第8話
「おはよう。時縄くん」
「おはよう。彩心さん」
「それじゃあ。また昼休みね」
「あぁ、またあとからな」
たったこれだけの会話を、予備校の教室内で繰り返しているだけに過ぎない。それにも関わらず、周りの連中は想像力が人一倍に働くようである。
男嫌いで有名なあの彩心真優を落とした男が現れた。
おまけにその男は冴えなくて、たった一人で勉強に没頭する変な輩だ。
と、根も葉もない噂が飛び交ってしまうのである。
別に、俺と彩心真優は付き合っているわけではないのに。
◇◆◇◆◇◆
以前までは最も勉学に集中できる時間帯だった昼休み。
大広間型の自習室に、年若い男女が共に飯を食っている。
そう聞けば、誰もが恋仲ではないかと予想するだろう。
だが、俺と彼女——彩心真優の間では決して起きない。
「どうするんだよ、変な噂が立ってるぞ」
俺は英単語帳を眺めながらも、彩心真優に怒りの矛先を向ける。しかし、彼女はコンビニで購入した焼そばパンを嬉しそうに頬張っている。
食べることに夢中になりすぎて、俺の話になど興味ないというわけか……?
ったく……この女は、見てくれはいいが、食べるとおかしくなっちまうな。
これだけ食に興味があるなら、小学生時代は「お菓子やジュースもあるよ?」と誘えば、どこへでも付いて行ったんじゃないだろうか。考えただけで恐ろしい過去だな。
無視されたことに苛立ちを覚え、俺は母親お手製の卵焼きを箸で突き刺した。
正にその瞬間、彩心真優は返答を出してきた。
「まぁ〜そうなるよねとは思ってたよ。最近結構聞かれるし」
「聞かれるって?」
「あの冴えない奴と付き合ってるのかってさ」
「……冴えないのか、俺は」
「髪型とか服装がね……全然オシャレじゃないもんね、時縄くんは」
余計なお世話である。オシャレじゃなくて悪かったな、これが俺なんだよ。
と、俺は心の中で悪態を吐き、英単語帳から目線を上げた。
すると、彩心真優はいちごオレを携えて、ストローでチロチロと飲んでいた。
ほんの数十秒前まで彼女の手元にあった焼そばパンは胃袋へと消えたようである。
食べ物に魂が宿るのならば、彩心真優の近くで神隠し伝説が流行っているだろう。
「予備校はオシャレする場所じゃねぇーからな。ここは勉強するところなんだよ」
「と言いつつも、私よりも良い成績を取れてないじゃん」
「お、お前……そんなこというなよ。マジで泣きたくなるからさ」
彩心真優はこの予備校内で最も成績が良い生徒である。
予備校入学と同時に受けた模試では全科目で9割を獲得。
全予備校内の成績優秀者が掲載された張り紙では、彼女の名前は上から五番目までにあった。
逆に俺は……。
この片田舎の予備校内では成績が高いほうだ。
だが、医学部を目指している者の中では中途半端な立ち位置。
というか、必死に勉強しているガリ勉の割には、その点数かよと嘲笑されるレベルだ。
絶対に俺も成績優秀者に選ばれてやる。それで必ず見返してやるぞ、笑った奴等め。
「人間の価値はテストの成績で決まらないよ、時縄くん」
「でも未来は決まるんだよ。成績上位なお前には分からないと思うけどな」
正論すぎる正論に彩心真優は反論できずに黙り込んでしまう。
唇をキュッと固く結んで、何か言いたげな表情を浮かべている。
口喧嘩で負けて余程悔しいのが伝わってくる。
で、さっきの話に戻るんだが、と前置きしてから。
「付き合ってるかと周りに聞かれて、何と答えるんだよ?」
「それは勿論、皆様のご想像にお任せしますだよ!!」
「思わせぶりすぎるだろ……それは全員騙されるわ」
「騙してはないよ。ただ全員勘違いしてるだけだよ」
「あのなぁ〜。少しは俺の身も考えてくれよ」
「時縄くんの身? 何かあったの?」
彩心真優は小首を傾げた。
どうやら俺の苦労を何も知らないらしい。
彼女と関わり始めてから、俺の人生は急変したのに。
「俺がお前と関わり始めてから二つもあるんだよ、二つも」
人差し指と中指を立て、俺はピースサインを作る。
その真剣さを少しは理解してくれたのかもしれない。
彩心真優は片手に顔を乗せ、いちごオレをチロチロ飲む。
それから、哀れむような瞳のまま、つまらなそうな声で。
「ふぅ〜ん。何があったの?」
「まず一つ目。注目を浴びるようになった」
「良かったね。人気者の仲間入りだね!!」
「ちげぇーよ。逆だ、逆!!」
「……ん? 良いことなんじゃないの?」
「俺は平穏な予備校生ライフを味わいたいんだよ」
医学部を目指して勉強に励んでいるのだ。
その為には、出来る限り集中できる環境が必要なのだ。
なので、必然的に静かな場所が欲しいのだが……。
「全く集中できねぇ〜んだよ。人目が気になって仕方ない」
「自意識過剰じゃないの? 誰も見てないと思うよ」
「いいや。自習中にチラチラと見てくる輩が居るんだよ」
アイツが彩心真優の彼氏らしいぜ。
うわぁ、マジかよ。あんな陰気臭い奴が?
俺たちの彩心様が……あんな男に取られるなんて。
全然釣り合ってないよね? 彩心様とアイツじゃあ。
と、囁かれているのだ。確実に俺を襲う災難である。
それにも関わらず、彩心真優は言うのである。
「勘違いだよ、それは。それにさ、もしも言われていたとしても、別に気にしなかったらいいんじゃないのかな?」
彩心真優は陰口を言われることに慣れているようだ。
だからこそ、気にしないという結論を導き出せるのだろう。
しかし、俺は注目を浴びるのが苦手な平凡な野郎だからさ。
「そう簡単に気にしなくなれるならいいんだがな……」
「何かあったの?」
「……あぁ、別に気にするな。何でもないから」
アレは小学校の発表会での出来事だ。
クラス内で演劇をお披露目することになり、俺は脇役という身分相応な役目を与えられた。勿論、発表会なので、全学年の生徒とその保護者が小さな体育館に集められていた。
劇に出演する生徒一人一人に見せ場を作ってあげよう。
変な親切心を働かせた教師がシナリオを担当し、脇役の俺でさえ、少し長めのセリフを用意されていたのだが……。
発表会当日。
極度の緊張で、俺はセリフをすっぽ抜かしてしまったのだ。
結果、数十秒間にも及ぶ沈黙が続き、劇は台無しになった。
哀れむような眼差しが、舞台に立つ俺に突き刺さっていた。
今考えても忘れられない光景である。もう二度と体験したくない。過去に戻れるなら、俺はこのトラウマを払拭するね。
でも、実はそれで終わりではなかったのだ。
この演劇での失敗を通して、俺の生活は————。
「それで二つ目は?」
彩心真優は目付きを鋭くさせて訊ねてきた。
目を瞑った状態で「うんぬん」と唸る俺を見ていれば、それはそれで苛立ちが溜まっていたことだろう。
それでもさ、自分語りするよりも、過去の回想で浸っているほうがいいんじゃない。他人の自分語り以上につまらない話はないんだからさ。気を遣って、敢えて話さなかったのにさ。
「消しかすを投げられるようになった。勉強妨害だな」
一度や二度ならば許してやろう。
だが、それが何度も起きると、イライラが止まらなくなる。
おまけに俺の頭に当たると、クスクスと笑い声が聞こえてくるのだ。
集中しようと意気込んだ瞬間に投げられると、その怒りはピークに達し、俺の頭に不法投棄してきた奴等を張り倒してやろうと思うほどである。
「……それは問題だね」
物理的な攻撃が入れば、彩心真優も心配してくれるらしい。
顎に手を当てた状態で、険しい表情を浮かべている。
俺が置かれている状況の深刻さを理解してくれたようだ。
「やっぱり私と関わってるから?」
「当たり前だろ。俺が誰かに咎められる理由はないからな」
「……そうだよね。人畜無害で有名だもんね、時縄くんは」
優しい彩心真優はそう言ってくれるのだが……。
「もうさ、私たちの関係終わりにしよっか?」
俺は平穏な生活を望んでいる。
そのはずなのに彩心真優から出てきた言葉を否定していた。
「関係を終わらせるのはナシだ」
愛する彼女を救う為に、俺は医学部を目指している。
だが、現在の状況では医学部に入るなど夢物語な話だ。
だからこそ、俺はこの予備校内で最も成績が高い彩心真優の力に頼るしかないのである。
「でもさ、私のせいで勉強に集中できないんでしょ? それをどうにかしてほしいから、私に話してくれたんじゃないの?」
彩心真優の言い分は正しい。
結局、俺は何を言いたいが為に、彼女に申し出たのか。
彩心真優のせいで自分は被害を受けているんだ。だから、もうお前との関係を解消してくれ。
と、頼み込むのならば、話はまだ理解できる。
だが、実際に俺が話した内容は、彩心真優のせいで自分は被害を受けている。でも、この関係を終わらせる気はない。
と、長々と会話した癖に意味不明な理論関係で話を終わらせたのだ。我ながら自分のバカさ加減に呆れる。
支離滅裂な理論を構築させ、ただ自分にしか理解できない結論を導き出したに過ぎないのだから。
「俺たちは持ちつ持たれつの関係だろ。気にするな」
「それなら最初からその話題を出さなくても……」
彩心真優は俯いたままに小声でそう呟く。
ただ、何か思い当たる節があったのだろう。
悪意全開で口元を歪め、切れ長の黒い瞳を緩めて。
「あのさ、時縄くん。もしかして不幸自慢が——」
お前の心は全て見透かしてやったぞ。
そんな得意気な声で文章を紡いできた。
だから、俺は空かさず話の軸を変えることにした。
「というわけで——この問題の解法を教えてくれ!!」
慌てて、俺は予備校の数学テキストを取り出した。
彩心真優に訊ねるのは本日の授業で解いた数学の問題。
最後の問題が授業の関係上、早口になってしまったのである。そのせいで、俺はイマイチ理解できなかったわけだ。
周りの奴等も、最初は「うんうん」と頷いていたものの、途中からは口をぽか〜んと開け、険しい顔をしていたものだ。
「露骨な逃げ方だね、時縄くん」
「何のこと……?」
「いいや、別に何でもないよ」
何でもない。
そういう奴がニタニタ顔をするのかは謎なのだが。
彩心真優は俺の隣へと近寄り、数学のテキストを覗き込む。
「えっとね。この問題の解き方はね——」
彩心真優は懇切丁寧に説明してくれる。
俺が理解できる段階までレベルを下げてくれるのだ。
小さなステップを積み重ねながらマンツーマンで教えてくれるからこそ、俺は着実に理解の領域を広げられるわけである。
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