時縄勇太は悪女の拠り所を守る
第29話
風邪との格闘は、1週間にも及んだ。
勝者は俺だ。子供向け特撮番組でありがちな「最後に正義は勝つ」を体現した勝利であった。
結愛がお見舞いに来てくれた日を境に、俺の風邪は嘘のように治ってしまったのだ。結愛のお手製おかゆが効いたのだろう。愛の力って凄いね、本当に。
あと、結愛が俺の風邪を肩代わりしてくれたからだろう。実は、あの日以来、結愛は風邪を拗らせているらしい。らしいというのは、俺が実際に見に行ったわけではないからだ。
お見舞いに行きたい気持ちも山々あるのだが、「来たらダメ」だと申告されているのだ。愛する彼女が「来ちゃダメ」と言ってるんだ。俺はその命令を忠実に守り、彼女の体調が元に戻るのを待っているというわけさ。
こっそりと結愛の体調を見に行き、お叱りの言葉を受けるのも悪くないかもしれないがな。ただ、また俺が風邪を引いたら、結愛に心配を掛けてしまう可能性がある。それ故に、俺は行きたくても行けないわけである。
まるで、餌を目の前に出されたのに、「待て」と指示を出されて腹を空かせた犬気分だ。
というわけで、俺は愛しの彼女に会えずに悶々な日々を過ごしながらも、予備校生活を相も変わらず送っているのであった。
「……最近勉強に集中できない」
昼休み、俺は大広間教室でそう呟いた。
隣には長い黒髪の少女が座り、コンビニ弁当を次から次へと平らげている。
受験生にあるまじき発言を聞き、彼女も異常事態だと悟ったのだろう。
箸の手を止め、小首を傾げながら。
「私が可愛くて見惚れてるとか?」
「生憎だが、それは絶対にない!」
「全否定された!!」
たくさん食べる女の子は可愛いかもしれない。
しかし、彼女——彩心真優は大食いなのである。
コンビニ弁当を2つは当たり前、その上で菓子パンを2〜3個食べないと、夜まで腹持ちしない体質なのだ。
体質という言葉で片付けてしまっていいのかと疑問に残るのだが、医者に頼っても、成長期特有の食欲だろうと言われてしまったのだという。
とどのつまり、彼女は異常に燃費が悪い体質なのだ。同情の余地しかない。
「第一にだな」
そう俺は嘆息混じりに呟き、ノートの上を走らせていたペンを止めて。
「俺はな、彼女持ちだぞ」
「彼女持ちでも可愛い女の子には目がイクでしょ」
「俺をその辺の性欲猿と同じにするな!!」
世の中の男は可愛い女を見ると、邪な気持ちしかない。
特に、十代の男というのは、女を性の対象という視点で判断することが多い。
時折、男子たちが話すゲストークを耳にするのだが、俺は毎回「あぁ……どんだけ卑猥な妄想をしてるんだよ」と心の中で思ってしまうものだ。
「同じようにしか見えないんだけど……」
「お前の目は節穴だな! 俺は善良な予備校生だ」
「悲しい響きだね、予備校生って……」
「お前も一緒の立場だからな、浪人生」
勉強に集中できないとして、勉強するしかない。
1週間も勉学から遠ざかっていたのだ。
勉強から逃げたい欲が昂っているのだろう。
俺はそう判断し、もう一度ペンを取り、数学の問題と格闘することにした。
正に、その瞬間、彩心真優はポツリと呟くのであった。
「私、思うんだよね……文転しようかなって」
彩心真優は理系内でトップクラスの学力を持っている。
更には、俺と同じく医学部を志す者の一人だ。
ライバルが一人減るのは素直に嬉しい話だが……。
「お前がやりたい学問を選べばいいんじゃないの?」
頭が良いのに、その力を周りの誰かに還元しない。
俺はそれが許せなく感じてしまう。
力がある人間が、力がない人間を救わずにどうするのだと。
医学部を狙える学力があるのに……ってな。
「やりたい学問か……何だろ、考えたことなかった」
「文転しようとか言ってたくせに!」
「いやぁ〜。文系って楽そうじゃん」
「大学生の7割を敵に回したぞ、今」
「逆に、3割の味方を付けたと言ってもいいね」
文系大学生は楽勝だ。
そんな噂話を度々聞いたことがある。
ただ、浪人生の分際で、語る資格はないと思う。
「だって、文系の大学で学ぶ学問なんてないんでしょ?」
「知ったような口ぶりだな」
「文系の大学で学ぶのは避妊とエイズ対策だって聞いたよ」
「偏見が過ぎるわ!! 真面目に勉強してる文系もいるだろうが!!」
爆弾発言にもほどがある。彼女が有名人ならば、即刻炎上する案件だ。
「えぇ〜。でもサユちゃんはそう言ってたけどなぁ〜」
誰だよ、サユちゃんって。
聞いたことない名前だ。予備校に居たっけ、そんな奴は。
ともあれ、常識人足る俺は、偏見持ちの優等生を叱ることにした。
「偏見の塊だ。鵜呑みにするのはよくないぜ、そのサユちゃんの意見に」
「……まぁ、それもそうだね。あの人は、自由奔放だし」
あの人、その言い方には多少トゲがあるように感じられる。
もしかしたら、そのサユちゃんとあんまり仲が良くないのか?
そんなことを思っていると——。
「時縄くんはないの? 文転しようかなとか」
「ねぇーよ。俺は医学部一筋だからな」
「もしも文転するなら?」
「……文系で生きる人生か。考えたこともないな」
「理系人間なんだ。数学できないくせに」
痛いところを突く女だ。
もう少しオブラートに包めばいいものを。
「悪かったな。数学だけは苦手なんだよ」
「なら、物理も苦手でしょ? 壊滅的だね」
「残念だが、俺は生物化学で受験するんだよ」
「生物を選ぶってドMなの? 物理が楽じゃん」
「生物は愚直な努力でどうにかなる科目だからな」
生物は暗記科目だ。
時間を掛ければ掛けるほどに、成績が伸びていく。それが堪らなく楽しいのである。
「そもそもだな」
俺はそう呟き、彩心真優にペン先を向け。
「医学部に入れば、生物が一番重要なんだよ」
「でも、医学部に入る前には、数学が一番重要だよ?」
「……うう。お、お前……数学苦手な俺を殺す気か?」
「事実を述べただけだよ。医学部受験に数学は絶対必須だし」
澄ました表情のまま、彩心真優は机のノートを指差して。
「だから、私が詳しくまとめてあげたのよ。数学苦手な時縄くんのために」
風邪を引いた俺を案じて、彩心真優はまとめノートを作ってくれたのだ。
バカな俺が少しでも理解できるように、詳しい解説まで添えて。
逆の立場なら、ライバルが一人減ったぜと思い、薄気味悪い笑みを浮かべていたはずだ。
それにも関わらず、敵に塩を送る真似をするなんて……勝者の余裕なのかもしれないな。
「ノートありがとうな。わざわざ俺のためにさ」
数学以外の教科も、彩心真優のお手製だ。
普段は丁寧なノートを取らない主義らしいが、人様に見せるためにせっせと作ってくれたようだ。人に教えられるようにノートを作ると、自分の身にもなるらしい。
確かに、自分で市販の参考書レベルの書き込みができれば、嫌でも頭に残るはずである。
「これぐらいは普通。今までのことを思ったら、まだまだ足りないぐらい」
「ん? 俺は別に何もやってないと思うが……?」
「私には大きな存在だった。いつも助けに来てくれたから」
そう朗らかに笑い、彩心真優は俺の鼻先をちょんと触ってきて。
「でも、これで貸し借りの関係は終わりだから。それでいい?」
彼女の発言を聞き、俺はゆっくりと首肯するのであった。
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