第5話:滑り転げてろよ、お前だけ
「ごめんなさい……失礼します!」
心は悲佐田の上着を脱がすと、うなじの傷を確認した。皮膚が切り裂かれている。だが見た目の割に傷は浅い。精神的ショックで気を失っているだけであり、命に別条はないのだ。
「……ぶねぇ……」
胸をなでおろした心は、悲佐田の背中に手を置きながらハンカチを取り出した。
「アークぅ……いやぁ、なし」
心はハンカチを傷口に押し当てる。基本的な応急処置、直接圧迫止血法だ。すると布は赤く染まることなく皮膚へ沈み込み、薄い膜が張るように融合したのである。「アーク・オブ・ラヴ」によって、出血がおさまるオマケ付きで。
「……すぐに保健室に連れていきますからね!」
(やはり……すぐ動き出せるのはさすがね)
手際よく介抱する心を見守りつつ、莉花は立ち留まっていた。ただ呆然としていたわけではない。固まって動くのは危険だと判断したからである。
(加害者はまだ近くに――きたっ!)
……彼女の背中に、鋭い殺意が当てられた。
「これで全員かしら……? 私を嗅ぎまわっているやつらは……」
探偵たちが振り返ると、そこには部活帰りであろう瑠離の姿が。全ての感情を失ったように虚ろな目をしており、テニスラケットを握る手は力無く垂れ下がっていたのだ。心神喪失……どう見てもまともとは思えない。
「……悲佐田をかえして」
「……ここは私が引き付けるわ」
莉花が心たちに霧をまとわせ、背景と同化させる。
♢♢♢
「……これが君の掌枯——」
「そんなことはどうでもいいわ。なぜ彼女を傷つけたの?」
瑠離の言葉を遮るように、莉花は語気を強めた。友を平然と傷つける神経が、全く信じられないと。
「フッ……」
一方、瑠離は気だるそうな態度を崩さなかった。何が起こり、何を言われても、心に響いておらず。もはや優等生だった頃の面影は一切ないのだ。
「君には分からないでしょうね……。掌枯れを使って自由気ままに生きる——君たちには。……でもね、私は苦痛でしかなかった!」
(私も……苦しいわよ!)
天を仰ぎながら独白するターゲットに、莉花は無言を貫く。軽く両の拳を握り、その一挙一動に目を光らせながら。瑠離は相手とのテンションの差を感じつつも、大立者のように独り舞台を加速させた。
「私たちには宿命がある。愛煙家がタバコを手放せないように、屠顔人も掌枯れを使わずには生きられない……」
わずかだが、ラケットを握る腕に力が込められた。筋肉の伸縮など、誤差かもしれない。だが動くもの全て——眼球運動にまで警戒していた莉花は、反射的に構えを取ってしまう。こめかみをガードするボクシングの構えを。
「私の正体を知ったひーちゃんは……町のバカどもに死ぬことがマシに思えるほどヒドイ目に合わされるでしょ? 『掌枯れを知る者は皆殺し』……。だったら、私が楽にしてあげようと思ったわけ」
予想外の言葉に、莉花は奥歯を噛み締めた。
「そんなに友人思いなら、私が救ってあげるのに!」
「どうだか……『疑わしきは殺す』。ここの常識でしょ?」
瑠離はかったるそうに目をそらすと、ポケットからキリを取り出した。持ち手ではなく、金属部分を握りしめて。すると力を失ったように膝から崩れ落ち……床を突き刺し始めたのだ。
「ふッ、私のぉ! はぁッ、能力がぁ! ふッ、分かっているならぁ! はぁっ、はぁ……これが何を意味するか分かるよね?」
一心不乱に穴を開ける瑠離に、莉花はぞっとした。つけられた傷だけではない。ハチの巣と見まがうほどの無数の穴から――明確な殺意を感じたからである。
(これは話が通じない……私を殺す気だわ!)
莉花は両手をクロスさせ、掌から霧を出現させる。周囲が薄く白み掛かり、お互いの視界が不明瞭になった瞬間――
「そんなことして、何になる!」
傷穴が高速で――迫り来る。
(このスピード……タイミングよく飛ぶしかない……)
莉花は半歩だけ後ずさりしてしまう。目視は可能だが、それ以上にリスクが大きすぎる。失敗すれば両足はボロボロ……心臓にまで到達しうる恐れがあるのだ。
「けどね…………華麗に決めさせてもらうわ!!」
「とぉりゃっ!!」
莉花は恐怖心を押し殺し、勢いよく跳びあがった。両足を閉じて、限界まで屈伸しながら。プテラノドンを彷彿させるほど、大きく両手を広げて。
(もっと長くゥ……! もっと空にィ!!)
膝から軽く弾けた音が鳴る。果たして結果は……
「きまっ――」
傷穴が莉花の足元を通り抜けて——
「ぐハぁっ!」
突如、莉花のみぞおちに激痛が走った。ボディブローをモロに食らったと錯覚するほど。ソフトボールか砲丸か……、球体が窪みをえぐったのだ。
「ダメダメ、よそ見なんかしちゃ」
莉花は顔を上げる余裕すらもなくし、地面に蹲ってしまう。すると転がっていく……テニスボールを視界にとらえた。
(なんて……うごけぇな……)
瑠離もまた、ジャストタイミングで攻撃を繰り出していたのだ。回避ができない対空中に。人体の急所を狙った、強烈なスマッシュである。
「くぅぅ……う!」
四つん這いになった莉花は、急いで膝を伸ばそうとする。だが手足が痺れて、体が言うことを聞かない。まるで生まれたての子鹿か。圧痛により呼吸すらもままならないのだ。
「みっともな」
瑠離はラケットを引きずりながら、莉花へ近づく。くたばり損ないのゴキブリのようにうごめく仇敵へと。
「確か害虫は、頭をつぶせばいいんだっけ」
決着の時が刻一刻と迫る。狙いは後頭部……確実に仕留めたいところ。
(ぅごけ…………なっ!)
ここで莉花による決死の反撃が――あるわけでもなかった。
「さよなら」
……ラケットが頭へ振り下ろされた。何かイレギュラーが起きることはなく。誰かが助けに入ることもなく。
変わり果てた莉花はモノになり、音もなく倒れ伏したのだ。
♢♢♢
「……おかしい……手応えがない」
瑠離の攻撃は完璧に命中した。莉花の頭はへこみ、内出血を起こしている。脳ミソもチラリと見えて。しかし当の本人は、攻撃が空振りしたように思えたのだ。頭がカチ割れる音もせず、まるでホログラムを攻撃したような感覚に。
「目に映る物が真実とは限らない……掌枯れを使ったとしか……」
瑠離は目に見えて動揺している。確実なのは、絶対に逃してはいけないこと。自分の秘密が広まってはいけないという気持ちが、焦りを加速させる。
「指紋が残るけど、とりあえず触ってみなきゃ……」
瑠離は呼吸が荒くなりつつ、莉花にそぉっと手を伸ばす——
「危ないわぁ~。かんっぜんに殺しにきてたわね」
なんと莉花の生首が無の空間から現れた。己の亡骸の真上に。瑠離に対して、「しーっ」と唇を尖らせながら。全くの無傷かつ、したり顔で話しかけているのだ。
「おおっと、妖ではないわよ」
亡骸をまとっていた霧が晴れ、生首と胴がつながった。莉花は知らぬ間に、片膝をついて座っている。それとともにダミーの頭が霧散し、帽子へ変化したのだ。
「私の
莉花の掌枯れ――「
「ばぁっ……!」
瑠離は泡を食いつつも、本体の頭へ再度狙いを定める。が……。
「もう、私の時間稼ぎは大丈夫なようね」
「な、なにを!」
瑠離は慌てて周囲を見渡す。敵の発言に踊らされ、もはや正常な判断ができない。これから自分の身に何が降りかかるか、首と腰を可動域の限界まで回していたのだ。
「ぁ……だれ……?」
廊下の奥に、黒い影が目に飛び込む。大きな人型で、縦に長い影が。ゆっくりと近づくソレは、夕焼けに照らされ――。
「菅原先生! どうしてここが!?」
瑠離は狼狽を隠せない。
「君ぃ! 私が屠顔人であることをバラしたね!」
莉花は顔を伏せていた。おまえに答える義理はないと。肩を揺すられ問い詰められても……反応はなし。
「黙ってないで、答えて…………よぉ!」
瑠離は顔を真っ赤にして、さらに強く揺らそうとする。首が折れても構わないとの気迫で。首元に爪が食い込むほど、強く握ったのである。しかし……
「はぁぁっ」
これが無駄な抵抗だと分かると、彼女は次第に体を動かす気力すらも失い……顔を隠すようにうなだれてしまったのだ。
「ここで終わりかぁ。職員会議、全校集会、町内放送……。町中に広まる光景が目に浮かぶ……」
瑠離はぼうぜんと立ち上がると、ハサミをポケットから取り出した。百八十度に広げて、刃の先を首元に突きつける。刃に食い込んだ指から血が滴り落ちても、固く握りしめたままで。
「どこの馬の骨に
その言葉とは裏腹に一瞬だけ――、彼女はためらった。が、すぐさま力を振り絞り、首から頬にかけて深く引き裂いたのだ。
「この死にざぁ……ゴホッ。ぅつくしいでしょっ……」
瑠離の割れた顔から、血飛沫が飛んでいく。まるで儚く散るススキ花火のように。それを見た莉花は床から飛び上がった。
「やめなさい!!」
何をバカなことをしているんだ、と。莉花は激しい剣幕で怒鳴りながら、ハサミを取り上げようとして――
「そう、君は生身で向かってくると思ったよ」
瑠離はハサミを手放し、逆に莉花の手首を捕まえた。今度は決して逃がさないという気概を持って。
「こうなったのは君のせい。私はいずれ死ぬけどね……君が先だ!」
高笑いをする彼女は、赤くべたついた手で切り傷を移動させていく。水を抜くようにゆっくりと。だが着実に。
「もう少し! もう少しで赤い命がぴゅうっと噴き出していくわ!」
瑠離の喉から右肩、二の腕、手の甲……。そして莉花の手へ――
「頸動脈さえ切れれば…………こっちのもんよぉ!!!」
一方、莉花はだんまりを決め込んでいた。首元まで差し掛かろうとも、不敵な笑みを浮かべ続けている。
「な、なによ。もしかして、気ぃでも狂った?」
莉花は落ち着いた表情で口を開く。
「無策で敵へ突っ込むほど……私の頭は錆びてないわ」
莉花は唐突に、「瑠離の身辺資料」を服の中にねじ込み始めたのだ。ただ丸めて入れるのではない。肌の表面を覆うように——ゴミを回収するチリトリのように。徹底して紙端を体になぞらせている。
「傷が平面を移動するなら、
「なにぃ!?」
瑠離はその意図にうっすら勘づいたが、もう手遅れだ。鎖骨から紙へと。見る見るうちに切り傷が移動し……
「この手を止めろぉぉ!!!」
体から傷が消え去ったのである。
「……やられた!」
莉花は掴まれていた左手で瑠離の右手首をつかみ返すと、そのまま背中でハンマーロックをした。無駄な抵抗を二度とさせないように。彼女は瑠離の耳元でささやく。
「あなたの捨て身の覚悟は素晴らしかったわ……。でもね。私の生きる覚悟の方が、
♢♢♢
「くぅっ!」
「………………はぁ」
瑠離は力なく、まなこを閉じた。絶望に耐えられるよう、眉間にシワが集中するほど歯を食いしばりながら。散々悪あがきをした結果、燃え尽きてしまったのだ。
「もう、好きにして……。私の人生は掌枯れに狂わされて…………」
彼女は見ないフリをしていた。屠顔人が幸せに生きることはできないことを。そして今日で確信したのだ。死ぬ前は潔くなるべきだと、策略ではなく本心で考えていたのである。
「……いやぁ、あきらめるには早いんじゃない?」
莉花は瑠離の肩をたたき、正面を向くよう促す。瑠離の目の前には――
「……え、なんで……?」
静かに涙を流す……悲佐田の姿があった。親友の裏切りによって、大きな傷を負った彼女が。
「ここからすでに逃げたはずじゃ……?」
瑠離は口をパクパクさせている。莉花は彼女の拘束を解除し、背中を優しく押した。
「瑠離! ごめん……! そんな苦しい思いをしていたなんて……気づかなかった……」
悲佐田は座り込みながら、瑠離に抱きつく。
「……ひーちゃん、本当に悪いのは全て私よ。本当に……ごめんなさい。一生かけて償います……」
瑠離は大粒の涙を流していた。優しく背中を撫でられて。こんな私の身をまだ案じてくれているのか、と。
「……じゃあずっと一緒に。……勉強を教えてよ! 不正しなくても、完璧を演じなくても、瑠離が誰よりも頭いいことは知ってるんだから!」
瑠離の顔が暗くなる。親友の肩が涙を受け止めてくれているにもかかわらず。
「そうしたい……けど……」
瑠離は恨めしそうに一葵を見つめた……。
「あら、私の『
突然、一葵の姿が光と化して消えていった。影も形も残さずに。
「……ほぇ?」
瑠離は目を丸くした。何が起こったのか、理解ができず。あるはずのものがない、いないはずの人がいた。その落差に、脳の処理が追い付かないのだ。
「あれはブラフよ。先程までのあなたって、一時の感情に振り回される不安定さがあったからね。少しの揺さぶりで……大きくパフォーマンスが落ちると見たの」
ほほ笑みながら二人に歩み寄ると、莉花は話を続けた。
「私のツテに掌枯れを消せる子がいてね。あなたが望むなら……すぐにでも。平穏な日常に戻してあげる」
「ねぇ瑠離! 消してもらおうよ!」
悲佐田の言葉に、瑠離は再び涙を流す。つられて悲佐田もわんわんと泣きじゃくり。力強くうなずく瑠離の瞳には、失われた光が宿っていたのだ。
♢♢♢
――廊下の陰から、心は三人を見つめていた。
「やっぱりあまい……人のコトを信用しすぎ。話の通じないやつだったらどうすんのさ」
心はポケットに手を突っ込みつつ、その場を後にしたのだ。
【戸人 次女:滑石瑠離……除籍】
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