第28話:本懐結愛視点『熱情③』

 カーテンの隙間から夕陽が射し込む。

 病院を出るときは雨が降っていたのに。

 今ではその雨が上がり、温かい光が優しく包み込んでくる。

 だが、それでも本懐結愛の心は正常ではなかった。


「あたしって……最低だよ。勇太のことが大好きなだけなのに」


 目を赤く腫らした結愛は、部屋の隅で体操座りしていた。

 時縄勇太の首を絞めていたのは、もう二時間も前の話だ。

 我に帰った彼女は、自分の非道極まりない行動を反省し、落ち込んでいるのである。

 どこまで自分は醜い存在なんだと。どれだけ自分は薄汚れた存在なんだと。

 ただ好きなだけなのに。どうして、これまでに心を蝕まれるのかと。


「心までは……あたしを病人にさせないでよ、勇太」


(あ、あたし……何をやってたんだろう? あんなことして)


 何度も目を拭ったのか、目尻には引っ掻いたあとがある。


(あたし……勇太の首を絞めてた)


 本懐結愛は自己嫌悪に陥っているのだ。

 自分自身が起こしてしまった過ちを悔いているのだ。

 どうして大好きな彼氏の首を絞める真似をしたのかと。

 もう少しでこの世で一番大切な人を殺していたかもしれないことに。


(あんなこと普通なら絶対にしないのに……)


 泣き腫らした目を隠すように、結愛は膝に顔を埋める。

 それから彼女は人肌に擦り合わせながら呟く。


「‥‥これって嫉妬なのかな?」


 初めての感覚だった。こんな感情が抱いたことはなかった。

 彼氏が他の女と仲良くしているかもしれないと思うなんて。

 彼氏が他の女とイチャついているのが許せないなんて。

 訊ねてしまえば早いかもしれない。

 でも——。


「捨てられちゃうかもしれない……」


 本懐結愛は怖かった。

 自分よりもその『真優』という女が好きだと告げられたら……。

 そう考えてしまうと、もう立ち直れないかもしれない。

 だからこそ、本懐結愛はどうしようもないのだ。

 彼氏を信じるしかないのだ。信じるしか道はないのだ。


「どうしたらいいか……わからないよ、勇太」


 そう呟き、窓辺に座り込んでいた結愛は立ち上がる。

 ふらふらと酔っ払いのような足取りで愛する彼氏の元へと向かう。

 愛する彼氏が眠る横で、本懐結愛は悲痛な質問を繰り返す。


「ねぇ、勇太。あたしはどうすればいいのかな……?」


 無意識の間に時縄勇太の首を絞めていた。

 自分の中でも、あんな真っ黒な感情を持ったのは初めてだ。

 時縄勇太を殺したいと思っていたわけではない。

 少しだけ、ほんの少しだけ、懲らしめてやりたい。そう思っただけだったのだ。

 振り返れば、みっともないし、醜い存在でしかない。


「あたしという存在は、迷惑なのかな……?」


 本懐結愛は、時縄勇太の負担にはなりたくなかった。決して重荷にはなりたくなかった。時間を奪うだけの邪魔者にはなりたくなかった。結局、愛する彼氏に捨てられるのが一番怖かった。

 彼女には、時縄勇太しかいないのだから。時縄勇太しか彼女の面倒を見てくれる人なんていないのだから。彼しか、本懐結愛の溶け切った心を癒す救世主になれないのだから。


「あ、勇太。やっと起きてくれた」


 時縄勇太が起きた。

 そんな彼に対して、本懐結愛は取り繕う。

 必死に下手くそな笑みを浮かべて、いつも通りの本懐結愛を演じるために。


(……勇太には絶対嫌われたくない。だから、絶対に聞けない。聞けるはずがない)

(知らない女と連絡を取っていた。だけど、それを問いただすことはできない)


 本来ならば質問攻めしたい気持ちはあるのに。

 その権利さえも、本懐結愛は持っていないのだから。

 もしも下手なことを言って、関係性が壊れるのが一番嫌だから。

 それに……。


(面倒な女だと思われたくない)

(お前なんて要らないと拒絶されるのが嫌だ)

(他の女の気配を感じたと言い、勇太を困らせたくない)

(それに、元々風邪を引いたのは——全部あたしのせいだ)

(あたしに会いに来たから、勇太は風邪を引いてしまったのだ)


 もうこれ以上嫌われたくなかったから。

 少しでも自分が重荷の存在にならないために。

 愛する彼氏が受験に専念するため、本懐結愛は変わると決意した。


◇◆◇◆◇◆


 恋人二人の話し合いは終わった。

 時縄勇太は、今後お見舞いには来ないと言ってくれた。

 これで多少は、彼への負担を軽減することができるだろう。

 そう思いながら、本懐結愛は白のスニーカーを履く。

 立ち上がった彼女は後ろを振り返り、愛する彼氏にいう。


「わざわざ、玄関まで見送りに来なくてもよかったのに」

「結愛の顔をこの目に焼き付けたくてな」

「……あ、ありがとう」

「気を付けて帰れよ。夜道は危ないからな」

「……夜道ってまだ夕方だよ?」

「心配なんだよ、結愛のことが」


(……勇太はあたしのことを思ってくれてる)

(やっぱり、あたしのことが好きなんだよね)

(うん。きっとそうだ。勇太はあたしを愛してくれてる)


「ねぇ、勇太」

「ん? どうした?」

「ちょっとこっちに来て」


 言われるがままに、時縄勇太が一歩近づいてきた。結愛は彼の腕を素早く取る。時縄勇太は体勢を上手く取れなくなってしまう。玄関と廊下の間には、三十センチの段差があるのだ。平衡感覚を失い、体がふらつく時縄勇太。そんな彼の唇を本懐結愛は優しく奪うのであった。

 突然の出来事に、時縄勇太は固まってしまう。作戦通りにことが進んだ結愛は頬を緩めながらも、薄淡い唇を離す。二人の間に交差するのは、ねっとりとした唾液の線。その淫靡いんびな液を口端から垂らしながらも。


「じゃあね、勇太」


 そう呟き、本懐結愛は逃げるように家を出て行こうとする。


「……ゆ、結愛……?」


 だがしかし、引き止められてしまう。

 振り返ることもせず、背中を向けた状態で結愛は訊ねた。


「どうしたのかな?」

「……い、いや……その結愛ってこんな積極的だったんだと思ってさ」

「あたしだって年頃な女の子だよ。勇太とならいくらでもできるよ」

「……あ、そ、そうなのか……。そ、そのありがとうな、結愛」


◇◆◇◆◇◆


 愛する彼氏の家を出て、本懐結愛は近くのバス停乗り場へと向かう。

 午後5時のチャイムが鳴り響き、子供達の帰宅を促してくる。懐かしい音であった。昔からその音色が帰りの合図だった。

 そして、今では本懐結愛の魔法を解くメロディに変わってしまったのだ。

 普通の女の子から異常な女の子へと連れ戻す残酷な旋律へと。お前は病人なんだ。お前は異常なんだ。普通の女の子とは違うんだ。嫌でも本懐結愛は、そう思わされてしまうのである。


「……はぁ。あたしも普通に生きてみたかったなぁ」


 そう呟き、本懐結愛は燦々と輝く夕陽を見た。

 梅雨入りしてからは、天気がすこぶる悪かった。でも、夕暮れ時の現在では全く降っていない。

 舗装された道路からはアスファルトの何とも言えないニオイが漂ってくる。水が蒸発しているのだ。道路上には水たまりが点在し、結愛はそれをポンポンと飛び越えていく。


(今日は勇気出した)


 普通に生きることはできないかもしれない。だからといって、本懐結愛の人生が不幸せなものであるとは限らない。彼女には彼女なりの幸せな形が存在するのだ。例えば、今日に限っていえば、それは彼氏と久々に唇を重ねたことだ。それも、帰り際に自分から求めてしまったまである。


(……自分からキスしちゃう女の子はエッチと思われないかな? 大丈夫だったかな?)


 どうしてあんな積極的なことができたんだろう。普段の自分なら絶対にしない大胆な行動を疑問に思ってしまう。ただ、あのとき、どうしても彼に触れていたい。彼にもっと優しくしてあげたい。そう思ったのだ。そう思ってしまったのである。


(でも、勇太……可愛かった。ほっぺたを赤に染めちゃって)

(あたしに照れてたってことだよね)

(あたしを普通の女の子と同じように見てくれたってことだよね)


「……嬉しい。やっぱり、あたしは勇太のことが大好き」


 本人の前で言えれば良かったのかもしれない。

 でも、本懐結愛はいえない。普通の女の子なのだから。

 普通の恋する乙女と同じなのだから。彼氏彼女の関係だったとしても。

 素直に好きという感情を表面上に出すことは難しいのである。

 彼女を知る者は、病弱な少女と思うかもしれない。それでも、彼女は普通の女の子なのだから。

 何処にでも居る平凡な少女と何も変わらないのだから。

 だから、本懐結愛は胸の内に秘めたままにするのだ。


「で、でも……あの女」


 時縄勇太のスマホを見た。

 そのときに、彼氏が連絡を取り合っていた女らしき人物。

 名前は『真優』。顔も本名も知らない相手。


「絶対に勇太は渡さない」「勇太だけは絶対に渡してなるものか」「勇太はあたしのだもん」「勇太はあたしの彼氏だもん」「だから、絶対に離さない」「離してなるものか。勇太だけは、絶対に」


 本懐結愛は心に誓う。

 この命を投げ打ってでも、勇太を守り切ると。

 でも、もしも勇太に嫌われてしまったら……。


——あたしの存在は何だろう?

——あたしが生きる意味は一体何だろうか?

——勇太がいない世界で、あたしはどうやって生きていけばいいのか?


 その謎に対する答えは出てこない。

 ただ、本懐結愛は願う。


(愛してほしい。勇太にはずっとあたしを愛してほしい)


 自分以外の他の女を好きになってほしくない。どんなときでも自分だけを見てくれる頼りがいのある男になってほしい。もっといえば、都合の良い男になってほしかった。

 でも、人間の行動を制限することはできない。故に、結愛は思ってしまう。


(少しでも普通の女の子にならないと……ダメだ)

(世話が焼ける女になったらダメなんだ。手間が掛からない女にならないと)


「勇太に愛してほしいから。あたしは普通にならないとダメだ」


 本懐結愛は自己暗示を掛ける。

 自分は正常な女の子なんだと。自分は普通な女の子なんだと。

 体は弱いかもしれない。それでも心までは弱くなりたくないのだ。

 愛する彼氏に少しでも普通の女の子として扱われるために。


「……あたしは普通にならなくちゃダメだ。普通にならないと」

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