第22話:彩心真優視点『侵食③』

 男の子に家まで送ってもらう。

 そんな男女睦まじい経験を一度もしたことがなかった。

 彼は自転車に跨り、地面に足を付けた状態で訊ねてくる。


「ここでいいんだよな……?」


 私のことはお構いなし。

 彼の視線は、高く伸びた建物に釘付けだ。

 田舎町には相応しくない高層マンションを見上げながら、彼は「すげぇ〜な」と感嘆な声を出している。

 静かな夜の時間帯は、マンションの住人が明かりを点けているだけでも、一つの夜景になってしまうのだ。田舎町ならではの楽しみ方とも言えるだろう。


「うん。ここでいいよ」


 そう呟きながら、私は自転車から降りた。

 数十分振りの地面に着地したものの、足元がふらついてしまう。

 このままでは倒れてしまう。

 そう思った瞬間——。


「おい! 大丈夫かよ?」


 彼は私の腕を掴んで、引っ張ってくれた。

 温かくて優しい手。でも少しゴツゴツしてて。

 やっぱり、男の子だなと思ってしまう大きな手だ。

 目と目が合い、私たちはお互いに顔を真っ赤にしてしまう。


「あ……ええと、あの……ごめんなさい」

「いいや、別に気にするな。謝ることじゃねぇーよ」


 照れ臭いのか、彼は頭を掻きながらも。


「お前さ、ちょっと疲れてるんじゃないの?」

「そうかも……最近はずっと寝不足だったから」

「なら、さっさと今日は寝て、明日からまた予備校来いよ」


 朗らかな笑みを浮かべて、手を振ってくる彼。

 私も彼に手を振って、今日はこれでお別れ……。

 私自身もそうなるはずだと思っていたのに。


「もしよかったら、家に来る?」


 私の口は勝手に動いていた。

 我ながらに、何を言ってるんだと思った。

 でも、一度開いた口は決して止まることはない。


「私、そ、その……一人暮らしだから。大丈夫だよ」


 何が大丈夫なのか。何が大丈夫なのだ。

 意味が分からない。自分でもさっぱり理解できない。

 頭が正常に働いていないのか。それとも口に宇宙人が寄生しているのか。

 今のままでは、やましい意味で受け取られるかもしれない。私が大胆不敵で、性欲増大な女の子だと勘違いされるのは嫌だ。なので、言い訳をしなければ。


「あ、別にその……やましい意味じゃなくて……時縄くんが気になってたから。ええと、家から眺める夜景が綺麗だから……そ、それを見せてあげたくて……だ、だからその言っただけで。それ以上に深い意味はないから。う、うん!!」


 全国模試で5位を取ったことがある。

 だが、そんな知識など全く役に立つことはない。

 必死に言い訳を思い付こうと努力してみたものの、実際に口から出るのは明らかに「嘘」だと見破れる稚拙なものしか出てこなかった。


「ありがとうな。その気持ちだけでも受け取っておくよ」


 だが、餡蜜のように甘い彼は、稚拙な嘘には一切触れてこなかった。

 逆に、爽やかな笑みを浮かべ、両手を合わせた状態で。


「俺には結愛が居るからさ。彼女以外の女の子の家に行くのはちょっとマズイだろ?」


 彼女持ちの男が他の女の家にお邪魔するのは悪い。

 彼はそう言っているのだ。一般的にそれは正しい行為だ。

 恋人同士として、彼氏としては、最善の選択なのかもしれない。

 その姿は、最高の彼氏として褒め称えるべきなのかもしれない。


「……うん、そ、そうだよね……彼女居るもんね……あははは」


 ただ、私は素直に褒めることも喜ぶこともできなかった。

 それでも変なことを口走れば、彼が困ってしまう。

 そう思い、下手くそな愛想笑いを顔に貼り付け、彼の意見に肯定してあげた。


「それじゃあ。俺、帰るわ!」


 明るい笑みを浮かべて、彼は手を振ってきた。

 私もそれに合わせて、小さく手を振り返す。


「あ、そうだ。明日からちゃんと予備校来いよ」

「……う、うん。分かってるわよ」

「お前のお友達が心配してたからな。ちゃんと連絡ぐらいは返せな」

「……ごめん」

「俺じゃなくて、お友達に頼むぞ。それじゃあな」


 言いたいことを言い終えたのか、自転車が動き出した。

 彼の大きな背中が、少しずつ離れていく。

 その姿を見ながら、私は自分の腕を押さえていた。


——そんなの関係ないよ。別に彼女が居ても、家に来ればいいじゃん。


 痛みを加えないと、変な言葉を吐き出してしまいそうだったから。



◇◆◇◆◇◆


 時縄勇太に別れを告げ、私はマンションのエントランスに入った。

 素早くエレベーターに乗り、自分の住む階層へと向かう。

 ドアが開いた瞬間に、私は急いで自宅前へと戻り、家の錠を開いた。

 そして——。

 玄関へと入り、勢いよく扉を閉め、チェーンまで閉めた直後。

 私は、両手で顔を押さえながら、膝から倒れ込んでしまう。


「……や……ヤバイ。私、おかしい……おかしいよ……やっぱり」


 心臓のドキドキが止まらない。鳴り止むことがない。

 彼のことを思うたびに、胸がキュッと締め付けられる痛みが起きるのだ。

 それに頭が全く働かない。一種の興奮状態に陥っていると考えられる。

 落ち着こうと深呼吸を繰り返し、私は少しでも酔いを冷まそうとする。

 だが、逆効果だ。

 高鳴る鼓動も、暴れ回る思考回路も留まることを知らない。


「……お風呂に入ろう」


 数十分程、私は玄関前で蹲み込んでいた。

 ただ、時間の無駄だと思い直し、お風呂に入ることを決意する。

 疲れた身体を癒せば、少しはこの気の迷いを覚めるだろうと思って。


「ただいま」


 私の家は、一人で住むには広すぎる2LDK。

 だけど、誰も踏み入れさせたくない自分だけの特別な空間。

 普段から清掃を欠かさないので、生活感はほとんど感じない。

 モデルハウスの清潔な部屋を参考にし、一通りの家具を揃えた。

 そんなリビングを通って、私はお風呂のスイッチを入れる。

 年々進化する人間じみた機械音に報告を受けながらも、私は寝室で寝巻き用のパジャマと下着を手に取り、お風呂場へと向かうのであった。



 一人暮らしなので日常的に浴槽へ浸かることはない。

 ただ今日だけはどうしても浸かりたかったのだ。

 普段通りに、頭から足先まで念入りに洗い終えた。

 土や泥で汚れた身体は、元の白色に戻った。

 あとは、雨に濡れて疲れた身体を癒せばいい。

 立ち上がった私は、足先を熱々の湯船に入れる。

 普段ならば、入るのを躊躇う熱さだ。

 だが、今日だけはその熱さで、身も心も温めて欲しかった。

 肩まで浸かって、全身を温める。最高の気分だ。

 実際、風呂場の壁にある鏡には、私の明るい笑顔が映っていた。

 ここ最近は、こんな笑顔を見せたことがなかった。

 これもそれも……。


 今日起きた出来事が、勝手に脳内にフラッシュバッグする。

 大粒の雨が降る中、祖母の形見を探し続け、それでも見つからなかった。

 もう諦めようと思っていた頃に、現れた予備校のクラスメイトのことを。

 私が「もういいよ。帰ろう」と何度も言ったのに、諦めなかった彼のことを。


「……もうどうしてよ。意味分からない」


 彼のことを思うだけで、身も心も温まった気がした。

 今の私は湯船よりも確実に熱いはず。

 でも、どうして……?


「これが恋なのかな……?」


 好きか嫌いかといわれれば、彼のことは好きだ。

 でも、それはライクであり、ラブではない。

 恋愛感情的な意味を含めない好きなはずなのに。


「私は別にあの男なんてどうでもいい。そのはずなのに……」


 私の脳内は、彼のことでいっぱいいっぱいになってしまう。

 彼の顔が次から次へと私の記憶を埋め尽くしてくるのだ。

 ほんの少しだけ気を取られるだけで、彼の顔が浮かび上がってくる。


「ど、どうして……意識しちゃうんだろう。謎だ」


 心の中では、私はもう理解していたのかもしれない。

 もしくは、この感情の意味を理解できていたのかもしれない。

 だが、自分の心にフタをして、私は必死に取り繕ろうとしていた。

 それでも、胸のうちに広がる想いだけは留まることを知らなかった。


「一体……この感情は何……? 初めてだから分からない」


 浴槽に浸かりながら、呟いた一言。

 その問いに対する答えを、私はもう少し先で知ることになる。

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