第3話(ウィル視点)


 重い――重い、沼の底のような。はたまた、手足に鉛が付いているような感覚がまとわりつく。

 実際に沼の中にいるわけでも、監獄にいる犯罪者のように手足を拘束されているわけでも、鉛を付けられているわけでもない。

 風景も身なりも、別段変わりはないのにその事実がより一層、身体も心も重くさせた。


 夢であって、夢ではない――言うなれば、夢と現実の狭間とでもいうのかもしれない。何度も呼び出されたそんな場所に、いる。

 これから起こるであろうことに眉間にシワが寄るが、これから起こる現象はこちらの心情など気にも留めないだろう。


 私の気持ちも、考えも伝えたところで、意味をなさないことを知っている。

 天を相手にするようなものなのだから。



「あなたは、私のもの――」



 するり、と絹のような柔らかい指先が頬をかすめる。

 微かに冷たいそれに身体を強張らせると、掬い上げるように顔を上げさせて、そう呟かれた。



 ――そう、これは昔からの約束。何十回、何百回と聞かされ続けた一方的な約束だ。



 なんの因果か分からないが、自分と同じ色の髪と瞳を持つ女がそこにいる。

 愛しい人を見るような、恍惚とした表情は傍から見れば、美しいと思えるのだろう。だが、それは同じ感情を持ち合わせていた場合に限る。

 自分にとっては、おぞましく、逃げ出したい女だ。



「だから、――誰のものにもなっちゃダメよ」



 唇と唇がくっつきそうなほどに顔を近寄らせ、目を細める彼女は甘い声で告げる。

 一見優しく聞こえるが、どことなく恐ろしさを孕むそれはまるで、忠告――いや、彼女はそのためにわざわざこの狭間に呼び寄せたのだ。



「あなたの心も、身体も魂も……髪の毛一本さえも全てよ。誰にも渡さない」



 冷ややかな、海の底のような青が射貫く。


 そんなことをしなくても、誰のものにもなるつもりはない。何度説得しても、結局信じる気なんてこの女にはサラサラないのだ。

 だから、不安になる度、こんな場所に呼び出されなくてはいけない。

 全ては彼女の心の安寧のために、だ。


 この女のために生きていなきゃならないなんて、なんて滑稽こっけいな人生なのだろうか――と笑えてくる。

 薄く口角を上げれば、不満そうな顔をした彼女は、ただでさえ、近かった顔をグイッと寄せた。



「っ!」



 口づけされる――そう思った瞬間、飛び上がった。

 今までそういうことをしてきたことは無いから、油断した。


 触れた感触はないにしろ、心臓に悪い。いや、本当に触れていないのか――と、嫌な考えが浮かぶ。

 拒絶したい感情と事実が混ざってそう思い込もうとしているのではないかと猜疑心さいぎしんまで生まれるから厄介だ。


 女に関わっていいことなんて、全くない。

 それでも公爵家嫡男である自分に結婚しないという選択肢はない。



「……前世で女を地獄にでも落としたっていうのか」



 嘆かずにはいられず、思わず出たそれは、広い寝室に静かに溶けて消えた。


 ここは一応夫婦の寝室にはなるが、昨夜それを知った妻は自室へと帰ったからいない。

 聞かれずに済んだ独り言に安堵するべきか、否かを考えているとコンコン、と聞き慣れた叩き方の音が鼓膜を揺らした。



「入れ」



 身体を巡る重たく、深く長い息は勝手に口から出る。そのおかげか少し軽くなったような錯覚を覚えるが、倦怠感は拭えない。

 眠りが浅く、寝た気などしてないのだから、そのはずだ。しかし、時間は待ってなどくれいない。


 外で私の返事を待っているクロードに声をかければ、扉が開かれた。



「ウィリアム様、おはようございます」

「……ああ。彼女は――……まだ眠っているか」

「いいえ、起きておられます」



 部屋に入って会釈すれば、黒の長髪を一本に束ねた髪がはらりと流れ落ちる。

 黒曜の瞳がまっすぐ見つめるその姿は生真面目と言っても過言ではないだろう。抑揚のないそれを聞き流し、昨日、妻となった女の様子を聞こうと思ったが、まだ早い。


 空を見ても夜が明けて二時間ほど経ったくらいだが、まだ貴婦人が起きる時間帯ではないはずだ。

 聞くことでもなかったと頭を振れば、意外な返事が返ってきた。



「随分早いな。何をしている?」



 こんなに早くに起きてまですることなどないはずだ。

 公爵夫人といっても、もうすでにこの屋敷は機能しているし、まだ夜会に連れ出して紹介などもしていないのだから、ご婦人の茶会に誘われるようなこともないはず。

 つまり、本当に何もやることがない。


 読書が好きだったとしても、裁縫が好きだったとしても、演奏をすることが好きだったとしても、こんな時間に起きても、夕暮れを待たずに暇を持て余すに決まっている。

 暇に決まっているはずなんだ。



「それが……」

「どうした」



 クロードが言い澱むなんてことはなかなかないが、口止でもされているのか、と目を細める。



「…………街へと出かけました」



 ゴホンッ、と咳払いしてから重く口を開くクロードだが、自信の言葉に奴も信じられないような表情を浮かべる。


 婚姻を結んで二日目の朝に街へと出かけるなんて、誰が思うだろうか。正直、斜め上の出来事だ。



「――――は?」



 ピチチチッと鳴く鳥のさえずりが遠くの方で聞こえた気がした。



―――――――――――――――――――――


改稿 2024.07.07


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