くことでもないのでしょう。言葉のまま受け取って納得する私に、ピタリと足を止めた。

 ぽつり――と何かを呟いたように聞こえて、振り返る。



「何か言った?」

「いいえ、何でもありません」



 あまりにも小さすぎて拾いきれず、小首をひねる。でも、メアリーはもう一度いう事もなく、ただ首を横に振るだけだった。


 聞こえて欲しくないことだったのか、独り言だったのか、それは分からない。けれど、深堀しない方がいい気がして、迷路の花道を抜けるべく、歩き出した。


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