第18話:……るち落

 心が階段へ走り去る音は……夕雅の耳にも入っていた。だが彼女は視線を向けない。追跡すること自体、無粋だと感じたからだ。



「相棒を逃がすとはっ……愛ね」


 夕雅は莉花に近づきながら声をかけた。元の身長も相まって、文字通り強く見下しながら。どこか莉花を認めているように目を細めている。


「……あの子は相棒ではないわ~。私は上に立つことを好まないもの」

 莉花は歯牙にもかけない態度で話をそらす。地面に座ったまま、強気な表情を崩さないで。どこまでも小憎たらしく。わざとらしい挑発が見え見えなのである。



「まぁ君の気持ちなんかどぉ~っ……でもその行動に免じてね。『参りました、私の負けです』って頭を下げるなら、殺しはしないわ~。もちろんあのっ……相棒ちゃんも」


 莉花に背を向けた夕雅は、大きく手を広げて歩み始める。そして教卓の上に飛び乗ると、足を組んで腰を下ろしたのである。玉座に座っているかのような姿勢で。おまえなんか眼中にない、余裕で倒せると言わんばかりに。




「それはあの子が望むこと……。私がしたいこととは違うわ」


 莉花はお尻を払いながら立ち上がると、攻守一体の異様な構えを見せたのだ。左腕をボクシングのファイティングポーズに。右手を軽く握り、完全に脱力させる。


(交渉決裂——即戦闘ってね)

 彼女のフォームには、近接格闘で一気に決めようとする気持ちが現れていた。飛び道具を繰り出す夕雅へのアンサーとして。右の拳で決めてやる、と。

 周囲で飛び交っていた家具は地に落ち、二人の間にキレイな一本道ができていたのだ。




「三コ下のガキの拳……! まさか必死こいて避けようとはしないわよねぇ? でもまぁ、遺伝子に刻まれた猫背が……感ジちゃうかもだけど」


 莉花は迷うことなく距離を詰める。夕雅に正面から向き合い、殺気を微塵も感じさせないお散歩のように。二歩、三歩、四歩……メトロノームのように足音が等速で響く。


(私に近づいてっ……来るのはおそらく右の拳。人をブン殴ったことなさそうなっ、テレフォンパンチとみた……!)

 夕雅は玲那の挑発にあえて乗り、攻撃へのカウンターを狙おうとする。彼女の歩みを数えると……。七歩目で歩みが止まった。いや七歩目の音とともに、平穏は終わりを迎えたのだ。




「ううぉっ――」


 莉花は大地を踏み締めると同時に、足首から膝、股関節、腰を連動させるように回した。慣性の法則により、エネルギーが遮られることなく上半身へ伝わる。だらりと伸ばされた右腕から繰り出されるのは……大振りのフック!


「……りゃあぁっ!!」

 右の拳の加速は十分だった。風のエフェクトが見えると錯覚するほど。当たれば確実に打ち沈められるモノだと思われるが。



(これはっやはり……。ホーキから想定はしていたけど、当てる気がない……!)


 完璧な攻撃……にしては動き出しが早すぎる。焦燥感によるものか。近接戦に慣れていないのか。明確に当たらない位置からの攻撃だったのだ。莉花の攻撃は右の掌外沿が視認できるほど、あからさまな拳に対して。


(覚悟……っ!)

 夕雅はあえて動かず、その場でガードを固めたのである。視界から入る情報だけを頼りにせず。左の小手で左側頭部のブロックして。右手で左脇腹を押さえながら。全筋力を総動員させるために硬くしたのだ。


(覚悟、覚悟、覚悟、覚悟、覚悟……かくごぉ!!!)

 すると彼女の右手の甲と左腕に鈍い痛みが。



「ぃたっ……!」


 夕雅は衝撃によって目を見開いた。頬は左右に無理矢理伸ばされたように引きつり。歯を食いしばって、表情を固めながら。


「――み……金属じゃない! ゴムか……二撃……机……」

 今の夕雅にとって、激痛は二の次である。彼女は正面にいる莉花へニヤリと笑った。攻撃のタネさえ分かればこっちのものだと。次は私の番だ……、と言葉ではなく目で伝えながら。



(やられたわ……! 致命傷にならなかった……やはり机は重すぎるわね……!)


 莉花は体をひねり、直ちに体勢を整える。二撃目の予備動作を行うために。大したダメージを出せなかったことを瞬時に理解したため、こちらも刺すような視線を向ける。殺意を隠す意味がないと、むき出しにして。


(私の『顔隠屍ライク・ア・シュラウド』で机を背景に溶け込ませ、攻撃のリーチを伸ばしたのはいいものの……。掌枯れが完全にバレる前に――)


 彼女が透明な机を使い、ターゲットの頭をフルスイングしようとする。その時だった。



「だ・れ・が・二撃目をっ――」


 夕雅は全てを受け入れるほどのお人よしではない。彼女は教卓の端を掴んで降りると、繰り出したのはドロップキック!



「……ゆるしたぁ?」


 着地を考えない飛び蹴りが水平に、莉花の腹に向かって放たれたのだ。助走もないので両足の脚力のみ。なのだが、「飛ぶことを教えろよラーン・トゥ・フライ」を使った夕雅の場合は違った。


(——キロスタンプ……水月きだ!)

 重力を莉花に向けて――もはや全体重を乗せたストンピングと同義なのである。




(ぐぅっ……なかなかのパワぁ……!)


 直撃した莉花は、後方のロッカーへ思い切り叩きつけられた。人の肉体から出てはいけない、つぶれる音を出しながら。

 普通ならば、まず悶絶は不可避だ。しかもすぐにではない。コンマ一秒後……脳が痛みを認識したことにより、悲痛な叫びが引き起こされるはずである。



(どうっ……なった?)

 だが、今回は十秒たとうが何も聞こえなかった。夕雅は後方宙返りで勢いを殺し、きれいに着地する。彼女が確認すると、その位置には……倒れた机のみ。



「ちっく……そぉ。また消えた……」


 またしても忽然と消えた莉花に、夕雅はイライラを抑えきれない。女の子としての矜持が正気を保たせているが。小動物のように小刻みに震えている。

 その間、絶えず殺気を浴びせる者がこの中に。


(いいえ……まだここよ)

 透明化した莉花が、倒れた机の隙間からゆっくり立ち上がる。

 すぐに動けた理由は一つ。凶器の机を手放さずに吹き飛ばされたことが、功を奏していたのだ。とっさの判断で机とロッカーの間に挟まったことによって。生身で衝突することだけは防げたのである。


(ここは暗殺……)

 ポケットからシャープペンシルを取り出し、静かに芯を繰り出した。音は極力抑えて。出した分だけ、相手にぶち込んでやると。だが彼女は、すぐに間合いを詰めようとしない。



(透明人間になったら、あんな事やこんな事でも……なんてみたいな妄想は捨てることね……。体温、匂い、物音は消せないし、殺気立っている人間には近づくことすら困難)


 ローファーを脱ぎ捨てた莉花は、摺り足で歩き始めた。必然的に牛歩になるが、極力足音を殺すため。目から出る殺気は……抑えきれていないが。



(人間、必ずセーフティをかける……。顔をぶん殴るときでさえ、自分の拳が壊れないようセーブしちゃうの。……でも透明だと気づかれないわ。わき見運転からの追突事故のように、パンチが、キックが、タックルが――飛んでくることも考慮しないと)



「あぁっ! イライラする! なんで私がガキの相手に!!」


 一方の夕雅は、黒板前で癇癪を起したようにチョークを握りつぶしていた。骨か枝でも折っているような、砕ける音をまき散らしながら。何度消してもかすかに残るチョークの跡をなぞりつつ。土俵入りのように、周囲にまきつけているのだ。



(なにあれ……早く楽にさせた方がいいわね)

 莉花はその変貌ぶりに戸惑いつつも、歩みを止めない。戦闘中に後ろをむくターゲットを確実に仕留めるため。


(頸椎……? 脳みそ……? 人体についてもっとベンキョーするんだったわね……どこが効率よく気絶させられるかしら……?)

 夕雅までの距離、残り一メートルである。ここから一歩でも動けば、勝負を決められるのだが。いま一つ、一歩を踏み出せずにいるのだ。



「ふぅ……あぁ!」

 夕雅の怒りはまだ収まっていないのか。黒板消しクリーナーを手に取ると……中に入ったフィルターを天井に投げつけ始めた。もはや大きなガワをかぶった子どものように。

 彼女の破壊衝動の餌食になったことで、あたり一面チョークの雪景色。周囲がホワイトアウト、視界不良になった瞬間だった。


「これで準備っ……OKってよ」

 夕雅は勢いよく振り向き、懐からライターを取り出した。




(もしかして……粉塵爆発!?)


 莉花はとっさに両手を交差させる。防御態勢を整えるために。

 粉塵爆発とは、一定濃度の粉塵が浮遊した状態で何らかの火種がある場合、爆発を引き起こす現象である。


(自分もろともの捨て身……! バカのシデかす行動は理解できない!)

 彼女は急所を守った。多少の負傷を覚悟して、即反撃ができるように。ガードにしては心もとないが。

 すると夕雅は正面に向かって、諭すように話しかける。



「チョークっ……は炭酸カルシウムだよ? 付け焼き刃の知識をひけらかすのは――だぁめ」


 夕雅は突然、何もない空中に向かって、上段回し蹴りを繰り出した。何か確固たる信念――私の行動は絶対正しいという自信に満ちた表情で。透明になった莉花へ攻撃するなど、まるで雲を掴もうとする行為である。普通は空振りするのが当たり前なのだが。


「ひぎぃっ!」

 立花の頭へクリーンヒットしたのだ。これは偶然だろうか……いや必然で。



「ぐぅあぁっ……」


 莉花はダウンした拍子に、思わず「顔隠屍ライク・ア・シュラウド」を解除してしまった。

(なぜバレた……まったく見当つかない!)

 頭が割れるような痛みを覚え、頭を押さえている。辛うじて必死に目の焦点を合わせようとしているのだが。



「陸上では透明にっ……見えるクラゲも、水中ではっ……キリと輪郭が浮かびあがる。あなた……存在感があったわよ? この空間でただ一つ、形を示してくれたから」


 夕雅は子どもを褒めるかのような口調で話を続ける。だがそこにあったのはさげすんだ目、嘲笑である。


(ヘイヘイ……)

 揚げ句の果てにはボロ雑巾を見るような死んだ目で、首元を大きくあらわにさせたのだ。右の親指で自身の頭を持ち上げ、左の中指で襟を引っ張り鎖骨を見せながら。急所はココだよ……、と。

 この挑発に莉花はというと。数秒かけて体を起こしながらヤンキー座りをし始めた。目線を隠して笑いながら。



「そりゃあ……どうも。元から影薄いアンタには分からんと思うけど……存在感の濃ぉ〜い私は希釈できるもんでね」


 彼女は半身をひねる。右腕を夕雅から隠すようにして。シャープペンシルを右の人差し指と中指の間に挟み込むために。まるでファッキューサイン……心の下では舌を出して笑っているのだ。


(ありがとさん……!)

 莉花は飛び上がるとともに、夕雅めがけてアッパーを繰り出した。狙いは急所……眼球である。決して躊躇われることなく、ターゲットへ吸い込まれて。



(私に力を……「顔隠屍ライク・ア・シュラウド」!)


 忌手を交えた数度目の攻防――。バトルはいたちごっこの様相を呈する。

(フン……)

 だがいくら凶器が近づこうと、夕雅が避けることはなかった。それは勝ち癖のついた人間の慢心か。はたまた弱者を相手にした余裕なのか。鋭く尖った芯は遮られることなく弧を描き、彼女の涙袋へ突き刺さる――。

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