第5話


 重い――重い、沼の底のような、はたまた、手足に鉛が付いているような感覚がまとわりつく。

 実際に沼の中にいる訳でも、監獄にいる犯罪者のように手足を拘束されているわけでも、鉛を付けられているわけでもない。

 風景も身なりも、別段変わりはないのにその事実が寄り一層、身体も心も重くさせた。


 夢であって、夢ではない――いうなれば、夢と現実の狭間とでもいうのか、そんな場所に何度呼ばれたことか。

 これから起こることに、眉間にシワが寄るが、これから起こる現象はこちらの心情に気にも留めないだろう。

 私の気持ちも考えもそれに伝えたところで、意味をなさないこと知っている。天を相手にするようなものなのだから。



「あなたは私のもの」



 するり、と絹のような柔らかい指先が頬をかすめる。

 微かに冷たいそれに身体を強張らせると、掬い上げるように顔を上げさせて、そう呟かれた。


 ――そう、これは昔からの約束。何十回、何百回と聞かされ続けた一方的な約束だ。


 何の因果か分からないが、自分と同じ色の髪と瞳を持つ女性がそこにいる。

 愛しい人を見るような恍惚としたその表情は、傍から見れば美しいと思えるだろう。だが、それは同じ感情を持ち合わせていた場合に限る。

 私にとっては、おぞましく、逃げ出したい女だ。

 


「だから、――誰のものにもなっちゃダメよ」



 唇と唇がくっつきそうなほどに顔を近寄らせ、目を細める彼女は、耳心地の良い声で告げる。

 一見優しく聞こえるが、どことなく恐ろしさを孕むそれはまるで、忠告――いや、彼女は忠告するために、わざわざ夢と現実の狭間に私を呼び寄せたのだ。



「心は私に捧げなさい」



 冷ややかな、海の底のような青が射貫く。

 

 そんなことをしなくても、誰のものにもなるつもりはない。何度説得しても、結局信じる気なんてこの女にはサラサラないのだ。

 だから、不安になる度、こんな場所に呼び出されなくてはいけない。全ては彼女の心の安寧のために、だ。


 この女のために生きていなきゃならないなんて、なんて滑稽な人生なのだろうか――と笑えてくる。

 薄く口角を上げれば、不満そうな顔をした彼女は、ただでさえ、近かった顔をグイッと寄せた。



「っ!」



 口付けされる――そう思った瞬間、飛び上がった。

 今までそういうことをしてきたことはなかったから、油断した。


 触れた感触はないにしろ、心臓に悪い。いや、本当に触れていないのか――と、嫌な考えが浮かぶ。

 拒絶したい感情と事実が混ざってそう思い込もうとしているのではないかと猜疑心まで生まれるから厄介だ。


 女に関わっていいことなんて、全くない。

 それでも公爵家の嫡男である私に結婚しないという選択肢はない。



「……俺は前世、女を地獄にでも落としたっていうのか」



 自身の人生に嘆かずにはいられず、思わず出たそれは、広い寝室に静かに溶けて消えた。


 夫婦の寝室にはなるが、妻は昨夜、自室へと帰ったからいない。

 聞かれずに済んだ独り言に安堵するべきか、否かを考えているとコンコン、と聞き慣れた叩き方の音が鼓膜を揺らした。



「入れ」



 体を巡る重たく、深く長い息は勝手に口から出る。それで少し軽くなったような錯覚を覚えるが、倦怠感は拭えない。

 それはそのはずだ。眠りが浅く、寝た気などしていないのだから。

 しかし、時間は待ってなどくれない。

 

 外で私の返事を待っているクロードに声をかければ、扉が開かれた。



「ウィリアム様、おはようございます」

「……ああ。彼女は――……まだ眠っているか」

「いいえ、起きておられます」



 部屋に入って会釈すれば、黒の長髪を一本に束ねた髪がはらりと流れ落ちる。

 黒曜の瞳が真っ直ぐ見つめるその姿は生真面目と言っても過言ではないだろう。抑揚のないそれに聞き流し、昨日、妻となった女の様子を聞こうと思ったが、まだ早い。

 

 日は昇ってはいるが、貴婦人が起きる時間帯ではないはずだ。聞くことでもなかったと頭を振れば、意外な答えが返ってきた。



「随分早いな。何をしている?」



 こんなに早くに起きてまですることなどないはずだ。

 公爵夫人と言っても、もう既にこの屋敷は機能しているし、まだ夜会に連れ出して紹介などもしていないのだから、ご婦人の茶会に誘われるようなこともないはず。

 つまり、本当に何もやることがない。


 本を読むのが好きだったとしても、裁縫するのが好きだったとしても、演奏することが好きだったとしても、こんな時間に起きても、夕方までとても持たず、暇を持て余すに決まってる。

 暇に決まってるはずなんだ。



「それが……」

「どうした?」



 コイツが言い淀むなんては中々ないが、口止めでもされているのか、と目を細める。



「…………街へと出かけました」



 ゴホンッ、と咳払いしてから、重く口を開くクロードだが、自身の言葉に奴も信じられないような表情を浮かべて、告げる。


 婚姻を結んで二日目の朝に街へと出かけるなんて誰が思うだろうか。正直、斜め上の出来事だ。



「――――は?」



 ピチチチっと鳴く鳥のさえずりが遠くの方で聞こえた気がした。


 

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