時縄勇太は最愛の彼女と悪女の間で揺れ動く
第72話
予備校の最終講義が終了し、俺は自習室へと向かう。
一人ずつに区分けされた個人スペースは人気が高く、座ることができなかった。
俺よりも頭が悪く、勉強に人生を賭けている人間でもない奴等ばかりのくせに。
思わず舌打ちを鳴らしながらも、俺は大広間教室へと足を踏み入れる。
『夏を制する者は受験を制す』
誰が言ったかは知らんが、受験界隈で囁かれる格言。
その言葉を信じ、多くの受験生たちが自習室に残っていた。
六月、七月頃は中弛みする生徒が多かったはずだが……。
やはり、八月の下旬にも差し掛かれば、そろそろマズイと思うのだろう。
適当な座席に腰を掛け、俺は数学のテキストを取り出す。
(もう徹底的にやるしかないな、今日も)
それは——数学チャート式問題集。
受験生なら誰もが一度は聞いたことがある参考書だ。
青・黄・赤など様々な色があり、段階に応じて自分で選ぶことができる。
で、現在——俺が使用しているのは、緑色のチャート式だ。
この参考書の難易度はセンター試験レベルで、受験生にちょうどいい難易度なのだ。
『数学の問題はパターン暗記。解ける問題を着実に増やすしかない』
彩心真優から、俺はそう教えられた。
問題を見た瞬間にどうやって対処するべきか。
それがわかるまでは、基礎を徹底的に叩きこめとのことだ。
『受験勉強は基礎となる参考書を徹底的に繰り返す。これに限る』
逆に言えば、難しい参考書を使用した場合、時間を無駄にするという。
一般的に基礎と呼ばれる参考書を何度も繰り返し行い、それが頭の中に入れば、点数は飛躍的に伸びるというのだ。
『センター試験レベルと舐めてる受験生が多くいるけど、実際難易度は結構高い。ていうか、数学で満点を取れないくせに簡単とか言ってる奴等の意見なんて聞かなくていい』
彩心真優が言うには——。
受験に出てくる問題は、基礎的な問題が6割、応用問題が3割、発展問題が1割。
で、応用問題と呼ばれる問題は、基礎的な問題を組み合わせたものに過ぎないらしい。
つまるところ、基礎問題を抑えれば、ほぼ全ての問題が解けるそうだ。
『苦手な科目を伸ばす方法は、ページ数が少ない参考書を選ぶことだよ!!』
ページ数が少ない参考書を選んだほうが一周を早く終わられるそうだ。
ただ解説が詳しく載っているものを選んだ方がいいので……。
問題数は少ないけど、解説が詳しく載っている参考書を選ぶといいらしい。
というわけで——。
俺は予備校内で最も成績が高いお嬢様の言うことを素直に聞き、勉強に励むのであった。
「時縄くん。一人で残って何してるの? もう時間だよ、時間」
肩を揺さぶられて、俺はやっと気が付いた。
自分がとんでもない集中力を発揮し、予備校が閉まる時間になっていたとは。
俺が通う予備校の閉館時刻は、午後九時まで。
最終講義が終わったのが午後5時だったから、俺は四時間ぶっ通しでやってたのか。
「彩心さん言われただろ? 数学の問題は毎日決めた数だけで必ずやれってさ」
「うん、言った。慣れるまでは毎日3問ぐらいでいいけど、慣れたら毎日10問、20問解いたほうがいいよって教えたはず」
本人曰く——。
数学の問題は、毎日解き続けることに意味があるようだ。
それも同じ問題を何度も何度も解く。解法が瞬時にわかるまで。
例えば——「100問で極める大学受験数学!」という問題集があれば、一番最初は毎日3問とか5問ずつやっていけばいいらしい。
この問題数も、最初は自分ができる範囲で、もしも苦手な人なら最初は1問ずつでもいいようだ。ただ、必ずその日行ったことだけは必ず自分が成長していると実感しなくてはならないらしい。
昨日の自分よりも今日の自分が成長している。
また、今日の自分よりも明日の自分が成長している。
そう思えれば、学習方法として間違っていないようだ。
「で、今日は20問解けたぜ」
受験勉強には裏技なんて存在しない。
日頃の努力が物を言う世界だ。
ただ、その努力の方向性が正しければ結果は自ずと付いてくるのだ。
「凄いじゃん!! 前まで全く解けなかったのに!!」
「と言っても、この参考書は今回で4周目ぐらいだけどな」
「4周目か。でも、毎日20問も解けるなら、一週間あれば1周できるでしょ?」
「まぁ〜な。お前の勉強を真似したのが、功を奏したのかもな」
勉強スタイルというのは、各々が違う。
以前までの俺は、がむしゃらにやれば成績が伸びると思っていた。
だが、その方法では全く伸びることはなかった。
自分のレベルに適した参考書を選んでいなかったからだ。
「元々、この勉強方法はサユちゃんに教えてもらったんだけどね」
「サユさんに?」
「うん。サユちゃんって、勉強大嫌いだからさ。どれだけ効率良く成績を伸ばせるかしか考えてないから。で、私はそろそろ参考にして、現在の勉強方法になった感じ」
自由奔放な人だもんな、サユさんって。
遊ぶ時間を少しでも増やすために受験勉強を効率化させるか。
ただ、その限られた時間内で結果を残す。
その考え方があるからこそ、成績が伸びたのかもしれない。
以前の俺の場合だと、効率が悪い勉強法で、時間を徹底的に掛けて伸ばすタイプだし。
「でもさ、どうしてセンター試験用の参考書を俺に勧めたんだ?」
「基礎問題に抜けがないようにできるからだよ」
それに、と呟きながら、彩心真優は続きを言う。
「センター試験用の参考書をやれば、過去のセンター試験問題が自分の参考書になるから」
「もしかして……彩心さん。俺に過去のセンター問題を全て解けと?」
「全てを解けとは言わないけど、十年分。最低でも五年分やれば自分の糧になる」
センター試験問題は良問の宝庫だという。
市販の参考書を解くよりも過去問題を解いたほうが経験値効率がいいらしい。
そのためにもセンターレベルの問題で躓くことがないレベルまで上げる。
それが、彩心真優の目的で、俺の成績を上げるための戦略だというのだ。
「ていうか、時縄くんも気になるでしょ? 自分がどのくらい解けるのか?」
「そ、それは確かに……気になる」
「でしょ? それに過去問を解くことで、自分の得意分野と苦手分野を把握できる」
だから一番最初の参考書として一番良いんだよ、と彩心真優は自慢気に語った。
◇◆◇◆◇
予備校の玄関を出ると、夏の熱気が押し寄せてきた。
日頃、日中から夜まで涼しい校舎内で過ごす俺には毒である。
予備校の周りには車が集まっている。子供を迎えに来ているのだろう。
そう思いながらも、俺は駐輪場から自転車を取り、玄関前に立つ少女の元へと戻る。
「で、話ってのは何だ? 俺は今から結愛のところに行くんだが?」
「もう今日は面会時間終了してるはずでしょ?」
「いいんだよ、あの秘密の抜け道から行くから」
「ここ最近ずっとあの子の元に行ってるよね?」
「俺が行きたいから。少しでも結愛を元気付けたいからさ」
一ヶ月前——。
本懐結愛は旅行先の旅館で発作を起こし、病院に緊急搬送された。
精密検査の結果、不整脈を引き起こしていたことが判明し、今後も安静した生活を送るようにと厳重注意を受けることになった。
「時縄くんさ、最近元気がないでしょ?」
「何を言ってるんだよ? 俺は元気だぜ」
苦手な数学の問題も克服したし。
毎日結愛の元へ遊びに行ってるし。
充実した日々を過ごしているんだ、元気がありすぎて困るぐらいだぜ。
「からげんきだよね? 私、分かるよ。時縄くんが苦しんでること」
「何を言ってるんだよ? 俺は——」
元気だ。最高に元気すぎて辛いぐらいだぜ。
毎日が幸せで、毎日が楽しくて、本当に困るぐらいに
「嫌なことを全て忘れたいから、勉強に走ってるんでしょ?」
「っ」
「何も考えたくないから、勉強に縋り付くしかないんだよね?」
「違う。模試があるだろ? 今週末に模試があるから」
そうだよ。
俺は模試で結果を残すために、必死に勉強しているんだ。
結愛と一緒に旅行に出掛けたし、遊んでばかりもいられないからな。
少しでも成績を伸ばして、周りにも自分が頑張ってることを証明するために。
「お願い」
彩心真優は手を伸ばした。
「私は時縄くんの味方だよ。少しでも力になりたいの」
それは、自転車のハンドルを握る俺の手へと重なる。
夏の夜にピッタリなほどに冷たい手で、昂っていた心も徐々に沈んでいく。
「だから教えてよ、私にも。何がキミを苦しめているのかをさ」
俺は言葉を呑んだ。
もうこの悪女には全てを見抜かれているのだと。
短い付き合いだが、俺はコイツと同じ時間を共有してきた。
多少俺が彩心真優という存在を理解したように、彼女もまた時縄勇太という存在を理解しているようだ。
「これはあまり大きな声では言えないんだけどさ」
俺はそう前置きした。
本懐結愛自身も、このことを他の誰かに伝えたくないと思うし。
彩心真優に詳しく話す必要はないが、結愛と一度関わったことがあるのだ。
一応教えておいたほうがいいだろう。そう判断し、俺は諦めたように呟く。
「実は……もう長くないんだよ」
本懐結愛が緊急搬送された日。
朝方頃の出来事であった。
結愛の安否を心配し、結愛の両親が旅行先の病院に駆け付けた。
動揺する二人に結愛の容態を伝え、俺はその場で謝罪を行った。
一緒に旅行に行こうと約束した俺が間違いだったと。
俺自身も、結愛の容態が良かったから安心しきっていたと。
慌てふためきながら涙を流す俺に対して、二人は残酷な現実を告げてきた。
「……結愛、あと5年生きられるかどうかなんだってさ」
結愛本人の口から十年は生きられると聞いたはずであった。
ただ、それは全て優しい彼女が吐いた嘘だったのだ。
実際余命宣告されたのは、たったの五年間。
本懐結愛の病気を治す。
その目的を果たすためには、時間が足りないのである。
ただ医学部を目指す俺の戦意が失わないように、彼女は言ったのだ。
十年だと。十年は生きられると。何の根拠もないのに。
「……俺、もう分からなくなっちまったよ。医学部に入って意味があるのか」
俺の目的は——結愛を救うことであった。
でも、俺が医学部を卒業する前に、彼女は死ぬ運命にあるのだ。
彼女はもう助からないのだ。
それなのに、俺は医学部を目指す必要があるのか。
医者を目指す理由を失ったのだ、今の俺は。
「俺はもう結愛を救うことなんてできないんだ。結愛を救える道が……」
俺が今まで生きてきた道には、必ず本懐結愛が中心に存在した。
彼女がいない未来なんて、果たして本当に意味があるのだろうか。
彼女と共に歩めない明日なんて、本当に生きる価値があるのだろうか。
「それでも俺はあの子に夢を見させてあげたいんだ、彼女が救える未来を」
余命宣告が的外れの可能性もあるものの……。
近い将来、本懐結愛は死ぬだろう。
その間までに、俺は彼女の病を治すことなんて不可能に近い。
ただ、それでも俺は——彼女に明日という希望を与えたいのだ。
過去を生きることでしか救われない彼女に、明日を生きる希望を。
「だから、俺は最後の最後まで結愛のそばで彼女に寄り添い続けたい」
自分で言うのもなんだが、変なことばかりを口走った気がする。
俺自身も、心に整理が付いていないのだ。
論理的に説明できないのだ。
感情がグチャグチャになりすぎて、もう意味がわからなくなっているのだ。
ただ、その心の中心には本懐結愛がいるってだけで……。
「…………時縄くんはさ、辛くならないの?」
黙り続けていた彩心真優は潤んだ瞳のままにそう訊ねてきた。
彼女自身も、数ヶ月前に大切な祖母を亡くしている。
大切な人を失う気持ちを十分理解しているはずだろう。
「あの子のことを好きになればなるほどに自分が苦しむことになるんだよ」
あぁ、分かってるさ。
結愛を愛せば愛すほどに、最後に泣くのは自分だと。
合理的じゃない。頭が悪いとしかいいようがない。
ふっと笑みを漏らしながら、俺は自分の結論を述べる。
「それでも俺は結愛のことが大好きだからさ」
◇◆◇◆◇◆
秘密の入り口から病院に侵入し、俺は本懐結愛が待つ病室へと向かった。
ノックを二回繰り返すと、小さな声で返事があった。
俺はその声を聞いてからゆっくりとスライド式の扉を開く。
結愛はベッドを少しだけ傾ける。
ソファーのようになったベッドに背中を預け、普段通り病人服姿の結愛は微笑む。
「今日も来てくれてありがとう。あたしに会いに来てくれて」
「俺が来たいから来てるだけだ。それに勉強も順調そうなんだぜ」
自慢気に語りながら、俺は手持ちのレジ袋を開く。
コンビニで購入してきたフランドチキンとジュースを取り出し、俺は結愛に渡す。
「結愛も食べるだろ? 俺と一緒に——」
「ごめん。飲み物だけもらうね」
小食な結愛は何も食べない。
それは分かっていたはずなのに、俺は思わず二個も購入してしまった。
彼女が食べないなら、俺が食べればいいか。
そう判断しながら、俺は袋を開き、一つ目のチキンへと齧り付く。
結愛は乳酸菌飲料水を両手で握りしめたままに呟く。
「あたし……勇太にばっかり迷惑を掛けちゃってるよね」
「別に迷惑だなんて思ってないぞ、俺は」
「勇太は、あたしが倒れてからずっとこんな調子だもん」
結愛は、俺の異変に気付いているのだろう。
俺が変わってしまったことに。
俺が結愛に気を遣っていることに。
今まで俺は結愛のことを普通の女の子と同じように扱いしていたのに。
「やっぱり勇太は、あたしのことが心配?」
「心配に決まってんだろ。俺は結愛のことが大好きで」
「でも、やっぱり病人扱いしちゃうのかな? あたしが病弱だから」
「病人扱いじゃないよ。お姫様扱いだよ、お姫様扱い」
物事をネガティブに取りがちな結愛。
もう少し彼女は世の中のことを明るい方向で取るべきだ。
「お姫様扱い……何だか、それいいね。今後はそう考えてみる」
納得した様子で、結愛は「お姫様かぁ〜」とニコニコ笑顔だ。
この笑顔を守りたい。この笑顔をずっと見ていたい。
そう思うと同時に、俺はこの子の笑顔が消えることを知っている。
この子の笑顔が、この先にはもう見ることができないことを。
「それにしても、本当に謎なんだよね……どうしてあの日外に出ていたのか」
う〜んと腕を組みなおし、難しそうな表情を浮かべる結愛。
不整脈を引き起こした影響を受け、結愛は前後の記憶を失っている。
と言えども、俺とその日——結ばれたことだけは鮮明に覚えているようだが。
「無理に思い出そうとしなくていいさ。新たな思い出を作ればいいだけだろ?」
「良いことを言うね。流石は、あたしの彼氏だよ!!」
結愛は感心した様子で「ふむふむ」と喜びの笑顔を向けてきた。
「8月25日が何の日かわかる?」
「チキンラーメン誕生の日だろ?」
「違う違う!! それよりも大切なことがあるでしょ?」
8月25日。
俺はその日を生涯忘れないだろう。
俺が愛する幼馴染みであり、彼女——本懐結愛の誕生日なのだから。
それにしても、毎年即席ラーメンの記念日というネタをしている気がする。
もう少しバリエーションを増やしたほうが良い気もするが……別にいいか。
「その日にね、この街の夏祭りがあるの」
「つまり、一緒に行こうって話だろ?」
「話が早くて助かる」
結愛は断言し、窓の外に浮かぶ月を見上げる。
「そこで一緒に花火をみようね。約束だよ」
本懐結愛と一緒に作った夏休みの予定表。
その中には、夏祭りという項目があった。
一緒に花火を見に行きたいとは何度も聞いていた。
結局、夏休みに作った予定表通りに、物事は進まなかったものの——。
一年に一度だけ開催される夏祭りには、彼女を連れて行ってあげたい。
そこで特大の花火を見させてあげたい。
その想いが募りながらも、俺は愛する彼女に優しく微笑んだ。
「あぁ、約束だ。一緒に花火を見に行こう」と。
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