第67話

「お待たせ。時縄くん」


 初恋を忘れさせてくれ。

 その真意を聞く暇もなく、一方的に言い放ち、部屋へと戻った彩心真優。

 ここで待っててと言われて、俺はスーパー前でご主人様を待つ犬の如くアホ面下げて待っていたわけだが——。


「わざわざ着替えに行く必要なんてなかったんじゃないか?」


 ダボっとした感じの白のブラウスに、肌の露出が激しい黒のホットパンツ。

 英字のロゴが刻まれたツバ付きの帽子を深く被る姿は夜遊び慣れした少女。

 男性心的には美しい太ももを拝めるのは大変有難いのだが、もしも自分の娘が同じような格好をしていたら……そう思うと涙が止まらなくなるだろう。

 まぁ、そもそも論、俺が父親目線で語る資格なんてないのだけど。


「浴衣姿を見せたいのは時縄くんだけなんだもん」


 彩心さん、知ってますか?

 あなたのね、その余計な一言で感情を揺さぶられる男がどれだけいることか。

 もしも、俺が彼女持ちじゃなければ、確実に泥沼にハマってますよ。


「で、今からどこに行くんだ?」

「結愛さんのために時縄くんは探さないといけないんでしょ?」


 もしかして、コイツ……。


「手伝ってくれるのか?」

「夜中に一人で時縄くんを放っておけるはずがないからね」


 彩心真優は握りしめるレジ袋を振り回し、カシャカシャと音を鳴らす。

 やる気は十分あるようだ。これは頼もしい助っ人が参戦してくれたものだ。

 ただ少々俺を小馬鹿にする部分があるのは、些か許せないところである。

 何が、夜中に一人で放っておけないだ。俺はもう十八歳だぞ?


「全てが嫌になって、自暴自棄で入水自殺する可能性があるじゃん」

「複雑な事情を抱えこみすぎだろ、お前が考える俺は!」

「あながち嘘じゃないと思うんだけど?」


 何はともあれ、人手が多いほうがいい。

 一人で行うよりも二人で行ったほうが効率的だし。


「彼女さんと旅行中なのに、他の女と抜け出すなんて最低だね、時縄くんは」

「お前さ、その言い方はやめろよ。俺が不埒な男みたいに聞こえるだろ?」

「でも事実じゃない? もし結愛さんにバレたらどうするつもり?」

「別にお前とやましいことをしているわけじゃないし、偶然で済ませるよ」


 彩心真優は「ふぅ〜ん」と鼻で笑い、「偶然か」と吐露した。

 その声が静寂な館内を響き渡る頃、彩心真優は頬を僅かに緩ませてから。


「本当に時縄くんは最低だね。彼女に本当のことさえ教えないなんて」


 そう呟き、俺のことなど眼中にないかのように歩き出した。その姿が若干スキップ交じりに見えるのは俺の幻覚だろうか。いや、幻覚じゃない。

 最愛の彼女——本懐結愛に嘘を吐き捨てる俺の姿を想像して微笑むとはな。

 本当に悪い女だぜ。そんなことで喜ぶなんてさ。

 彼女に嘘を吐くお前もどうなのと疑問に思われるかもしれないけどさ。

 仕方ねぇーだろ、俺の場合は。サプライズプレゼントしたいんだもん。

 大好きな女のために、大好きな彼女のために——。

 彼氏が一汗掻くことって大切だと思わないのか?

 それが、最愛の彼女に嘘を吐くとしてもさ。

 彼女がその後に待つ最高の誕生日を迎えられるのならば。

 というわけで——。


「おい、待てよ。夜道は危険だぞ」


 お尻を左右に振って歩く悪女を、俺は追いかけるのであった。


◇◆◇◆◇◆


「時縄くんってさ、眠れない夜とかある?」


 旅館から浜辺までの道中。

 隣同士で歩いていると、彩心真優がそう訊ねてきた。

 街灯が存在せず、月明かりだけが頼りの夜道。

 視界が九割暗闇状態の中、俺は当たり前のことをいう。


「誰にでもあるだろ。テレビで怖い話を見た日とかな」

「小学生レベルの具体例だね」

「悪かったな、発想が小学生レベルで」

「それだけ素直ってことなのかもよ?」

「だと良いけどな。柔軟な発想ができるってことなのかも」


 ふふっと二人で顔を見合わせて笑い合い、俺は更なる質問を続ける。


「で、それがどうしたんだよ? お前にもそんな日があるのか?」

「うん、あるよ」

「腹が減りすぎてだろ? 夜食を食べるか否か迷うんだろ?」

「人を食いしん坊みたいな言い方しないでよ!」

「食い意地が張ってるのは事実だろ?」

「それは事実だけど、こっちは割と真剣な話をしてるんだよ!」


 むっと怒り顔を示す彩心真優に対して、ごめんごめんと手を合わせて謝る。

 こっちを知らんぷりするのか、彼女は顔を背けてしまう。

 ただ、その後も謝る姿勢を見せると、すぐに許してくれた。


「私さ、不安になるんだよね。今日一日を精一杯生きたかなって」


 視界が開けた場所に出た。彩心真優の顔が白く光る。

 お化け屋敷に登場したら、美少女幽霊と大評判になるだろう。

 そう変な想像をしながら、俺は言い返す。


「で、今日はどうだったんだ? 精一杯生きたのか?」

「今から生きるんだよ。寝る前に取り返そうと思ってね」

「ちょいと遅すぎやしないか?」

「取り返せるなら、それに越したことはないでしょ?」


 取り返せるなら取り返したほうがいいだろう。

 俺だって、家でダラダラ過ごした日とか、軽く後悔してしまうし。

 もっと有意義に時間を使えたのではないかと思ってさ。

 人間なら誰しもがあるんじゃないだろうか。


「私はさ、一日一日を大切に生きていたいんだよね」

「それは良い心がけなんじゃないか?」

「他人事だね」

「他人事だからな。ただ、俺も同じだよ」


 結愛と過ごせる一日一日を大切にしていきたい。

 この先、彼女がどんな運命を辿るのか分からないけれど。

 最高の彼氏として、最愛の彼女をずっと見守っておきたいのだ。


「そういえば、さっき初恋を忘れさせてとか言ってたよな?」

「うん。言ったよ」

「それってどんな意味なんだ? 俺にもわかるように説明してくれ」

「言葉通りの意味だよ。時縄くんのことを忘れさせてくれないかという相談」


 余計に意味がわからないんだが?

 そもそも論、どうして俺を忘れる必要があるんだよ?

 わざわざ忘れる必要なんてねぇーだろ?


「酷なことを言うんだね、時縄くんは」

「お前のほうがよっぽど悪だと思うぜ。俺のことを忘れさせろなんてさ」

「矛盾してるように聞こえるかもしれないけど、この手しかないんだよ」


 神妙な表情で語る彩心真優には申し訳ないが、俺は彼女のペースに付いていけない。突然変なことを言い出して、コイツ何を言ってるんだ感しかない。

 と言えども、それも彼女が次に続けた言葉で理解したのだが——。


「時縄くんが初めてなんだよね。異性の男性を好きになったのは」


 俺が初めて? 異性の男性を好きになったのは。

 それってつまりは——。


「初恋なんだよね。私にとって、時縄勇太という存在は」


 ありがとうと言えばいいのか。それともごめんと謝るべきなのか。

 言葉を選ぶ会話で、俺は口を止めることしかできなかった。


「だから、とっても特別で大切な人であることは間違いないと思うんだ」


 俺なんかが、特別で大切な人か。そう言われるのは嬉しいけど。

 逆に申し訳ない気持ちになってしまうな。

 こんな可憐で美しい少女の恋心に答えてあげられないことに対して。


「でもさ、時縄くんにとって、私の存在は邪魔なんだよね?」

「別に邪魔ってほどじゃ——」


 言葉を続ける俺の声を打ち消すように、彩心真優は重ねてきた。


「時縄くん。優柔不断な男になったらダメだよ? 乙女心を理解して。ねぇ?」


 ねぇ?

 今にも泣きそうな瞳が上目遣いでそう訴えてきた。

 全国鈍感男ランキングがあれば、トップ数%に君臨する俺でも。

 彩心真優のあまりにも分かりやすい訴えに、俺は全てを理解した。


「あぁ、お前は邪魔だよ。俺と結愛の恋路を邪魔する悪女だ」

「……ありがとう。時縄くん」


 彼女はそう囁いた。

 彼女の真意を、俺が全て汲み取ったと理解したのだろう。

 彩心真優は夜空を見上げる。

 月明かりに照らされた横顔は彫りが深く、芸術品だと言われたら納得するほどに洗練されていた。そんなあまりにも美しい少女はいうのだ。


「お願い、時縄くんのことを忘れさせてくれないかな?」


 忘れさせろと言われても、人の記憶はそう簡単に消えないだろ?


「うん。だから決めたの。私は二人のことを応援しようって」


 清々しいまでの笑顔を向けられる。

 その結論を下すのは、苦渋の思いだったはずなのに。

 もしも自分が彼女と同じ立場なら、そう言い切れただろうか


「自分が思っている以上に私は弱虫な女の子だからさ」


 弱虫な女の子じゃないと思うぞ、俺は。

 お前は勇気ある女の子だぜ。

 世界で一番好きな人の幸せを願えるのはさ。

 たとえ、その好きな人が自分を選んでくれないとしても。


「ううん。私は弱虫なままだよ」


 首を振って、彩心真優は否定した。


「報われない恋だと気付いて逃げちゃったから」


 でも、そんな弱虫な女の子の願いを聞いてください。

 彩心真優はそう先に告げる。


「今日で時縄くんへの恋心を全て忘れるから——」


 真っ直ぐな瞳は赤く腫れ上がっていた。

 目尻には大粒の涙が見え、それが僅かな光で輝く。

 そんな静寂な真夜中、何の取り柄もない俺へ初恋を捧げた少女はいう。


「——だから今日だけは私に初恋の思い出を作らせてくれないかな?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る