第37話:本懐結愛視点『疑惑』

【本懐結愛SIDE】


「それじゃあな、結愛。また今度な!!」


 最愛の彼氏が病室を出ていく。

 その逞しい背中を見届けながら、本懐結愛は優しく手を振り返す。

 ただ、彼女は心の中で思ってしまうのだ。願ってしまうのだ。


(……行かないで、勇太。今日は結愛と一緒に居たいって言ってよ)

(お願いだから……頼むから……そう魔法の言葉を言ってくれないかな?)

(そうしたら、あたしはもっともっと勇太のことを愛してあげられるのに)


 そんな結愛の願いが叶ったのか、それともただの気まぐれなのか。

 優しい彼は病室を出る前に、もう一度振り返ってきた。

 俳優さんみたいなカッコいい顔立ちではないと思う。ただ、愛嬌があって、清潔感がある。

 それに——自分のために医学部を目指して毎日勉強に励んでいる大好きな彼氏。


(大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き)


 心の中で何度も彼への愛を呟きながらも、本懐結愛は朗らかな笑みを浮かべた。

 彼が帰宅後も安心して勉強に励めるように。自分のことなんて忘れて集中できるように。

 スライド式のドアが閉じ、彼が病室を出て、足音が聞こえなくなった頃合い——。


 本懐結愛は我慢の限界に達し、無理矢理抑えていた咳込みをしてしまう。

 ゲホゲホゲホゲホと、部屋の中を包むのはあどけない少女の口から出たとは思えない音。

 激しく咳き込んでしまい、酸素を上手く取ることさえも難しくなる。

 ただ、もっと生きたい。もっともっと愛する彼氏と一緒に居たい。

 その強い願いを糧に、苦しいことも辛いことも乗り越えることができる。


(……勇太、あたし頑張るから……普通の女の子に絶対なるからね……)


 本懐結愛が抱えるのは心臓病の一種。

 その合併症という形で、少しずつではあるが、呼吸器系統も悪化している。

 実際に喘息のような発作を最近では幾度ともなく繰り返し、呼吸を取ることさえも苦しくなるときがある。だが、彼女はそれを全て愛する彼氏には内緒にしている。


 だって——もしも自分が彼氏の前で弱音を吐いたら、心配されてしまうから。

 また病弱な女の子だと思われてしまうのではないかと不安になってしまうから。


(普通になって、勇太のそばにずっと居たい。勇太ともっといっぱい楽しいことしたいよ)


 もうこれ以上、異常な女の子だとは。

 もうこれ以上、面倒な女の子だとは。


——もう絶対に思われたくないよ、あたしは。


 本懐結愛の切実な願いは、普通の女の子になりたい。

 たったそれだけだった。たったそれだけでよかった。

 でも、その願いが叶う日は決して訪れない。訪れるはずがないのだ。

 彼女の病が、彼女の自由を奪い続けるのだから。

 彼女の幸せを、彼女の病が一生蝕み続けるのだから。

 今までも、そしてこれから先も。彼女が死に絶えるまで。


◇◆◇◆◇◆


 喘息用の吸入器を使用し、息苦しさは治まってくれた。

 まだ脈が早く、心臓が鼓動を打つ音が伝わってくる。

 でも、それ以外は特に問題はないと思いたいのだが——。


「勇太おかしかった」


 愛する彼氏から放たれる異臭に、本懐結愛は気付かないはずがなかった。

 それを異臭と呼ぶのは定かではないが、彼女にはそう感じてしまったのだ。


「……あれは絶対に香水の類だった。勇太があんなもの使うはずがない」


 時縄勇太が本懐結愛を知っているように、本懐結愛も時縄勇太のことを知っている。

 幼馴染みという関係で、彼と小さな頃から接していたのだから。

 そんな彼が一度たりとも、オシャレに目覚めたことはなかったし、ましてや、香水などを使う男とは思えなかった。つまるところ、本懐結愛の頭に浮かんだのは——。


——なら、あれは誰の……????


「……予備校の人?」


 彼氏のことを信じたい気持ちは確かにあるのだが、心の底から信じることができない。


「でも、今日は休日。それはありえない」「もしかして、あたし以外の女と出会ってる?」「あの勇太が……?」「いや、それはないよね」「勇太が裏切るわけがない」「勇太は絶対に浮気なんてしない」「あたしだけを見てくれるもん」「だから、勇太が他の女と会うわけが——」


 人を疑い始めたら、キリがない。

 自分のことを愛している。そう言ってくれる人を疑うなんて、明らかにおかしなことだ。

 ただ、怖いのだ。ただ、恐ろしいのだ。

 もしも、その想像が本当に正しいものだった場合が。


「ただの偶然だよね……? 勇太が浮気なんてしているはずがないよね?」


 有り体に言ってしまえば——。

 本懐結愛にとって、時縄勇太という存在は王子様なのだ。

 いや、もっと正直に話せば、神様と呼べる存在に近いかもしれない。

 どんなときでも自分の味方になって守ってくれる心優しい殿方なんだと。


「あたし……勇太しか居ないのに。あたしには勇太しか居ないのに……」


 もしかしたら、自分は要らない女なのではないかと。

 もしかしたら、自分は彼氏にとって足かせなのではないかと。

 そんなネガティブな感情が押し寄せてくるのだ。

 すると、また胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みが訪れる。

 心臓を抑えたままに、結愛はもう一度吸入器を手に取り、一気に吸い込んだ。

 それから暫くが経ったのち、パニックに陥っていた思考が一つの結論を導き出した。


「……勇太に聞いてみよう」


 一人で悩むぐらいならば、もう訊ねてしまったほうが早い。

 結愛はスマホを取り、震える指先で文字を打ち込んだ。


結愛『勇太、今日誰と会ってたの?』


 でも、その先が続かない。

 送信ボタンさえ押してしまえば、全てが解決するのに。

 彼氏を疑うことなく、いつも通りの自分に戻ることができるのに。

 本懐結愛は途中で諦めてしまった。

 震える手からスマホは離れ、ベッドの上に落ちるのであった。

 それもそのはずだ。

 彼女の心中には、もしかしたら自分が捨てられてしまうのではないか。もしかしたら自分以外の女性と恋仲に発展し、もう既に自分のことなど眼中には入っていないのではないか。

 そうなってしまうと、自分の存在価値が全て否定された気分になってしまうから。


「……できないよ、こんなこと」


 本懐結愛は夢を見ているのだ。

 時縄勇太という元気で未来溢れる幼馴染みの少年に、想いを馳せているのだ。

 もしかしたら彼なら、自分を何処か遠くの世界に連れて行ってくれるのではないかと。

 こんな狭くて暗い病院の中ではなく、もっと華やかな世界に自分を導いてくれるのではと。

 故に、まだ結愛は真実を知る勇気がなかった。真実と言えども、現段階では時縄勇太がとある女の子にお願いごとを頼まれ、それを手伝っただけに過ぎないのだが……。


「あたしが普通の女の子ではないからだよね。面倒な女と関わるのは嫌だもんね、誰でも……」


 小学校の頃までは、自分と仲良くしてくれた友達は沢山いた。

 でも、時が経つにつれて、愛する彼氏を除いて、誰もが見舞いに来てくれなくなった。

 その理由は分かる。

 彼・彼女たちにとって、本懐結愛という存在はその程度に過ぎなかったのだ。

 本当に大切ならば、もっと彼女に会いに行こうと思っていたことだろう。

 中学生になれば、学業や部活動で忙しくなる可能性も大いに考えられる。

 でも、そんなことを度外視してでも、一年に1回ぐらいは来られる日を作ってもよかったはずだ。ただ、誰もしなかった。もう答えは分かっている。本懐結愛の存在価値は何もなかったのだ。


(勇太もあたしを捨てるんだ……勇太もあたしを捨てようとしてるんだ……多分)

(あたし以外の誰かを好きになる勇太なんて……絶対に嫌だよ……)

(どうしてあたしから全てを奪うんだろう。勇太だけは、勇太だけは絶対に誰にも渡さない)


 本懐結愛は考える。

 もしも、他の女がいるなら——。

 もしも、勇太が浮気していたら——。


「殺しちゃえばいいのかな? えへっ勇太の邪魔をする女は要らないよね?」


 ふと頭の中に思い浮かんだことを口に出してしまった。

 その直後、病室がドアが開き、見慣れた看護師さんが現れた。


「本懐さ〜ん。夕食のお時間で〜す」


 手短に返事を済ませ、食事を素早く受け取る。

 自分が先程恐ろしいことを考えていたことを悟られないように。


「顔色が悪いようですけど、何かありましたか?」

「ううん、別に何もないです」

「それならいいんですけど……」


 看護師さんは愛想笑いを浮かべて。


「あの〜何かさっき言ってましたか? 何か聞こえてきたんですけど」


 物騒なことを聞かれていたのか。

 ただ、ここで話す内容でもない。

 本懐結愛はそう判断して言い切った。


「大丈夫ですから。気にしないでください」


 看護師さんが部屋を後にした。

 残されたのは、もう食べ飽きてしまった病院食。

 それも栄養価が高いという理由で導入された、茹でただけのニンジン。

 好き嫌いが多い結愛にとっては、それは残すものに分類される。

 だが、今回だけは勝手が違うようだ。

 本懐結愛は箸を持ち、にへへへと口端を上げて。


「もしも勇太が浮気してたらどうなるだろうね……?」


 誰に聞かせるわけもでないただの独り言を漏らしながらも、ニンジンを箸で思い切り突き刺す。

 それも一回では飽きたりなかったのか、次々に突き刺した。

 まるで、それが一種のストレス解消法とでもいうように。

 フジツボのような穴がポツポツと開いたのを確認してから、血相が異様なまでに白い少女はニタァと気味の悪い笑みを浮かべて。


「あたしは信じてるよ。勇太が絶対にあたしを裏切らないって、えへへへへ」


————————————————————————————————————————————

作家から


 皆様、お久しぶりです。

 本来ならば二月までにはある程度終わらせる予定だったのですが、体調を崩してしまい、計画通りに物事が進みませんでした。まぁ、いつものことなんだけどね(´;ω;`)

 今後も途中で更新が途絶える可能性がありますが、筆を折る気はないのでご安心ください

 というか、逆に更新が途絶えている場合は——。


「あぁ、現在本気で面白いものを書いているんだ」と思ってくださると大変助かります。


 次回は、彩心真優視点を皆様にお届けする予定です。


 ここだけの話……。

 今回のお話は、個人的神回の一つです。

 というか……ここ最近はずっと神回が続いてる気がします。


 前回の——。

 彩心真優の告白シーンとか……。


 今回の——。

 本懐結愛が徐々に狂っていくシーンとか……。


 で、次回の——。

 まだこれは明かせませんが、次回の彩心真優視点が終わったら……。


 一番最初に仕掛けていた爆弾が起動し、一気に面白くなります(暗黒微笑)

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