第32話
聳え立つ巨大な森林が風で揺れ動く。
ざぁざぁと葉が擦れる音が、静寂な夜に響き渡る。
月明かりに照らされ、白い肌が目立つ少女は訊ねてきた。
「ねぇ、助けて。時縄くん」
掠れた声だ。
「私もう分からないよ。どうすればいいか」
どうすればいいか。
俺だって分からないさ。
「どうして奪うの? 私の大切なものを」
彩心真優は、少し前に祖母を失ってしまったのだ。
それに合わせて、次はにゃこ丸まで奪われてしまったら。
考えるのはやめよう。今はもっとポジティブなことを考えねば。
「私の大切なものを次から次へと」
彩心真優の頬から涙が流れ落ちる。
「私ってさ、要らない女の子なのかな??」
弱気な発言をするじゃないか。
いつもは強気なことばかり言うくせに。
能天気なことばかり、いつもは言うくせに。
「私ってさ、疫病神なのかな?」
震えた声で、彩心真優は呟いた。
今にも消えてしまいそうなほどに小さかった。
さっきまで尊大な態度を取っていたくせに……。
今では、全くその覇気もない。
全てを諦めたかのような瞳を向けてくるのである。
「お前は要らない子でも、疫病神でもねぇーよ」
強く肯定してやる。
それだけは絶対に違うと。
俺はコイツに出会って、成績が少しだけ上がった気がする。
「ならさ、教えてよ。今……私はどうすればいいのか」
どうすればいいのか。
それは難題だな。
頭を必死に回転させてみたが、全然答えは出ない。
ただ、今の俺が言える言葉はこれだけだ。
「——俺に全部任せろ」
保証なんてどこにもない。
無責任な発言だ。
だが、俺は力強く答えていた。
「絶対なんとかしてやるからさ」
「なんとかしてやるって……もうにゃこ丸は……」
にゃこ丸の容態を見て、もう無理だと諦めているのだ。
今にも死んでしまいそうなほどに辛そうな呼吸をしているし。
ただ、黙ってここで見過ごすほど、俺はバカな男ではないのだ。
「まだ息があるだろ??」
「息があるからって……どうするのよ」
少なからず、頭が回る彼女は分かってしまうのだろう。
もうにゃこ丸が助かる可能性が極めて低いことを。
「なら、お前は置き去りにするって言うのか?」
彩心真優は呼吸を止め、こちらを凝視してくる。
「……ち、違う……そ、それは違う……」
「だろ? なら話は簡単だ。救える命が目の前にあるんだ」
続けて、俺は彼女に問いかける。
「やるべきことは、ただ一つだろ?」
何が何でも、にゃこ丸を救ってみせる。
もうそれだけしかない。
どんな手段を使ってでもいい。
これ以上、俺は彩心真優が涙を流す姿も、にゃこ丸が死ぬのも見たくないからな。
「涙を流すのは後からにしろ」
「言われなくても分かってるわよ!! このバカッ!」
「よしっ。いつも通りの彩心真優だな。こうじゃなくちゃ、困っちゃうぜ」
彩心真優の瞳に炎が宿る。
こうなれば、鬼に金棒だ。もう何も怖いものはない。
小さな命を救うために、自分たちにできることをやるのみだ。
「自転車に乗れ。動物病院を探すぞ」
二人乗りが嫌だと言っている場合ではない。
彩心真優を後ろの荷台に乗せ、俺は自転車を漕ぎ始める。
彼女の片手には、にゃこ丸が縮こまり、荒い息を漏らしている。
「大丈夫だからね……にゃこ丸。絶対に助けてあげるから」
彩心真優は励ましの言葉を呟きながら。
「時縄くん。手当たり次第に、近くの動物病院に電話掛けてみる」
「了解。相手が何か言ってきても、負けるんじゃねぇーぞ!!」
「分かってるわよ。気持ちでは絶対に負けないわよ」
◇◆◇◆◇◆
電話を掛けまくった結果、受け入れ先の病院が見つかった。
到着するや否や、緊急手術を行うことになった。
にゃこ丸の容態は余程酷かったらしく、生死に関わる怪我だったようだ。
で——現在。
待合室で両手を合わせて神頼みに励む彩心真優。
そんな彼女の隣で、俺はにゃこ丸の生還を待つ。
「大丈夫だよ……医者も全部任せろと言ってただろ?」
「……そ、それはそうだけど」
「もっと人を信じてみろよ」
「……人を信じてみろか」
彩心真優が心配気な表情で呟く。
その瞬間、白衣を着た如何にもな医者が出てきた。
見るからに老け顔のおじいちゃんドクターはいう。
「——手術は成功です」
彩心真優は声もなく喜んだ。
琥珀色の瞳からは涙が溢れ出している。
これで全て解決かと思っていたのだが。
しかし、と続けて、医者はいう。
「傷は癒えましたが、心は……」
人の手で傷付けられた動物は、心に深い闇を抱えてしまう。
実際に何度も見てきたケースだという。
そのような猫は、人里離れた場所で暮らすのがいいらしい。
「もしよろしければ、ワシが知り合いを紹介しようか?」
医者の話によれば——。
風変わりな金持ちが猫だけの村を作っているらしい。
その村では、人間たちは一切おらず、猫だけが平穏に暮らしていると。そこには、にゃこ丸と同じような闇を抱えた猫が集まり、幸せな生活を送っているのだと。
「分かりました。でも、今からにゃこ丸に会いに行ってもいいですか?」
「あぁ、大丈夫だよ」
医者からの許しを得て、俺たちは手術室へと向かう。
にゃこ丸はグッタリとした様子で、寝転がっている。
「にゃ〜」
にゃこ丸が鳴いた。
その声は、別れを告げるものではなかった。
離れ離れになるのが悲しいと意思表示するものだ。
もしかしたら、にゃこ丸も離れ離れになるのが嫌なのか。
「あの〜さっきの話なんですけど」
俺はそう前置きしてから、一つの提案をした。
「彩心さんがにゃこ丸の面倒を見ればいいんじゃねぇーの?」
「えっ……? わ、私が……?」
予想外の解答だったのか、戸惑いの声を上げる彩心真優。
彼女ともっと一緒に居たい。
そう伝えたいのか、にゃこ丸が「にゃぁ〜」と鳴いた。
「にゃこ丸は、彩心さんに懐いてるらしいぜ」
駆け寄った彩心真優の指先を、にゃこ丸がペロペロと舐める。
それは、あたかも、ありがとうと感謝の言葉を述べているようだ。
見ている側から、にゃこ丸と彩心真優の関係の良さが見て取れる。
「よっぽどお嬢ちゃんに懐いてるんだろうな」
知り合いに声を掛けようと言っていたドクター。
もう彼の顔には、答えは決まっているようだ。
「お嬢ちゃんがこの子の面倒を見ることができない。そう言うのならば、ワシが知り合いに話を付ける」
だけど、と呟き、動物の命を救ってきた老人は言う。
「だけど、もしもお嬢ちゃんがこの子の面倒を見るなら話は別だ」
「ほら、そう言ってくれてるみたいだし……彩心さん」
「勿論、それは命を預かるわけだ。それ相応の覚悟が必要だが、お嬢ちゃんなら大丈夫だろう」
俺と医者の意見を聞き、彩心真優も覚悟を決めたのか。
「にゃこ丸……私の家に来る?」
そう訊ねると、にゃこ丸は「にゃぁ〜」と鳴いた。それから彼女の白い指先に、自らの顔を擦りつけて、幸せそうな表情を浮かべるのだ。そのまま調子が良くなったのか、にゃこ丸は安心して眠ってしまう。
「にゃこ丸はもう彩心さんに飼われたいらしいぜ」
「でも、私……猫の飼い方なんて」
「まぁ、勉強するしかねぇーな」
「な、投げやり……」
「分からなくなったら、俺に相談しろよ。昔、猫飼ってたことあるし」
「………………」
「俺が提案したことだからな。俺も生半端な気持ちで言ってねぇーよ。悩むのはいつからでもできる。ただ、選択は今しかできない。どうするんだ? 彩心さん」
その問いを聞き、彩心真優は決意に満ちた表情を浮かべる。
小さな一つの命を育てる覚悟を決めたようだ。
彼女は自分に懐いた黒猫へと手を伸ばして。
「……にゃこ丸一緒に帰ろう。私の家なら安全だと思うから」
その声に反応するように、賢い黒猫は鳴き、肉球を主人の手に乗せるのであった。
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