第19話:……ち落
「と、とにかく距離を取ろう!」
心は三階の廊下を右から左へと走り回っていた。外から教室をのぞきながら、全速力で。莉花の意思を継ぎ、夕雅から確実に逃げおおせるためである。
(生半可な場所だと見つかっちまう……。かと言って逃げ道を失うとぉ……反撃しにくい。何か……何かないのか……!)
高速で首を振っていると、突然後ろから風を切る音が聞こえてきたのだ。振り向いた心の目に映ったのは……。
(なんだぁ!?)
謎の球体だった。不可思議としか形容できない、得体の知れなさがあって。明らかなのは、自身に迫り来くるという事実のみ。しかも近づくにつれて黒色の曲線を帯び始めたのだ。
(こぉ……れ……ブラックぅリング——)
心の直感はあながち間違ってはいない。薄橙色の爪留めに、球体の石座……中心には一段と輝く黒瑠璃が。まるでオニキスと見間違うほどであった。
(きもちわりぃ……けど逃げちゃだめかぁ)
心にとって躱すのはたやすい。が、すぐ行動に移そうとはしなかった。好奇心が邪魔をしたというのは一つ目の理由。二つ目は火の粉として降りかかる謎は後々牙を向くと、判断してのこと。彼女は目ん玉が飛び出そうになるほど大きく見開き、頭をフル回転させる――。
「えぇっ、とぉりま……かくに——」
「莉花さん!?」
ボールのように投げられている正体は、莉花だった。微動だにせず、なされるがまま。一ミリも減速することなく。慣性が働いていないかのように、直進してきたのだ。
(ど……どうしちまったんだ……!)
相棒の変わり果てた姿に、心は揺らぎを抑えられない。ターゲットとの戦闘の結果がコレなのか、と。
(このままだと……壁に投げられたスライムみてぇにペシャンコだ……。骨折どころじゃ済まねぇぞ……!)
飛んでくる莉花を避けてしまえば、問題はなくなる。見なかったフリといえば正しいか。しかし彼女の命が危険にさらされてしまうのは確実で。
(だからといって受け止めると、今度は私が危うい……)
莉花が止まる気配も、何か奇跡が起こる気配もない。加速してしまい、より状況が悪化するのみで。もはや女性の体なんて生易しいものではなかった。相棒を助ける――すなわち、ウン十キロの砲弾を生身で食らうようなモノである。
「だがぁ……ここで止める!」
心は覚悟を決めた目つきで手をたたく。そして腕を大きく広げながら、中腰になったのだ。駆け寄る子どもを抱きしめようとする——父親のように。わが身を盾にするのだと。
(ぅぉらっ!)
さらに地面を少し蹴ることで、できる限り衝撃を減らそうとする。これ以上……傷つけることは決して許されない。その思いが自然と彼女を動かした。
莉花がみるみるうちに近づいて来る。時間稼ぎの雄姿をたたえよう。タッチで交代だと。胸元へ飛び込んできた彼女を心は優しく包み込もうと——。
「ぅぉぁあああああ!!」
何かが弾け飛ぶ爆音が、廊下中に鳴り響いた。鼓膜が破れそうになるほど。
音とは発生に必要なエネルギーが強ければ強いほど、大きく空気を振動させる。ならば直撃した心は勢いよく弾かれる……ことはなかった。
莉花が心に接触した瞬間、白色の風船が胸元から出てきたのだ。まるでズキンアザラシのように。相棒の体をしっかり包み込んで。
(……ギリィ……キャッチだコラ!)
心は五体満足で莉花を受け止めることに成功した。数メートル後方へ吹き飛んだが、廊下の端に到達する寸前で足裏をつけて。前傾姿勢になりブレーキをかけたのだ。莉花から手を離さないのは当然のこととして。
「はぁッ……はぁ。アッブねぇ……エアバックつけといて助かったぁ……」
左手で制服を押さえた心は歯を食いしばり、右手で風船を掴み上げる。莉花を腕で抱きかかえつつ。肉を無理やり引っぺがす、ギチッとした音が響かせながら。力を入れ続けていたためか、心の呼吸がさらに荒くなっていく。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
中から持ち上がったのは、車のハンドルである。
「ふうッ! ……っと」
それを引っこ抜いたことにより制服から分離され、掌枯れが解除された。
機械式エアバッグ内蔵のステアリングホイール……。彼女は「アーク・オブ・ラヴ」によって対衝撃チョッキを作り出していたのである。一人でも生き延びるための切り札にするために。仕込みのことは当然のように、相棒にはナイショで。
「はぁあ……なんとかキャッチできたぁ……」
探偵たちは廊下の左端へと追いやられていたが、心は一切気にしなかった。心配すべきなのは莉花、ただそれだけである。
「莉花さん! ねぇ! 生きてますか!」
必死の形相で呼びかける心、反応は…………なし。服の上から見える範囲でも複数の打撲痕と両指の骨折が分かる。おそらく肋骨も。顔へのダメージは少ないのが幸いである。
(少したんこぶできてる……唇も切って……)
それでも殴り合いに負けたような、リンチに遭ったとも思えるような姿をしているのだ。
(なんで……もうやりきったって! そんな顔してんの……)
心が浮かべる重く曇った顔がバカバカしく思えるほど。莉花はどこか誇らしげに、爽やかな顔をしている。人の気持ちを知らないで。凄惨なバトルだったにもかかわらず。立派な戦いぶりだったと、窺い知れてしまう。
「くぅっ……起きてよ! 莉花ぁ!」
心は莉花を優しく抱きしめる。下手に動かさず、そっと。何の感情も湧かないはずなのに、自然と目がかすんでしまう。
(なぜか……なぜかは分からないっ! この気持ちが分からない!)
人の死に際に関して、彼女はフェイクもリアルも散々見てきた。ここまで心が揺さぶられることは一度もなかった……にもかかわらず。
「すぐに心肺蘇生を……」
(でももう手遅れかも……)
残酷な現実を直視したくないと、逡巡した時だった。
「こほっ……」
消えてしまいそうだが、かすかに。小さく咳をする声が聞こえた。
(はぁっ……!)
心は希望で胸がいっぱいに満たされた。例えるなら暗闇に包まれた深海の中で、一筋の光が差し込むような……。再び、生きる活力を取り戻すのに十分すぎるほどの。
(か細いけど……呼気はある! 脈は正常だし……いびきみたいな死線期呼吸でもない! これは死にかけでも何でもない……生きようとしているんだ!)
「やったぁ……」
心は涙目になりながらも莉花の生存を喜ぶ。安堵によって顔は、ふにゃっと明るくなっていた。心の腕に包まれている莉花も、目を瞑ったままどこか安心しきった表情で。
慈しみの気持ちで溢れた光景は誰であれ不可侵の領域である。神であっても挟まることは許されない。喜びをともにした者だけにしか。
「ふっ〜……」
しかし空気を読まないヤツがここに一人……。
「やっぱりっ……愛じゃない?」
心が振り向く。確認できたのは、十メートルほど後方にある人影。あの憎き憎き、大切な相棒を死の一歩手前まで追い込んだやつが……。夕雅がこちらへとにじり寄っていたのだ。
夕雅はそんな思いもつゆ知らず、畳み掛けるように二人へ称賛を送り始めた。
「あの子はっよく頑張った……オツムはイマイチだったけど。君の友愛もっ……素晴らしい……やはり愛あればこそね」
心はすぐに目を背けた。おまえに構っている暇はない、と。今は莉花の安全確保が最優先事項だ。生まれたての赤ん坊に触れるように……彼女を端に寄せる。笑顔を崩さずに。
(仇ぃ……ね)
心は正面へと向き直った。柔らかいスマイルのままだと、自分自身は思っている。
(嬉しい状況に……ウン、悪感情はふさわしくないね……)
「うーん、せっかくっ……最愛に会わせてあげたのに。しんきくさっ」
夕雅は心の変化に勘づいていた。笑顔が狂気で引きつっていることを。平静を保とうとしても、殺意が心の全身から溢れ出て止まらないことに。
血の滴る両手を含め、全身をダラリと脱力させていたが――ただ一つだけ。光の灯っていない鬼のような瞳が、夕雅の姿を赤く映しているのである。
「あぁ~~……愛、愛、アイアイうっせんだよ! この
心は笑顔から一転、眉を吊り上げ歯をむき出しにしてブチギだ。彼女は絶えずいら立っている。莉花へのひどい仕打ちには当然のこととして。他人をヒトとして扱っていない……愛玩動物を愛でるかのような夕雅のしぐさに。極力感情を出したくないが、恨み節が留まることを知らなかった。
「なっ……!」
夕雅は怯んだように、少々顔をこわばらせた。精神的に傷ついたというより、図星といった反応で。玲那への間接的な罵倒に気づかないほどだった。
「わ、悪いぃ……? 愛の示し方がっ……千差万別なのも人間の特権でしょお?」
夕雅は何を伝えたいのかよく分からないアンサーを返す。肝心の心は、問答に興味なしと。ゆっくりと巾着袋に手を突っ込み、夕雅の足元に向けて大きくばらまいたのだ。
「示せるもんなら、示して見ろよ……。私を踏み越えて、本当のアイとやらを」
玲那は夕雅を睨みつけながら、地面を指さした。すると複数の金属音を響かせながら、お手製マキビシが地面へ落ちたのだ。一見、釘を加工した手作り感満載な代物なのだが。底に秘められているのは、車のタイヤを貫通させるほどの凶悪性である。
しかも彼女は抜け目ない。先ほど吹っ飛ばされた際にも、ちゃっかりマキビいていたのだ。足つぼマットのような、凶器の一本道の出来上がり。
(あのサド野郎の掌枯れは念力というより……重力操作に近いなぁ。最初に壁を歩いた時、毛先が暴れてなかったし……。なら一番されたくねぇのは……遠距離からの凶器攻撃)
心は階段裏に隠していた教室の引き戸を持ち上げ、体の前で構えた。「アーク・オブ・ラヴ」で壁と融合させ、バリスティックシールドのように。気分はSWAT、ガラスの向こうから対象をのぞき見る。どれだけ頭に血が上っても、敵の分析だけは欠かさないのだ。
(二番目にされたくないのは……そうだな。机や椅子を投げられること。質量で押し切られちゃひとたまりもねぇ……。だがそれならヒットアンドアウェイ! 私の掌枯れはまだバレてねぇから)
「ま、まぁここまでっ……嫌われてるとは……。まぁね! 別にいいよ! 二人まとめてっ……お仕置きするから」
夕雅はマキビシ地帯まで歩み寄り、右手を伸ばし天に掲げた。髪の毛が逆立つ。じわじわと、下敷きでこすられたように。次に皮膚が持ち上がり、肉へと。具の詰まった肉まんのような乳房も重力から解放されて、ピンと上を向く。
ついには全身が吸い込まれるように、天井へ上昇したのだ。上に落ちると言ったほうが適当か。
「これでもー……痛っ!」
天井に到達した瞬間、夕雅は手のひらに鋭い痛みを感じた。一粒の涙が上にこぼれ落ち、水音が天井に響く。
(なっ……なにぁが刺さった……?)
夕雅が錆び付いた機械のような速度で首を上げる。天井にはトラップのように無数の画鋲が。一面に敷き詰められていたのだ。能力を過信した者をあざ笑うかのように、所狭しと配置されて。そのうち牙をむいたのが五本……。
「この痛ぁみぃ! 早く解除するんだよぉ!!」
絹を裂くような悲痛な掛け声とともに、夕雅は重力を下に戻した。するとゴム手袋を引っ張るようなこすれる音が。針はなかなか肉と皮から離させてくれずに。繊維が締まったことで、痛みが倍増しているのだ。
「〜〜くぅっ…………!」
夕雅は腕に力を集結させると……勢いよく引き剥がす。痛みはほんの一瞬だけだと、言い聞かせて。
「ぐふぅ……」
掌枯れは解除済みであるため、必然的に床へ落下した。前髪が目を覆い隠しがら。引っ剥がされた手のひらには無数の穴が開いていたのだ。彼女はダメージ以上に、ゲッソリとしている。地面に膝をつかせたのは肉体的な苦痛だけではない。精神的な苦痛も大きく関係していたのである。
「この傷どこでっ……落とし前つけるつもり……?」
夕雅は手のひらを正面に向ける。流れ出る血液が手首を通り、地面へと落ちている。すると、流れる雫が水鉄砲のように前方へ射出されたのだ。古から伝わる遠距離の目つぶしとして、心に向かって。
「もう脅しは意味がない……この行動もね!」
実際、心は扉によって難なく防いだ。これが起死回生の一手というわけでもない。だが悪あがきとも取られる反撃が、夕雅に冷徹さを取り戻させたのだ。彼女は体勢を整えるため、地面へしゃがむ。
「トラップが他にも怖いね……。いったん距離を取らずぅ~~~突っ切る!」
クラウチングスタートの姿勢になった瞬間、夕雅は一直線に走り出した。いや地に足を付けたのは最初の踏み切りのみ。心へ向かってミサイルのように頭から飛び込みだしたのだ。この時、彼女自身の重力は心へ向かっており。
(やはり近づくよなぁ……。計算通りだよ!)
心は扉を支える手に一段と力をこめる。夕雅を迎え撃つために、いくら突き進んでも緩めることなく。六メートル、五メートル、四メートル……近づくにつれてスピードが速くなる。誇張表現なのだが、マッハを超える戦闘機のようなキーンとした音を心は聞いていた。
(ギリギリ……ギリギリまで……)
さらなる加速をつけた夕雅は、風をまといながら扉に殴り――。
(ここっ、ブレーキ!)
かからない! 直前に重力を下向きに戻し、勢いを相殺させたのだ。
(このまま無防備を晒したらカウンターが飛んでくる……そうだろ!)
夕雅は華麗なサイドステップでドアパッキンを掴み、勢いよく回り込む。その間、わずかコンマ五秒である。心は猛スピードに対応できない。普通の時間軸で生きているならば。しかし彼女が見たのは、蜻蛉の構えで待ち構えていた心の姿だった。
「間抜けは……テメェだぁぁぁぁ!!」
心は夕雅が飛び込まないことを事前から想定済みだった。自分までの距離は十メートル……ビル四階からの落下に相当すると。扉よりも柔らかい夕雅がぶつかったところで、ダメージを食らうのは夕雅自身なのだ。
心は笑みを押し殺すように歯を食いしばる。全身の硬直をパワーへ変え、ホウキを脳天へたたき込もうとした。いくら実力差があろうと、予備動作を終わらせた攻撃は避けるのが不可能である。
(ぐおぉぉぉっ……!)
夕雅の額が割れた……。と思いきや、心の攻撃は中断されてしまう。ガラス片が心の顔に突き刺さってきたためである。
(今一番邪魔されたくなかったのに……! どこのどいつだぁ!)
急いで心は状況を整理する。真横を見ると、ガラスの割れた引き戸に。上履きが突き刺さっているのだ。偶然か必然か、運がそっぽ向いたのか。
(自分の隣には扉……そう扉があった……。ツイてねぇぞ、衝撃か、風か? 何をされた? 傷ついてでも一発当てるべきだった……!)
「こういうのは無言でいこうよ、無言でぇ~」
運悪く扉が倒れてきたのか……違う。夕雅は自身のローファーを弾丸としてぶつけたのだ。援護射撃、または切り札として。十分に重力操作で加速させたローファーをガラスにぶつけることで、振り下ろしへの妨害を成功させたのだ。
「これでぉーわりっ」
夕雅は心の腹に狙いを定めて足先蹴りを繰り出そうとした。まずはみぞおちに。そこから鼻、喉……。広い的に当てて確実に動きを止めるために。
「うひゃあっ……」
心は諦めの悪さを見せる。失速した箒を投げつけると、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。開きっぱなしになった口に気づかないほど、みっともない姿で。
(せめて莉花さんだけでも……!)
莉花へ駆け寄った心は、抱きしめながらダンゴムシのように体を丸めた。握りしめた右手首を左手で掴みながら。
(この両手だけは……絶対に離さない! この人だけは何があっても守り切る。いずれ莉花さんも殺されるかもしれない……。でも先に死ぬのは自分だ!)
もはや尊くすら思える美しい友情である。しかし非情にも夕雅の歩みは止まらない。
「あらあら大した子……。でももうっ……温情ってのは残ってないの」
夕雅は莉花の安らかな顔を確認すると……心の背中へ前蹴りをお見舞いした。二発、三発、四発……と。
(まだ……まだまだ耐えきれるぞ……!)
いくら背中で受けていても、攻撃手段は踵だ。痛いものは痛い。心は涙が出るのをこらえる。莉花の苦しみはこんなモノではなかったと。
「ぐあっっ……」
だが右脇腹をえぐるように放たれた一発に、ついに耐えられなくなった。一気に体勢が崩れ、よろけてしまう。
(もうっ……最後まで……)
心は最後の意地を見せる。地面に倒れ込むことだけは我慢しなければならない。そのことだけを念頭に置き、掌を地面に着いた瞬間――。
「……なにぃ?」
なんと夕雅の目の前から、心と莉花の姿が忽然と消えたのだ。
(なぜ、消えた……! あのガキんちょの能力か?)
この目に映る状況が真実である。「
「ど、どこだっ……! どこにっ隠れた!」
夕雅にできることは、ただ喚くことだけ。恐ろしくみみっちい背中を曝け出しながら。その姿にバトル前の威厳は感じられなかった。
「――ぉぉぉぉぉ!!!!!」
するとはるか後方から、怒号が聞こえてきたのだ。廊下中の窓ガラスが粉砕されそうになるくらいの凄まじいモノが。
「こっちだ! クソ野郎!!!」
声の主は杏子心である。数秒前の姿がうそのように凛々しく、一本芯が通ったきれいな佇まいである。しかもサムズダウンした右手で口元を隠すほどの余裕を見せて。表情は見えない。が、その瞳は殺気を漲らせ炎々と燃えていた。
(追われるのではなく、追いかける……! 負ける気がしねぇ)
女子三日会わざれば刮目して見よ。負け癖がついていた彼女は鳴りを潜め、生まれ変わった心がそこにいたのだ。
「二発、三発、四発のケリ……! 莉花さんへの数々の暴行……! 生命も平穏も全てを脅かす蛮行……。そんなに落ちてぇんなら……私が地獄へ堕とす!」
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