第2話

「ふぅ〜。そろそろ帰るか」


 腕時計を確認すると、既に午後7時を過ぎていた。

 急いで帰りの支度を終わらせ、俺は自習室を出た。

 自習室に残っている者は少なかった。

 予備校に通い始めた頃は、大半が残っていた。

 だが、予備校生活が始まって、3ヶ月が経過している。

 徐々に浪人生活に慣れ、現状に弛み始めているのだろう。


「まぁ、俺にとっては好都合だがな。そっちの方が」


 浪人生にとって、時間は貴重である。

 勿論、誰にだって、時間は有限で貴重なものだろう。

 しかし、殆どの人間がその貴重さに気付かない。


 一度過ぎた時間は、もう二度と巻き戻らないにも関わらず。


◇◆◇◆◇◆


「……雨か。最悪だな」


 階段を降り、下駄箱へと向かう。

 外を眺めると、ポツポツと雨が降っていた。

 まだ小雨だからいいものの、もう少しで梅雨入りすると朝のニュースで言っていた気がする。今後雨が増えるのは嫌だ。

 そんなことを思いながら、俺は靴に履き替え、傘立てから傘を取って、予備校の外に出た。

 どんよりとした雲がぷかぷかと浮かんでおり、濡れたアスファルト特有の変なニオイがぷんぷんと発散されている。


 そんな折、俺の視界をさらさらの黒絹が映った。

 何かと思っていると、目の前には少女が立っていた。

 生温かい風に靡いて揺らぐ長い黒髪に、雪のように白く染まった肌。

 頭上を見上げて、今後の天気を占っている丸っこい猫目。


 数時間前、大きな声で喋っていた男たちに注意していた少女であった。


 彼女の名前は彩心真優アヤナマユ

 県内有数の中高一貫のお嬢様学校出身で、模試で毎回上位に君臨する医学部志望の強敵だ。

 去年の受験では風邪を拗らせてしまったらしく、敢えなく今年予備校に通うことになってしまったらしい。本来ならば、去年受かってもおかしくない成績だというのに。

 要するに、彼女は受験期に身体を壊して、一年間を棒に振った可哀想な人物なのである。


 そんな悲劇の少女は空を見上げたまま、水平に手を伸ばしている。その手にはポツリポツリと水滴が落ち、彼女は雨量を確認しているようである。彼女の手持ちには傘がない。突然の雨に対応できず、彼女は思考を巡らせているのだろう。


「はぁ〜。もう行くしかないかぁ〜」


 深い溜め息を吐き、彼女の瞳には覚悟の色が灯った。

 体育大会のかけっこが始まる数秒前みたいな態勢を取っている。どうやら走って帰る決意をしたようだ。


 お嬢様学校出身の彩心真優が走っている姿を一目見たい。

 そんな邪な気持ちもあるのだが、俺はお節介焼きらしい。


 彩心真優が俺とは全く異なる世界に住んでいる。

 それは分かりきっていたのに、喋りかけようとしている。

 同じく医学部を志す者なので、相手が風邪を拗らせてくれたほうが遥かにいいというのに。そうなれば、必然的に勉強を怠ることになり、俺が医学部に合格する確率が上がるのにな。


 変な奴から喋りかけられたとか言われないか心配だな。

 でも、一度動き出した親切心は、留まることを知らなかった。


「ちょっといいか?」

「——うわああああああああああ!!!!」


 彩心真優は肩をビクンと震わせ、勢いで二、三歩だけ前へ進んだ。

 だが、何か違和感を覚えたのか、ゆっくりと振り返る。

 幽霊、もしくは未知の生命体に話しかけられたわけではない。

 そう理解して、ほっと一安心したのか、彼女は肩を撫で下ろしながら戻ってきた。

 白肌は仄かに朱色に染まっている。変な姿を見られたとでも思っているのだろう。瞳が若干揺らいでるのが面白い。


「そんなに笑わなくてもいいじゃない。自分一人だけと思ってたら、突然誰かに喋りかけられたら……誰でもちょっと変な声が出ちゃうわよ」


 それにしても、俺の存在に全く気付いていなかったらしい。

 影が薄いと評判の俺だが、ここまで近づいて気配を感じ取られなかったのは初めての出来事である。もしかしたら、俺の進路は、忍者や暗殺者などのほうが向いているのかもしれない。


「ごめんごめん」

「素直に謝ってくれたから許してあげる」

「それにしても彩心様もあんな行動を取るんだね」

「何それ? 私を煽ってるの?」

「完璧超人でも意外な一面があるんだなってさ」

「……完璧超人じゃないわよ、私は。普通よ、普通」


 彩心真優は自分を普通の人間と思っているらしい。

 模試では毎回上位に君臨し、予備校のクラス内でも最も目立つ存在なのに。それなのに普通を語るのか、この人は。


 あ、それよりも、と呟いてから、彩心真優は近づいてきた。

 顔と顔の距離が近くなり、更にはお互いの目線も合う。

 それでも、彼女は顔色一つ変えることなく囁いてくるのだ。


「さっきのことは内緒だからね、二人だけの。いい?」

「どうして? 可愛いエピソードじゃん」

「ダメよ。恥ずかしいじゃない。分かった??」


 恥ずかしい出来事かもしれない。

 でも、逆にこの話を聞いても、彩心真優にも意外な一面があるんだな。可愛いなというプラス側の印象にしかならないと思うんだけど……。


「分かった? 返事がないんだけど?」

「あ、うん」

「うんじゃなくて、はいでしょ? ほら、言って」


 はい、と俺が少し大きめな返事をすると。


「よろしい。素直な男の子は大好きだよ」


 彩心真優は元気な声を出した俺を見て、微笑んだ。

 その笑顔一つで、男子たちの心は奪われてしまうのだろう。

 俺には愛する彼女が居るから、揺らぐことは決してない。

 それでも、俺に彼女が居なければ、本気で恋に堕ちてただろう。


「それで何の用かな?」


 彩心真優は訝しげな瞳を向けてくる。

 一度固めた決意を踏みにじられたのだ。無理もないさ。

 俺だって、勉強しようと机に向かった瞬間に、チャイムを鳴らされたときは荒れるし。


「あ、先に言っておくけど、今はまだ誰とも付き合う気も、予備校終わりに遊びに行くこともできないよ」


 なるほどな。

 彼女はことあるたびに、男性からアプローチを繰り返し受けているようだ。もううんざりだという表情を浮かべている。

 美人さんというのも、何かと大変なようだ。女性陣にモテモテな生活を送っていない俺には一生理解できない感覚だろう。

 ともあれ、誤解を解くために、俺は握っていた傘を向けて。


「もしよかったらこれ使ってくれないかなと思ってさ」

「……えっ?」


 言っている意味が分かりません。

 そんな戸惑いの表情だったが、俺が言った意味を理解してくれたらしい。彼女は不安げな声色で訊ねてくる。


「……いいの? 傘借りても」

「もちろん。雨濡れるのは嫌でしょ?」

「それはそうだけど……」


 お断りしそうな雰囲気を出していた。

 だが、彩心真優は渋々と言った感じで受け取ってくれた。

 やっぱり濡れるのは嫌なのだろう。

 そう思っていたのだが、彼女は一つの提案をしてきた。


「それならさ、一緒に帰ろうよ」

「えっ?」

「傘一本しかないんでしょ? なら、一緒に使おうよ」

「ええと……」


 もしかして、と彩心真優が呟いた。

 それからニタニタ顔でこちらに迫ってきた。


「女の子と相合い傘するの初めてなのかなぁ〜?」

「あ、あるよ。そ、それぐらい、お、俺でも……」

「へぇ〜。って、本当に? キミが??」


 素っ頓狂な声を出されてしまう。

 純粋無垢な顔とは、オブラートに包んでくれたのだろう。

 実際は、陰気臭くて、女性にモテない顔と言いたかったのだろう。だからこそ、相合い傘経験があると知り、驚かせてしまったのだ。無理もない。実際、俺はモテ顔では全然ないし。


「こう見えても、俺は彼女居ますんで」

「一方通行な愛は辛いだけだと思うよ」

「おい、それはどんな意味だ! 答えろ!!」

「彼女さんは画面の向こう側に居るのかな?」

「二次元の彼女じゃありませんから! 三次元だから!」


 余計なことを言ってしまった。

 彩心真優もそう思ったのかもしれない。

 唇をキュッと結んでから、彼女はいう。


「……でもいいの? 私に傘を貸したら濡れちゃうよ?」

「ご心配なく。俺、自転車通学だからさ」

「そっか。それなら貸してもらおうかな」

「あぁ、そうしてくれ。俺もそっちのほうが助かるからさ」

「助かる……? どういう意味??」


 頭の上に疑問符を浮かべる彩心真優に、俺は胸を張って教えることにした。


「今から彼女に会いに行くんだよ。雨も滴るいい男って言うだろ?」

「物好きな女性も居るんだね」

「あ、あのなぁ〜。俺の彼女は世界一可愛いんだよ!」


 予備校の外とはいえ、俺は何を言っているのだ。

 俺の彼女は世界一可愛い。それは事実なのだが、如何せん、誰かの目の前でいうのは恥ずかしいものだ。


「それなら尚更受け取ることはできないよ」


 彩心真優は傘をこちらに向けてきた。

 だが、俺は首を横に振った。


「世界一可愛い彼女に会うのに濡れててもいいの? 彼女さん、心配しちゃうよ」

「いいっていいって。それじゃあな」


 俺はそれだけ伝えると、予備校の駐輪場まで走った。

 彩心真優が「ちょ、ちょっと待って!!」と堅苦しいことを言っていたものの、素直に無視を貫き通した。


 余計なお節介だったかもしれない。

 だが、心が清々しかった。誰かのためになるなんて。

 浪人生はただの穀潰し。

 そう言われるし、偶には世の中、人のために親切をせねば。

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