第15話:……ちっ……

「底へ……堕ちろぉ!!!!!」



 激しい怒鳴り声をあげながら迫り来る玲那に対して、緑は険しい表情を変えることはなかった。柔よく剛を制す……。重いまぶたから覗かせる瞳は、初会から現在までターゲットを捉えて離さないのである。

(まずは小手調べ……そのクセを見つけること)



「せぇいっ!」

 玲那が地面を力強く踏み込む。沈み込むように、走り幅跳びの要領で。それでもなお、緑は口に手を当て続けた。眉毛一つすらも動かさない。明らかに届かない位置――三メートルほど前方からジャンプを始めていたからだ。

(踏み込みがあめぇな……)

 緑は百戦錬磨だ。間合いを見誤ることは決してない。


「……っの!」

 緑の思惑を知るよしもなく。玲那は左足をバネにして、力強く飛び膝蹴りを繰り出した。十センチ、十五センチ、二十センチ……。斜め上に飛び上がり、着実に高度を獲得して。



「もうすこぉ……」

 しかし右膝が緑の頭を捉えたところで玲那の上昇が止まってしまった。元から分かっていたことではあるのだが。水平距離一メートルを保ったまま。間合いに入ることすらなかった。仮にジャンプ位置が完璧ならば、今頃緑の顎を砕いていただろう。

「と……とどか……!」

 彼女は地球に生まれた生き物だ。重力が枷となり邪魔をする。


(……ここは着地を狩ろう)

 空中で失速する玲那。体の制御がいまいち効かず、右足を伸ばしきっても届かない様子で。緑の目の前へ落ちて、落ちて………。



(……いや、来るっ!)

 ――落ちなかった。落ちるどころか平行移動して。緑の顔面に右のカカトが急接近したのだ。


「しまっ……!」

 虚を突かれた緑は、とっさに十字受けをとる。玲那が繰り出したカカト落としに対して。



(ぐぅっ……こりゃきちぃ……!)


 間一髪、ガードが間に合った。客観的に見れば、緑のダメージは軽くよろめいただけ。しかし彼女にとっては、原付にはねられたかと錯覚するほどの衝撃だった。

(次はオレのば――)



「……く・ら・い・や・が・れっ!」


 玲那は緑の腕を空中で掴むと、間髪入れずにドロップキックを繰り出した。着地を考えない、全体重を乗せた技を。攻撃をする隙も、休む暇をも与えぬ追撃として。緑のガラ空きだった腹部へ、カウンター気味にクリーンヒット!


(……ぅ……こらえ!)

 思わず緑は顔を歪ませてしまう。直後、その顔を視認できないほどのスピードで神木へ叩きつけられたのだ。




「ふぅっ! ハァ…………。あのガキ、百八十あるオレを軽く吹き飛ばしただと……? 一瞬、鳥みたいに羽ばたきやがって……!」


 緑は背中を強打しながらも、かろうじて。かろうじてだが、受け身を取った。体の節々がミシミシ悲鳴をあげるほど、木に直撃したにもかかわらず。ここでも掌枯れの謎を解くことにリソースを使い、苦痛を意に介していないのである。

 緑は幹にもたれかかりながら、思考を巡らせていく。



(加速を操る……ってか。オレへの攻撃は力押しでなく、吹き飛ばされたカタチに近いな。……そしてもう一つ、ヤツの行動が不可解だ。……なぜ初動で高く飛ばない?)


 無条件で加速させられるならば、自身の跳躍力を上げるはずだ。高所からのカカト落としをされていたら、一撃で倒れていたに違いない。油断を誘うにしては、平行移動は無駄が多すぎる……と。

 違和感を払拭できない緑の目に、三枚の木の葉が映った。

「うん……?」



 みずみずしい緑色がそよ風に吹かれる。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。予測不可能な軌道を描いて落ちる。

 緑は無意識のうちに釘付けになった。いくら超人の彼女でも、ヒトの本能には逆らえなくて。


(いけない、いけねぇ……。動きに過敏になってるな)

 彼女が落ちてきた葉を拾い上げる。


(そりゃあ落ちるよ、なっ――)



「いっ…………!」


 何かが手の甲を切り裂いた。表面に一本筋ができ、傷口を塞ぐように血が滲み出る。緑は目に見えて動揺はしていない。だがほんの一瞬、瞳孔が開いた。

(空気抵抗を無視して……加速したな!)

 彼女は血液が滴り落ちる先を見る。地面に出来た鮮紅色の水たまり――中には一枚のサワラの葉が。




「いつもいっつも見下ろしやがって……。そーいうヤツは猿かに合戦の短足のように……ナジられてるのがお似合いだなぁ!」


 緑の遥か頭上から、甲高い声が聞こえてきた。彼女は後頭部で声の主を睨み、左目の端から眼球の中心へ照準を合わせる。

 そこには神木の力枝に座る玲那の姿が。敷石を片手で遊ばせながら、いじめっ子のような悪い笑みをニタリと浮かべていたのだ。地理的な有利さに胡坐をかいている様子で。


(木の葉はフェイク! マシンガンのように降り注ぐってか……?)

 緑の考察が正しいならば、石のブロックが持つ恐怖など容易に想像できる。しかも剥がされた石畳だ。青柿とは比にならない破壊力であろう。



(だが、あまい……。ハナから石を投げつけないところが!)


 緑は無言で、これでもかというくらい睨みを利かせた。恫喝には気持ちの弱さが表れる。反対に余裕を見せすぎると、かえって集中がそがれてしまう。相手が勝ち誇っているほど焦ってはいけない……。屠顔人としての鉄則である。

 玲那が手を振り上げた瞬間、緑は幹に手を当てた。




「あぁ……

 まじないに呼応するかのように、玲那の座る枝が揺れ始めた。木の中心から破裂音が響きながら。枝がたこ足のように玲那を覆いつくし、幹の中心へ引き摺り込もうとする。



「なんだ? 地震か!?」


 彼女には何が起こっているのかが理解できない。手足を封じられ、身動きも取れない。分かることといえば、一つ確かなことが。少しずつ……落ちていってるのだ。


「おぉとまれ、とまれぇ!」

 枯れ枝の折れる音がする度に、徐々に地面が近づいていく。まるで四階、三階とエレベーターが下がるように。


「とまっ……!」

 幹から地面へ降下した玲那の、動きが急に止まった。まとわりついた枝は離れたが、お尻がスッポリはまっている。ハンモックに腰を下ろしたような体勢で。

 すると大きな影が小さな玲那の体を覆い、半笑いの声が玲那の耳に入ってきたのだ。今一番……聞きたくないであろう声が。




「バカと煙は高いところが好き……落ちた時ほど滑稽なものはないねぇ」


 緑は玲那の左手首を引っ張り上げた。縦に引き裂かれた神木に、お尻だけが挟まっていた彼女を救出するため。手の持つ凶器ごと。すっかりジャストフィットしていたもので、お間抜け極まりない姿だった。


「……うるせっ!」

 玲那は悪あがきのように右足で蹴り上げる。耳の先まで真っ赤にしながら。軸を取られて、攻撃自体はうまく当たらなかったが。



「よっこいせっ」

 緑はそのまま両手首と右足を掴み、頭の上で拘束させる。タックル気味に木へ押しつけながら。玲那の柔軟性も相まって、その姿は前後開脚――よりもI字バランスに近い。緑はゆっくりと玲那に顔を近づけた。

(これでは……反撃もできまいよ)

 だが玲那は不敵な笑みを浮かべている。器用にも、右足の指で緑の制服の胸ぐらをつかんだ。



「……何かやったな?」


 玲那の返答の代わりに、何かが空を切る音が聞こえる。緑は右足での挑発について勘繰った。玲那の態度は怒るに値しない。それよりも心境の変に全神経を動員するべし、と。


(キレイにケアされている素足だな……。赤いマニキュアで。靴下を履かないのはハチゼロ世代に忠実……)

 何かがオカシイのだが、長考している暇はなさそうで。緑はほぼ反射のように、玲那から手を離して後ろへ身を引く……。



 直後、緑の顔前で玲那の靴が通り過ぎた。コインを使う催眠術のように、その軌跡を目で追う。回避できたのはもはや奇跡だ。

「っぶねぇ……」

 ゼロコンマ一秒遅れたら、脳天がつぶれていただろう。破壊力にゾッとするほど、ローファーのつま先が地面に深く突き刺さっていたのだ。

 幸いなことに、緑にケガはなかった。制服の胸部からベルトまでを軽く切り裂いただけで。



「運がいい……やはり近づくことはナシ!」


 玲那は傘を拾い上げると、片足で数十メートル後方へ遠ざかる。ケン、ケンと音が聞こえてくるような。コミカルなステップで。十分なほど距離を取ると、先ほどの敷石を投げつけたのだ。




(タネは割れた。ニュートンもビックリ……おそらく落下速度を操っている)


 緑は相手の能力への仮説を立てた。ノータイムで投げられたブロック石を視認しながらも冷静に。

 普通の思考回路ならば、避けるため距離を取ろうとするだろう。だが緑は違う。

(あえて……走り抜ける!)

 なんと投げられた凶器へ向かって走り出したのだ。玲那から目を離さずに。



「おっしゃぁい!」


 敷石が頭上を通過する直前、緑は頭から危険なスライディングをした。いくら落下速度を操るといっても、動く相手にはそうそう当たらない……と。


(この行動により、凶器を完璧に回避できる……って思ってんだろな)

 玲那は不敵な笑みを浮かべた。




「いやぁ、ここまで読み通りだと……。法の手足として動くヤツは、――頭が固くていけねぇや」


 緑の上を通り過ぎた……かと思いきや。石の落下が急激に早まったのだ。何倍、何十倍と真下に向かって力がかけられたようで。残像が見えるほど高速で落ちて――。



「ひぎぃっ……」

 緑は避けられなかった。石が左ふくらはぎにめりこむ。大きなクレーターができてしまった。筋肉だけでなく、骨にまで達している様子で。有機物のあった場所が無機物によって差し替えられ、赤黒い血液が流れ落ちる。


「ぐうっ!」

 彼女は苦痛をひた隠しにするように唇を噛み切る。

 その顔を見た玲那はご満悦。だが勝利の雄たけびをするにはまだ早いと、カミソリの刃を大量に投げ飛ばした。念には念を入れて。それでもなお、緑は膝立ちのまま動かない。

「もう観念したかぁ――」 



「よく考えたら……走るのって煩わしいよなぁ……。原始人みたいに腿上げして、ブッサイクな鳥を追い回して……。君のおかげでもう走らずに済んだよ。狩りハントにはこの手で十分なのだから」


 緑は独り言とともに、右手で何かを持ち上げた。細長い、ひも状の何か。玲那が目を凝らすと……。


「……なんだ、木の根っこ?」

 突如、玲那の後方にある複数の木が根上がりを起こした。地面から飛び出し、緑の持つ根まで伸びているようで。玲那はその不気味な樹形に身震いを起こす。



(落ち着け……! アイツは機動力を失っている……。逆転は天地がひっくり返ってもありえねぇ!)


 自身を奮い起こした玲那は、空中で待機させていたカミソリの刃を加速させた。すると緑はその場から忽然と消えたのだ……。



「どこだぁ! 結局は隠れるのかぁ!」

 逃げたのか。いや、違う。消えるように高速で動いていたのだ。複数の木の根が変幻自在に急成長しながら。しがみつく緑の体を移動させている。前後左右、天地上下……。音速を超える鞭のごとく、目で追うことはもはや不可能だった。



「こうなったら、数うちゃだ!」


 玲那は風切り音から急接近に気づき、自身の上に数本の彫刻刀をばら撒く。しかし一枚上手だったのは、緑の方だった。一早く玲那にタックルした彼女は凶器の降る雨に濡れないよう、傘がわりの盾にしたのだ。彫刻刀が落下を始める前に。



「掌枯れを解除しねぇと、死ぬのは……。聡明なおまえさんならわかるはず」


 緑が耳元で囁くと、玲那は目に見えてオロオロしだす。これでは戦闘の継続はできそうもない。勝利は確定……と緑はため息をついた。


「……アタシが終われば、夕雅の敵を討てねぇ!」

 突然、玲那の目つきが変わる。目が覚めたように。それとともに先ほどまでスローで落ちていた彫刻刀が、高速で降下を始めたのだ。葉っぱや石畳とは比べ物にならない。矢のような速度で。



「このままオレごとぶち抜くってかぁ?」


 緑は言葉では余裕を持たせていたが、内心では二択を迫られていた。


(手を離すか、ホールドしたままか……)

 今の緑に玲那を殺す理由はない。緑は玲那から手を離し、地面を蹴って距離を取った。しかし彫刻刀は減速することなく。玲那へ向かうのだ。


「このままだと死ぬぞ!」

 玲那は目をつぶり、彫刻刀のシャワーを浴びる。緑の叫びを意に介していないように。このまま串刺しの完成……かと思いきや。彼女の横スレスレを通り抜け、かすり傷さえも負わなかった。



「アタシの狙い……聡明なら騙されんなよ」


 玲那の狙いは完了した。彫刻刀が神木から伸びる根を……全て切ったのだ。緑にとって生命線の。彼女は決して油断していたわけではない。光の筋ができるほどの超スピードに、回避させる余地がなかったのだ。



(足での着地は……ちとマズイ)


 緑は木の根を足代わりにしていた。それがなくなった今、命綱が切れたバンジージャンプのように地面へ落下する。当然の摂理である。

(ガマ……ん……?)

 緑は地面に付かなかった。確かに体感時間は長いように感じるが。一秒、二秒と。現実時間が何秒経とうが、足が付かないのだ。




「人間が地面から離れると、風呂を怖がる犬ころのように……。『たかいたかい』された赤んぼのよーにジタバタする! これほど滑稽なものはないねぇ」


 玲那は悪い笑みが浮かび、緑を見つめる。間抜けな姿をしているのはおまえの方だと。

 玲那は触れたモノの落下速度を自在に操ることができる。彼女の掌枯れ――俗称「落ちることを知れ!ハウ・トゥ・フォール」! 緑の自由落下によって、能力が発動したのだ。



「おーおー、そうだ……。母なる大地に生まれ落ちた赤んぼよ……。|知りなさい、落ちることを」


(ぐぉぉぉぉ!!!)

 緑は数倍の重力がかけられたかのように感じる。実際には一秒にも満たない。だが全身が地面に引き寄せられるように重くなる。超高速で落とされた緑……の末路。地上では目を覆いたくなるような、砕け散る鈍い音が響き渡った。

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