第3話

 小粒サイズの雨が降る中、俺は自転車を漕いでいた。

 俺は浪人生だが、真っ直ぐ家に帰るイイ子ではない。

 今から愛する彼女に会いに行き、彼氏らしく彼女に笑顔の一つや二つを作ってから帰ろうという魂胆である。

 というわけで、俺が向かう先は——丘の上にある病院だ。


 高校時代から何度も訪れたことがある病院の一室。

 名札を確認すると、室内の在室者は彼女一人だけだった。

 以前までは、四人部屋で賑やかだったのだが、その数は日が経つごとに消えていった。全員亡くなってしまったのである。


 喋り相手が居なくなって、さぞかし寂しい思いをしているだろう。そう思いながら、俺は扉を開くと——。


 俺が世界で一番愛する女性——本懐結愛ホンカイユアは僅かに開いた窓から月を眺めていた。色素が薄い髪色と琥珀色の瞳は月光に照らされ、より一層輝きを放っていた。その姿は、あまりにも神秘的であった。


 そんな女神様と思しき彼女は、ゆっくりと振り返る。

 それから、俺の顔を認識してから、天使のような微笑みを浮かべるのである。その笑顔一つで、丘の上まで必死にペダルを漕いでいたことが報われた気分になるのである。


「今日も来てくれたんだね」

「結愛の彼氏だぞ。来ないわけがないだろ?」

「でも、予備校があるでしょ? 無理して来なくてもいいんだよ。あたしみたいな空っぽな女の元に来ても何もできないんだから」

「結愛に会いたいんだよ。だからさ、悲しいこと言うなよ」


 壁にもたれかかったパイプ椅子を組み立て、俺は座る。

 毎日のように会っているのだが、結愛は今日も可愛い。


「予備校は楽しい?」

「毎日勉強三昧だぞ。楽しいはずねぇーだろ?」

「そっか。そうだよね」


 神妙そうな面持ちで、結愛は続けた。


「あのさ、今年も医学部狙い?」

「まぁ〜な。俺は医学部にしか興味ねぇーよ」


 医学部を目指す理由は、ただ一つである。

 本懐結愛の病気を治そうと思っているからだ。

 俺と結愛はご近所同士の付き合いで、両親共々仲良くさせてもらっている間柄である。言わば、幼馴染みという関係だ。


 幼かった頃の俺は引っ込み思案な性格で、誰かと積極的に関わるのが苦手なタイプであった。で、そんな俺を救ってくれたのが、無邪気な笑顔が特徴的な悪戯っ子——本懐結愛だった。


 本懐結愛と関わるにつれて、俺の人生は華やかなものになった。次から次へと結愛が俺を引っ張ってくれて、色んな場所へ連れていってくれたのだ。俺が全く知らない世界へと。


 で、そんなある日。

 俺は一度も忘れたことがない中学校に上がる春休み前。

 俺と一緒に遊んでいた彼女は突然ぶっ倒れたのだ。

 それからというもの、彼女は病に蝕まれているのだ。


「……む、無理しなくてもいいんだよ」

「無理してねぇーよ。約束しただろ?」


 結愛は小さく頷き、笑みを浮かべてきた。

 俺はそんな彼女の笑顔を見ながら、今日も誓うのだ。


「絶対俺が結愛の病気を治してやるからな」

「ありがとう。愛してるよ、勇太」

「うん。俺も愛してるよ、結愛のこと」


 お互いの視線が合う。

 乾燥した唇を舐めた後、俺は結愛へと近づく。

 彼女も迎え入れてくれそうだ。

 そう思っていたのだが。


「ご、ごめん……キスはちょっと無理かも」

「悪い」

「いや……その唇が乾燥してて……ごめん」

「いいんだよ。ごめん、俺の方が無神経で」

「……あたしが悪いんだよ。だから、気落ちしないで」


 結愛はウブな女の子だ。

 全くと言ってもいいほどに、手を繋ぐことも、キスをすることも、ましてや、カラダに触れさせてくれることはない。

 だからこそ、俺は毎回思ってしまうのである。


「俺たちはさ、付き合ってるんだよな?」

「何言ってるの? 付き合ってるに決まってるじゃん」

「それならいいんだけど……」


 幼馴染みの関係が継続したまま、俺たちは付き合い始めた。

 どちらから告白したかさえもう覚えていない。神様が二人は結婚するのが当たり前だと決めたかのように、俺たちはお互いに意識して、恋に落ち、そして気付けば付き合っていたのだ。


「あたしも大学通ってみたかったなぁ〜」

「通えばいいんじゃないか?」

「あたし、バカだもん」


 何を言ってるのか。

 そんな戸惑いの表情を浮かべている。

 大学に通うなんて無理だと諦めているかのように。


「それにどうせ、また身体を壊すに決まってるし」


 そう決まっているかのように、強い口調であった。

 それからも、俺が世界で一番愛する彼女はいう。


「あたし高校も途中で退学しちゃってるし」


 病弱な本懐結愛は高校を中途退学した。

 俺と同じ偏差値が高い高校に入学したのに。

 それでも高校一年生の途中で体調を急激に壊してからは、入退院を繰り替える日々を送っているのだ。

 時折、学校に来たと思ったら、そのまま授業にも参加せずに、保健室で過ごしていたが。


「あたしって不幸な女の子かもしれない」


 本懐結愛は顔をうつむけて、そう切り出した。

 でもね、と強い口調で言い、彼女は続ける。


「でもね、たった一つだけ恵まれてることもあるんだよ」


 顔をしっかりを上げ、俺を見て本懐結愛は微笑んでくる。

 琥珀色の瞳には、魔女が強力な魔法を掛けたのかもしれない。美しいが、何処か闇がある水晶玉のような瞳に、俺の心は奪われてしまうのである。


「勇太が居てくれるから。勇太があたしの病気を治してくれるから。だからね、あたしはね、それでいいんだよ」

「あぁー任せてろ。絶対俺が治療法を見つけてやるから」


 俺は医学部を目指している。

 大好きな彼女が患う病気を治すために。

 去年は見事に落ちた。だが、今年は必ず合格する。

 そして、医学部に行き、俺は愛する彼女を救うのだ。

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