第6話
夕方までには戻ろうと思っていた――それは今となっては、言い訳に過ぎない。
帰りの馬車の中から見える外の景色はどっぷり日が暮れていて――それどころかお月様がこんにちは、と微笑んでいた。
「やっちゃった……よねぇ?」
「ええ、やっちゃいましたね」
「だよねぇ……」
外から、斜め前に座るメアリーへと視線を向ければ、静かに頷かれる。
やらかしてしまった――という自責の念が押し寄せて、頭を抱え込んでいるといつの間にか屋敷についていた。
「奥様、おかりなさいませ」
「遅くなってごめんなさい」
屋敷へと入り、一番最初に迎えてくれたのは、ご老齢の執事長――セバスチャン。
怪訝な顔をひとつすることなく、お辞儀する姿は洗礼されていて、優雅だ。申し訳なさで眉根を下げ、謝罪した。
私の世話をするために働いている人たちがいる――そのことを忘れていたわけじゃない。それなのに帰宅時間も伝えず、かなり遅い帰宅になってしまったことが今更ながら、心苦しくなった。
「いえ、大丈夫ですよ。それと使用人に敬語は不要です」
「っ、……旦那様はお帰りかしら?」
「はい。旦那様からご伝言をお預かりしております」
「……だ、旦那様から?」
セバスチャンは、にこりと笑みを浮かべてくれるが上辺だけなのが分かる。
ちょっぴり寂しさを覚えたけれど、それだけのことをした自覚はとてつもなくある。だからこそ、甘んじて受け入れて小首を傾げた。
まだ帰宅していないこと期待していたけれど、現実は甘くない。残念なことに叶わず、セバスチャンは首を縦に振った。
旦那様から直接叱責されるのかしら――と心臓が跳ねる。
笑顔を向けたつもりだったけれど、頬が引き攣っているかもしれない。
「はい。執務室に来るようにとのことです」
「分かったわ」
帰って来て早々の伝言――ということは、余程の急ぎかもしれない。
急いで向かおうとした。した――んだけど。
「――ご、ごめんなさい。まだ覚えられてなくて……案内してもらえないかしら?」
「かしこまりました」
嫁いだその日にこの広大な屋敷の中は案内してもらってはいる。けれど、たった一日で何部屋もある屋敷を覚えられるか、と言われれば、難しい。
それに別のことに気を取られていて、屋敷の中は二の次になっていたから、自分の部屋と夫婦の寝室しか覚えられていない。
自分の記憶力に嘆いていると背筋につぅ、と冷たいものが走る。
セバスチャンは何度か瞬きを繰り返していたけれど、ハッと我に返って咳払いし、案内してくれた。
◇◇◇
「ふぅ……」
執務室の前――私は立ち止まっていた。
何を言われるのかが想像つかなくて、正直気が重い。
案内してくれたセバスチャンはもうここにはいない。
いつまでもここにいるわけにもいかないから、覚悟を決めるしかない。深く息を吐き出して覚悟を決めると扉をノックした。
「入れ」
穏やかで低い声が響く。感情の抑揚が見えないのが、ちょっぴり怖さを覚える。
より一層、身体が重くなるのを感じながら、執務室へとお邪魔した。
「し、失礼します……あのぉ……た、ただいま帰りました。えっと……遅くなってごめんなさい」
仕事をし続けていて、旦那様は一度もこちらを見ることはない。けれど、その傍で控えている旦那様の右腕っぽい青年――クロードさんからは鋭い眼光をいただいてしまった。
異様な空気に頭を下げてみたもの反応がない。
「君がどこでどう遊んでいようと勝手だが、公爵家の品位を――」
これは逆鱗に触れてしまったのではないか、と冷や汗が止まらない。どうしたらいいのか分からなくて、混乱していると心ない言葉が飛んでくる。
そりゃあ、特に行き先を告げずに勝手に街に出かけたのは私だけれど、それを遊びだと断定するのはあまりにもひどい話だ。
「ちょっと待ってください……!!」
黙っていられない――と、下げていた頭をガバッと上げて、執務をしている旦那様のデスクにバシンッと両手を叩き下ろした。
「……なんだ」
「それはひどい誤解です!」
あまりにも勢いよく叩いたせいか、デスクにある書類が風に舞う。振動で揺れるからか、ペンを持つ手を止めて、ちらりとこちらを見る。微かに目を見開いているけれど、目の前の旦那様は依然、冷ややかだ。
ジンジンと痛む手のひらをぐっとこらえて、高らかに言った。だって、事実無根なんだもの。
「君に興味はない。別に言い訳なんて――」
「結婚するときに好きにしていいと仰いましたよね」
「ああ」
旦那様は私の訴えに目を細め、手元の書類に視線を戻す。まるで、どうでもいいと言われているみたいで、正直腹が立つ。
そうなら、最初から忠告などするな――と言いたくなる。お飾りでいいと言ったのは彼なのだから、その言葉の責任を取って欲しい。
刺々しく念を押せば、簡素な相槌が返ってくる。
「だから、出かけたんです!」
「別にそれを咎めてなどいない。変な噂が広まって困るのは君だ。ほどほどにしろと言ってるだけだ」
語尾を強めて言えば、流石に非はないと分かっていただけるだろう――と、期待した私が甘かった。
確かに咎められてはいない。きっとこれから社交界に出る時に足を引っ張られないようにという心配からの忠告だというのは、分かる。
「そうは言われましても、仕事が予定より時間かかってしまって……」
疲れているせいか、あまり頭が回らない。それでも、伝わるように、理解してもらえる言い方を模索してみるけれど、良案はない。
口にする言葉がどれも言い訳がましいと思われるだろうなぁ――と諦めかけたその時、書類を走るペンがビタッと止まった。
「――仕事?」
「はい。そうです」
ゆっくり頭が上がり、深い青色がジッと疑いの目とかち合う。
ずっと興味なさそうに聞き流していた旦那様の興味が初めてこちらに向けられた。
平民は男女共に働くことも珍しくはないのに、そこまで驚く必要はあるのかしら――と疑問を胸に、コクリと頷く。
「借金はもうないのに?」
「仕事は趣味です!」
我が家の目下の問題は借金――という認識だったのかもしれない。それがなくなった今、何故働いているんだと言わんばかりに頭の上に疑問符を浮かべている。
胸に手を添えて、自信満々にこたえたけれど執務室が何故か、シーンとなった。何なら、旦那様は目を真ん丸にして口を一文字にしていて、クロードさんはポカンと口を開けている。
「仕事が、……趣味?」
「えーっと、あーと、あの、……はい」
思っていた反応と違くて、少し不安になっていると薄く唇が開かれた。
なんの確認か分からないけど、事実、私の趣味――もしかして、仕事を舐めてると思われたのかしら。それとも、旦那様のプライドを傷つけてしまったのかしら。
思ったことをすぐ口にしてしまうのは、本当に悪い癖ね。ルーカスのことを言えない――と、自分を諫めつつ、言葉を濁す。
でも、嘘も誤魔化す言葉も咄嗟に出てくることはなくて、結局、素直に認めてしまった。
「貴婦人は読書や刺繍、お茶会などに励み、ドレスや宝石を気分で飼って暇を潰しているイメージだが」
「貴族のご婦人はそうなのかもしれないですけど、元々男爵令嬢でしたし……それに私は庶民歴五年なんです」
「……庶民歴」
趣味の概念をすり合わせているみたいなんだけど、確かに上級階級のご婦人やご令嬢はそうらしい。
夜会とかでそういった話をしたのを遠くで聞いたことがあるから、きっとそうなんでしょう。でも、こちとら裕福な家庭でもないし、騙されて庶民になっちゃった家なので、そんな趣味を持ち合わせていない。
働くことの方が身体に染み込んでいるからこそ、自信もってそんな贅沢な趣味を持っていないと胸を張った。
ポカンとしている旦那様の表情に誤解が解けたような気がして、晴れやかな気分になっていく。
「兄たちに旦那様の許可なく来るなと言われてしまったので、許可をください」
「働かなくても金を自由に使っていい。それなのに何故、行きたいんだ?」
リオン兄さんに課せられた課題をクリアするなら今しかないと閃き、お説教ついでにお願いすれば、彼の眉根が寄った。
端整な人が眉間をしわくちゃにしても、綺麗なままなんだなぁ――とのんきにしていると疑問が返ってくる。
好きなことをしていいと仰ったから、そうしているだけなのに訳の分からない質問だ。
答えなんて、すごく簡単でシンプルなのに。
「楽しいから決まっているでしょう?」
「……そうか」
こてん、と首を倒して答えれば、鋭い目が大きく見開かれた。
「あ、えっと、許してくださいますか?」
「ああ、そういう約束だからな」
「ありがとうございます!」
バカにされたり、制止されるかと思いきや、すんなり受け止めてもらえて私も戸惑いを隠せない。
ハッと我に返って、もう一度問いかければ、あっさり認めてもらえた。
あんなに文句言いたげだった旦那様の雰囲気が柔らかくなった気がして、ホッと胸を撫で下した。
「ただし、公爵夫人とバレないように」
「はい。裏方しかもうできないようにされてしまったのでご安心ください!」
貴族の――しかも、公爵夫人が民間で働いていると知れ渡ったら、とんでもないことになる。
それを心配して家族も止めたのだから、旦那様の忠告は最もだ。
伺うような目で覗いてくる彼に、にこりと微笑んだが、反応がイマイチ信用されてない。
「あ、兄たちと仕事の相談するために通信機を自室で使うことをお許しいただけますか?」
「よくそんなものを持っているな」
あとでまた文句を言われるのも、許可をいただきにくるのもめんどうくさい。
今終わらせてしまえ、ともうひとつ許可を願い出れば、不思議そうな顔をされた。
通信機というのは魔道具の一種。
ギフトを持たず、魔法と呼ばれる力を操る者の一部が作る道具のため、貴重で高価なものだ。
借金まみれの我が家に何故あるのだ――と疑われても仕方ないんだけれど、これには事情がある。
「あ、これは買ったものじゃなくて――」
「ああ、いい。好きにしろ」
嘘をつかずにどうこたえようかしら――と考えを巡らせたけれど、最後まで言わせてもらえなかった。
どうやら、これには興味がないみたい。
「ありがとうございます……!」
突っ込んで聞かないでくれるのであれば、これほど嬉しいことはないもの。
旦那様の好意と受け取ることにして、頭を深々下げるとぐぅ……と小さい音が鳴った。
「……」
「…………」
なんとも間の悪い虫がいたものでしょうか。恥ずかしいったら、ありゃあしない。
お昼はメアリーのご飯をいただいたけれど、やっぱり仕事をするとお腹は減るものだ。
「そ、それでは失礼しますね……!!」
ぶわわぁ、と熱が顔に集まる感覚を覚えつつ、誤魔化すように執務室を後にした。
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