その名はハンニバル

のいげる

1)雑用奴隷の証言

 だから言ったのに。

 オラは舌打ちをしながら、眼下の山肌を息も絶え絶えに登って来る連中を見下ろしていた。

 それはみんな、かってはカルタゴの精鋭市民兵だったものだ。それが今は薄い空気に喘ぎながら、ボロボロの服を胸元にかき集めて何とか少しでも寒さを逃れようとしている遭難者の群れに過ぎない。

 兵の半数は餓え、残りの半数は凍え、さらに残りの半数は高山の病にかかっている。それでも背中に担いだ重い武器を手放さないのは立派だ。もっとも今ここで武器を失えば、明日の朝には死体になっているのだから捨てるに捨てられないというのが本音だ。

 今夜もまた山岳民族の襲撃があるだろうとオラは見ていた。物資を満載したカモたちがこんなところにまで登って来るなんて百年に一度あるかどうかのことだ。ヤツらは絶対に諦めない。

 幽鬼の群れの中央で、何とかまだ威厳を取り繕っているのが今回のローマ遠征の指揮を執るカルタゴの司令官ハンニバル・バルカその人だ。

 まあ、彼だけは食い物も服もたっぷりと使えるし、重い物はお付きの兵に持たせているのだから、元気なのも当然と言やあ当然だ。


 オラはそのハンニバル様の父親であるハミルカル・バルカ様の奴隷だ。その前はローマ帝国を中心にあちらこちらを放浪しただよ。奴隷だからご主人さまが死んだりすれば財産として売り飛ばされるのが定めなんだよ。

 中でもモーリア・ネイダ賢者の奴隷であったときは大事にされただよ。ネイダ賢者は色々なことを教えてくれたし、二人で長い間お喋りをしただよ。おかげで軍事に関してはオラの頭はちょっとしたものになっただよ。

 本当のことを言えば、ハミルカル様のブレーンはオラだったよ。旦那様のお世話の最中にちょっと小耳に挟んだ作戦に感想を漏らしてそれが大当たり。最初は余計な口をきく奴隷としてオラを鞭打ちしていたハミルカル様もやがてあらゆる作戦をオラに相談するようになっただ。

 オラの方がずっと頭が賢かったからだよ。


 ハンニバル様が将軍として独立したときにハミルカル様からお付き奴隷としてオラは譲られたんだよ。そしてこのローマ遠征に付いていくことになっただ。

 でもハンニバル様はまだお若い。ハミルカル様のようにオラの言葉には耳を傾けないだよ。ハミルカル様はハンニバル様にうるさく言ったけど、オラを信用しようとは思わなかっただよ。奴隷は奴隷、将軍は将軍、それがあの方の考え方だったよ。

 本当に馬鹿なんだから。ろくに戦いの指揮の経験もないのに、自分が前代未聞の大将軍だと思ってなさる。親父様が大将軍でも子供はただの人なのに、将軍の血が、なんて自分で嘯くのだからオラ心の中で笑ってしまっただよ。もっともその笑いを顔に出したら鞭打ちされるに決まっているから必死で堪えたんだよ。


 街道でローマの軍勢にぶつかったとき、オラの忠告も聞かずにハンニバルの旦那はまっすぐローマ軍にぶつかって行っただよ。背後につき従うカルタゴ兵が旦那は自慢でならなかったんだよ。

 オラは止めたんだけどなあ。

 旦那はローマから遠く離れて行動する精鋭ローマ軍団の強さを知らなかったんだよ。


 いきなりの遭遇戦だから象兵なんか用意する暇はないだよ。

 たちまちにしてカルタゴ兵の二割が死んでハンニバル様は焦っただよ。

 サグントゥム攻城戦のときは敵があまり強くなかったけど、今度の敵はローマ正規軍だからそうはいかねえだよ。敵ごとに力の強さが違うことをハンニバル様は知らなかっただよ。

 二割が死んだら軍隊は終わりなんだよ。

 オラ、すぐにカルタゴに引き返すように言っただど。軍事作戦で最初の計画が崩れたらまずやることは撤退だよ。でもハンニバル様の山より高いプライドがそれを許さなかっただよ。

 オラたちはそのまま逃げる機会を失って軍隊ごと山裾に押し上げられただよ。ローマ軍は深追いせずに、降りてきたらオラたちを殺そうと、陣を引いて待っていただよ。


 そこでハンニバル様がトチ狂っただよ。いきなりオラたちはアルプス山脈を越えねばならないと叫び出しただよ。

 本人は凄い考えを思いついた気分でいたのだけど、オラ分かっただよ。ハンニバル様は敗戦のショックでおかしくなったんだと。相手が強すぎてまたぶつかるのが怖かったんだよ。

 アルプス山脈を誰も越えないのは皆それをやったら死ぬからだよ。ましてや登山の経験もない軍隊ができるわけもない。


 止めたんだけどな。オラ。それで返事の代わりに棒で殴られただよ。

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