第30話

 世の中は大変面白い。

 時間があると思えるときほど、実際は時間がないのだから。

 実際、予備校に入る前の俺は、高を括っていた。

 一年間もある。余裕で、医学部に進学できるのではと。

 しかし、現実はそう甘くない。


「……や、やっと取り返したぜ……一週間分の勉強」


 星々が光り輝く深夜帯。

『医学部合格』とデカデカと抱負が飾られた6.5畳部屋にて。

『絶対合格!!』の鉢巻を頭に巻き付けた俺—時縄勇太トキジョウユウタは、勉強に打ち込んでいた。

 勉強机と椅子以外にあるのは、布団のみ。

 受験生らしく、机には大量の参考書と志望大学の過去問が並べられている。

 それ以外は、何もない。正に、浪人生の鏡とも言うべき部屋であろう。


「彩心真優には頭が上がらねぇーよ。このままじゃあな」


 彩心真優から借りたノート。

 俺が休んでいた分の授業を、綺麗にまとめてくれていたのだ。

 そのおかげが功を奏し、俺は短期間で埋め合わせができたわけだ。


 浪人生という生き物は、毎日の課題を熟すだけでも精一杯。

 特に、国立大学を進学する者は、五教科を勉強する必要がある。

 ましてや、医学部を志す者の負担は、その二倍、三倍の比ではないのだ。


「だが、時縄勇太!! お前は気を緩めてはいけない!!」


 一週間分の勉強を、たった三日で終わらせてしまった。

 現在進行形で受けている課題も少しずつ片付けている。

 この順調振りを見るに、思わず気を緩めてしまいそうだった。

 だからこそ、俺は気を引き締めるためにわざと大きな声を出して。


「俺の目標は、あくまでも医学部進学!! これを達成しないとダメだ。本気でやれば一週間分の勉強量を三日でできる。その事実を知っても、自分に甘えるな! 逃げるな!! 己を貫け!! 己の自制心を強く保て!!」


 単純な男だと言われてもいい。

 だが、人間は弱い生き物なのだ。

 自分だけの力では、物事をやり切ることは大変難しい。

 誰もが一度くらい「ダイエットしよう!」「今日から毎日走り込みをしよう!」と決めたことはあるだろう。でも、実際にやり始めたら、三日も続かないことが結構起きる。

 故に、自制心を強く持ち、己のいつも戒める必要があるのだ。


「——というわけでもう少しやってから寝るか」


 周りの受験生と同じ努力をしていても意味がない。

 周りの受験生よりも抜きんでた努力をするから意味があるのだ。

 受験に受かるか受からないかは、己をどこまで律することができるか。

 そう結論付け、結局、俺は追加で1時間ほど勉強を続けるのであった。


「ふぅ〜。まぁ、今日のところはこのくらいにしといてやるか」


 ガキ大将のような発言を述べつつ、俺は布団へと向かう。

 部屋の電気を暗くし、スマホを手に取る。

 LIMEに通知が届いていた。送り主は、愛する彼女からだ。


『結愛:身体の調子はどうですか? 勉強は捗ってますか?』

『結愛:既読が付かないということは、お勉強中なのかな?』

『結愛:あたしは、勇太が医学部に入ることを心から応援してるよ!!』

『結愛:頑張れぇ〜(〇〇のスタンプ)』


「……ったく、俺の彼女は最高だぜ」


◇◆◇◆◇◆


 翌日の昼休み。

 いつも通りの大広間教室にて。

 早めに弁当を食べ終え、俺は勉強へと戻る。そんな俺を虚ろな瞳で眺める彩心真優。

 心ここにあらずと言った感じである。

 ともあれ——。


「マジでありがとうな。お前のおかげで助かったよ」


 彩心真優から借りていたノート。

 これがなければ、俺は今頃路頭に迷っていたかもしれない。いや、流石にそれは言い過ぎだが、勉強狂いになっていたに違いない。


「……う、うん」


 彩心真優は箸を口に入れたまま呟いた。

 普段なら人様の話も聞かずにパクパクと食べ続ける女なのに。


「浮かない顔だけど、何かあったのか?」

「……別に何もない」


 何もないわけがない。

 食欲旺盛な彼女が険しい表情を浮かべ、箸の手を止めているのだ。明らかにおかしい。

 花より団子を選ぶ女なのに……。


「もしかして最近食べ過ぎたか?」

「どういう意味よ。これでも体重は維持してるわよ」


 反抗する気力は残っているようだ。

 体調が悪いわけではなさそうである。


「食べ過ぎが原因じゃないのか。なら、物価高で食品を購入できなくなったか?」

「私の悩みは食べ物だけか!! 食いしん坊キャラにもほどがあるわ」

「悪い。彩心真優=どか食い娘と思っててな」

「嫌な思われ方されてるね、私」

「安心しろ。前までは、邪魔者=彩心真優だったからさ」

「人様を邪魔者扱いとは……」

「昔の話だから安心してくれ」


 食に関する悩みではない。

 ひとまず、彩心真優が大食い娘とバレたわけではなさそうだ。

 なら、コイツはどうして悩んでるんだ?


「で、何があったんだよ」

「……さっきまでバカにしてたくせに」

「バカにはしてない。真剣に聞いてるよ」


 彩心真優は疑いの眼差しを向けてきた。

 本当にコイツは信用に足る人間なのか。

 人様を天秤に掛けているようである。


「お前一人で悩んで解決できないんだろ?」

「……う、うん」

「なら、俺を頼れよ。解決できるかもしれないだろ?」


 お悩み相談のプロフェッショナルとは言わずとも、彩心真優のパーソナルな問題を何度か助けた経験がある。


 その実績が認められたのか。


「……にゃ、にゃこ丸が元気ないんだよね」


 心を全く開かない氷の女王様も、遂に口火を切ってくれた。

 にゃこ丸が元気ないか。

 その悩みから推測される答えは——。


「餌のやりすぎなんじゃねぇーの?」

「それは違う。ちゃんと考えてる!!」


 心配して相談してくれたのは嬉しい。

 ただ、相談相手が役に立たない。

 そんな感情を抱いているのか、彩心真優は頭を抱えて。


「にゃこ丸、怪我してるっぽいんだよね」

「怪我?」

「うん。足のところを怪我してて動きにくそうだった」

「猫同士で喧嘩でもしたんじゃねぇ〜の?」

「そ、それならいいんだけど……何か嫌な気がするんだ」


 少しだけネタバレしてしまうが、まだこのときの俺は冗談半分で話を聞いていた。大袈裟すぎると思っていたのである。

 しかし、俺の考えがあまりにも浅はかなものだと思い知らされることになる。まさか、にゃこ丸にあんな悲劇が襲うとは……。


「もしよかったらさ、今日一緒ににゃこ丸に会いに行かない?」


 あ、と呟いたあと、彩心真優は目線を僅かに逸らして。


「でも、今日も世界一可愛い彼女に会わないとダメだよね……」

「別にいいぞ、俺は。久しぶりに、にゃこ丸の顔も見たいしな」

「えっ……? いいの……? 彼女に会いにいかなくても」


 あれだけ彼女、彼女と言っていた男が言わなくなった。

 その事実を知って、彩心真優は口をぽかんと開けている。


「あぁ。ちょっと色々とあってな」

「ごめん。ええと、風邪を引いたのは失恋が原因?」

「違うわ、バカ!! 少し距離を置こうと言われただけだ」


 失恋ではない。

 少し距離を置こうと言われただけだ。

 俺が少しでも勉強に集中するために。


「それってさ、振られたと同義じゃないの?」

「えっ……?」


 少し距離を置こうってそんな意味なの?

 俺、初めて知ったよ。言葉通りの意味で取ってたわ。

 でも、女性の共通認識では、別れたいときに使える必殺フレーズなのだろうか。確かに、少し距離を置いた状態で、恋人関係の自然消滅を狙っていると言われても、納得してしまうぞ。


 でもさ、俺と結愛の間にそんなことは……。


「違うよ……違うはず……うん、絶対に違うと思う」


 戸惑いを隠せなくなる。

 嫌な汗がダラダラと垂れてくる。

 そんな俺を見て、彩心真優はニタニタ顔を浮かべてくる。

 予備校の男友達が振られたかもしれない。そんな最悪な状況に陥る俺を見て、楽しんでいるのだろうか。

 クソ、性格が悪い奴だぜ。俺と結愛は愛し合っているのだ、心の底からな!!


 それにも関わらず——。


「安心して。私が慰めてあげるからさ」


 ニコニコ笑顔を浮かべて、彩心真優が頭を撫でてきた。

 俺はその華奢な手を払い除けて。


「振られた前提で話を進めるな!」

「逆に振られてないとでも思ってたの?」

「……今は浪人生だが、将来性だけは抜群なんだよ、俺は」

「女の子ってさ、不確定な未来よりも、確定な現在を重視すると思うけどな」


 将来性はあるが、不安定な可能性が残る浪人生。

 医学部に入ったわけでもないまだ医学部志望の分際だ

 結婚まで視野に入れたら、俺なんて……まだ眼中にないのかもしれない。


「待ってろよ、結愛。必ず、俺は医学部に入るからな!!」


 最愛の彼女との未来に向け、俺は拳を握りしめる。

 そんな気合いを入れ直した前途多難な若者に、悪女は耳打ちするのだ。


「それまで待ってくれるならいいね、あの子が」

「結愛あああああああああああああああああああ!!!!」

「皆さん、これが振られた男の断末魔ですよ」


 リポーター風に楽しげに笑う彩心真優。

 彼女は俺を茶化すことが大好きなようだ。

 先程までの険しい表情が、今はもう消えているのだから。

 やれやれ……俺はオモチャ扱いかよ。

 まぁ、勉強を教えてもらえるなら、俺は別にそれでいいけど。

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