2)山岳案内人の証言

 だから言ったのに。


 俺はため息をついた。

 ハンニバル様の行列の背後を登って来る小山のような化け物はインド産の象という生き物だ。象は本来は暑い平地に住む生き物だから、それがこんなアルプスの山の上にいるのは異様な光景以外の何物でもない。

 インド象は体の上に形ばかりのボロ切れをかけてもらっているが、そんなものでこの寒さが防げるものか。それ以前に、ここの薄い空気ではあの巨体には厳しすぎる。人間よりももっと、苦しんでいるはずだ。

 高山の病ってやつだ。俺は小さいときからここに住んでいるからもう慣れっこだがな。

 インド象は最初は四十頭ばかりいた。ピレネー山脈を越えるときに十頭が薄い空気と寒さのお陰で死んだ。それに食料不足が加わって、このアルプス越えではとうとう残り五頭にまで減ってしまった。きっとこの山を抜ける頃にはインド象は全部死んでしまっているに違いない。

 この象たちはもの凄く高かったはずだ。象使いも含めるといったいどれだけの金がかかったのだろう。カルタゴって国は海を抑えて金持ちだが、それでも堪ったものじゃないはずだ。

 その値段を思って、俺は心の中で将軍の顔に唾を吐いた。もちろん実際にはそんなことはできないがね。何と言っても俺の雇い主だ。

 それにこの高地では飲み水は貴重なんだ。雪はいくらでもあるが、それを口に含んだりしたら体が冷えて死ぬから駄目だ。貴重な薪を燃やさないと水は作れない。でも薪を使い尽くせば、今度は夜に寒さで死ぬ。

 ぎりぎりの行動原理。残虐な結末。生きるというのはここまで苦しいことなのかと、心の底から感じた。貴重な水だからその涙は自分で飲んだけど。


 ああ、ちくしょう。あのインド象と象使いを雇う金で、代わりに食糧を買っていればもう少しは増しな結果になっていたろうに。いや、それでも駄目だ。どれだけの食料をここまで持ち上げようが山の蛮族に奪われて終わりだ。この辺り一帯はやつらの縄張りなのだから。


 だいたい、ハンニバル将軍は山は素人じゃないか。

 俺は眼下でへばっている将軍様とやらを見つめた。

 だから山にくわしい俺が雇われたのだが、どんな忠告も聞いて貰えないんじゃどうにもならない。たぶん、俺が雇われたのはハンニバル将軍様とやらの考えじゃなくて、他の誰かの提案なんだろう。でなければあの自分は何でも知っていて何でもできると考えている馬鹿将軍が俺を雇う訳がない。

 俺は行く手に待ち構える山脈を睨んだ。それから問題点を一つずつ数え上げた。


 まず食糧が足りない。寒い場所では普通より沢山の食糧が必要となる。だから持てる限りの食糧を集めろと、これは口を酸っぱくして言ったのだが聞いて貰えなかった。ハンニバル将軍は山岳に住む民族から食糧を買えば良いと考えていた節があるが、それは無理な相談というもの。山が平地ほど食糧豊かなら、みんな平地には住まないだろう。彼らは売りたくても売る食料がないんだ。


 次に蛮族たちの問題がある。この山に住む連中はみんな気が荒くて飢えている。そんな彼らの土地に余所者が大軍勢を引き連れて入り込んで来たのだ。これがうまくいくわけがない。

 案の定、襲われた。蛮族はこちらの軍勢に比べれば少数だが、山に慣れている上に、この土地の事を知り尽くしている。それに比べてこちらは山に不慣れな重装歩兵に騎兵だ。蛮族に取っては容易い獲物ということになる。岩陰に隠れて見張り、隊列が手薄になれば襲い、獲物を掻っ攫って素早く山肌を駆けて逃げる。馬は山を走れないし、こちらの人間では山に慣れた奴らには追い付けない。こうなれば、後はもうただ襲撃を延々と繰り返されるだけだ。

 それに対してハンニバル将軍が出した答えが、金を払って蛮族の土地を無事に通行させてもらうという手だ。これが最悪の手だというのは言うまでもない。この山にカモが大金持ってやってきたという噂が広まり、たちまち周辺の山という山から蛮族が押し寄せて来た。普段は敵対している連中までもが手を組んでこの山に不慣れな軍勢をカモにしようというわけだ。

 あらかじめ使節を送っておいてここらの有力な部族と話をつけておけばまだ何とかなったろうが、今となってはもう遅すぎる。


 最後に高地の病の問題がある。空気が薄くて寒いのに慣れていないせいで、象だけでなく多くの兵が病に倒れている。野営所でも作ってしばらく休ませれば何とかなるかも知れないが、そんなことをしていれば蛮族による被害が大きくなるだけだし、何よりもカルタゴ軍のアルプス越えを知ったローマ軍に出動の時間を与えてしまう。


 問題だらけだ。この行軍は。俺は深いため息をついた。山に追い上げられる前にすでに軍勢の二割は死んでいる。この山を越えるまでに、後どれだけの人間が死ぬことになるのやら。だが、ハンニバル将軍は退かないだろう。ここで退却なんかしたら、歴史に将軍の名が何と刻まれることか。

 俺はもう一度、服を体にきつく巻き付けた。これは死んだ兵士からはぎ取ったものじゃないが、他の兵士は皆そうしている。死体剥ぎをやった連中は生き残って、やらなかった連中はすべて死んだ。

 まあどっちみち、それをやったとしても、このままではやがてはみんな死ぬ。

 また一匹、インド象が倒れた。急がなくては。今ならまだ肉の分け前にありつけるかも知れない。

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