6)カルタゴ軍参謀の証言

 だから言ったのに。

 私は頭を抱えた。ハンニバル将軍は幔幕の中で正体もわからず眠りこけている。連日連夜の大宴会の疲れだ。ここはまだ敵地だというのにまったく。

 あの大勝利の後、ここに野営地を作った。それ以来、ハンニバル将軍は一歩も動かなくなった。

 一番最初に現れたのは近場の地方豪族たちだ。さんざ媚びを売ってから、こちらの陣営の中を舐めるように見て帰っていった。

 続いて商人たちが貢物と野営地での商売の権利を請いに来た。賄賂に気をよくした将軍はさっそくその商人に専売の権利を与えた。お陰でこちらの会計士はてんやわんやだ。補給品を買うためにカルタゴから持って来た金貨が飛ぶように消えていく。

 最後にはもっと遠くの国から使者がやって来るようになったが、それでもハンニバル将軍は一歩もここを動こうとしない。


 いや、動けなかったんだろう。

 アルプス越えで七割の兵が死んだ。どれもカルタゴ関係の国から参加した傭兵たちだ。カルタゴ軍は傭兵制度という形を取ってはいるが、その実体は正規軍に近いものだ。つまりは戦争の度に各部隊が出兵費用を決定する権利を持っているに過ぎないただの軍隊だ。だから戦で兵が死んだ場合はそれなりの慰謝料を払わないといけない。今回の戦では大変な数の兵士が死んだ。ハンニバル将軍は、国に帰れば、彼らの遺族に対する莫大な慰謝料の支払いが待っている。

 傭兵の命は安いものだが、それでも無視できるほど安くはない。少なくとも残された遺族が生きていけるだけは出さないといけない。もしそれを出ししぶったりすれば、二度とまともな兵は集まらない。それはつまりほとんどが傭兵でできているカルタゴ軍がまるごと消滅するということだ。恐らくハンニバル将軍の名前ではもう誰も兵は集まらないだろう。

 故郷のカルタゴ政府が戦死者の遺族に今頃何と言っているのかは想像がつく。ハンニバル将軍が帰って来たら払う、だ。将軍が帰って来るまでは戦死者の正確な情報も判らないし、将軍の財産も支払いの原資として計算しているだろう。

 要は、我々はローマに負けはしなかったが勝ちもしなかったってことだ。いや、死者の数から言えば、こちらの方が被害が大きい。もともとの国の大きさを考えれば、向こうは小指を失い、我々は腕を一本失ったに等しい。

 だが、我々は形ばかりとは言え、ローマ軍には勝ったんだ。だから、ローマ市へ入城して、そこから戦利品を奪えばいい。それで慰謝料を払えばいい。


 そう思うだろ?


 たしかに、普通はそうだ。どこでもそうする。戦争の目的の大部分は戦利品だからな。

 しかし今回の戦は勝ちはしたが、こちらの兵は山越えでボロボロだ。一方、ローマそのものは健在だ。

 兵団という形で都市の外に引っ張りだす兵を集めるのは大変だ。だが、一たび街が襲われるとなれば、戦いを嫌がる人々も家族を守るために否応なしに兵隊になる。おまけにローマという街は、外縁部こそだらしなく広がったただの街だが、街の中心部に近づけば近づくほど城塞都市としての性格を帯びて来る。入り組んだ建物の間の舗装道をバリケードで塞げば、もうそこは立派な城壁の迷路だ。そんなものを前にしては、わずか数万の兵など、あっと言う間に食われてしまう。

 おまけに攻城兵器なんか我々は持って来ていない。いや、持って来ていたとしても、アルプス越えの際に捨ててしまっていただろう。これが土木工事大好きのローマ兵なら、攻城兵器なんかその場でたちまちの内に作り上げてしまっただろうが、あいにく我々はカルタゴ傭兵だ。そんな能力はない。


 一番よくなかったのは、ハンニバル将軍がヌミディア騎兵にローマ市への侵攻を命じたことだ。たしかに元気なのはあいつらだけだったが、そもそも土地勘のない都市へ騎兵を侵入させるなんて自殺行為だ。行き止まりの路地へ誘いこまれて矢を撃たれたら、例え最強の騎兵でさえも何することも無く全滅する。都市攻略に騎兵が使えるものか。

 案の定、ヌミディアの連中、怒って帰ってしまった。

 どこに帰ったかって?

 もちろん、故郷へだ。ハンニバル将軍と来たら、あの大勝利の手柄は騎兵たちの頑張りのお陰なのに、彼らを誉めるどころか命令違反で処罰するなんて言ってしまったものだから、もうヌミディアの連中はかんかんだ。それに輪をかけるかのように今度の命令だ。

 それは切れる。

 絶対に切れる。

 その場でハンニバル将軍が殺されなかったのが不思議なぐらいだ。ああ、もし私が彼らでも同じようにしただろうな。

 あのバカ将軍。本気で今回のカルタゴ大勝は自分のアルプス越えというアイデアのお陰だと思っているんだろうな。ヌミディアの連中を連れて来ていなかったら、全滅だって有りえたのに。

 参ったな。騎兵はいない。歩兵はボロボロ。援軍はない。敵は強大かつ堅牢。もうすぐこちらの食糧は尽きる。一つだけ良い知らせは、まだローマの動きが無いことだけだ。

 ああ、だから、言ったこっちゃない。


 私はここで死ぬんだろうな。そう思う。あの将軍のおかげで。

 でも後世の人々は、将軍のことを名将とか軍神とか稀代の策士とか呼ぶんだろうな。

 一般人は結果しか見ないからな。小国カルタゴが大国ローマに勝利を収めたのはハンニバル将軍の知略のおかげであるとか何とか言って。

 ああ、嫌だ。嫌だ。このまま逃げ出してしまおうか。

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