第29話 統合失調症の親友がいます(続)
S君との文通が始まって旧交が温まったところで、筆者はこの作品の元になった論文を、郵便で送ってあげた。
(ちなみにS君は、専門学校の非常勤講師を30年続けて最近退職したのだが、スマホはおろかパソコンさえ持っていない、ましてインターネットには縁がないという)。
―ひどいショックを受けました。在学中、「うちの兄は精神病にかかっている」ということは聞いていましたが、その頃は自分も精神病とは関係がなく、そんなに深刻に受けとめていませんでした。しかし今度の論文で、これ程ひどかったのかと驚愕しました‥‥
といった意味の読後感が書いてあった。
そしてその後に、いままで散発的にしか語られなかった自身の病歴が、詳しく書かれていた。
S君の病気が周囲に発覚したのは、修士論文を二年続けて落とされた三年目。
当時の主任教授が、就職口があるからと、子飼いの大学院生を下宿に
郷里から呼ばれた父親と兄に伴われ、主任教授が書いてくれた紹介状を
その精神科医は、「私は診断はしない」と言ったという。
S君が、郷里に帰りたいというと、郷里にある国立病院の医師を紹介してくれたので、退学して帰郷した。
郷里でも入院にはいたらず、通院して薬物療法を受けながら今にいたっているという。
また、統合失調症とははっきり告げられたことはないが、暗黙の了解があったという。
しばらく何もせず家にいて、駅構内の喫茶店に通って読書にふける生活を続けていたが、そのうち、主任教授が夫妻で温泉旅行を口実に来訪した(S君の郷里は有名な温泉町だった)。
そして、(筆者の推測だが)気がとがめたものか、就職に尽力してくれて、専門学校の非常勤講師の口を一つ見つけてくれ、最近までその職にあったという。
入院せずに済んだのは何よりの事だったが、齢の同じくらいの筆者の兄と比較して、どうして軽く済んでいるのかと考えざるをえない。
兄の発病のきっかけも大学入試で一浪したことだし、両者とも進学がスムーズにいかなかったことがストレスになったのは疑えない。違うのは発病時の年齢だが、それにしても兄は重症すぎる。
答えは、S君自身が出してくれた。
ーー私が幸いだったのは、私の母の場合、何の指図もせず、私のしたい放題にさせてくれていたことです。コミュニケーションもとれていたので良かったと思います。
つまり、憶測になるが、S君はせっかく就職に有利な工学部を出ても就職せず、文学部に学士入学した。その時点で通常のコースを外れたと、ご両親は思ったのではないだろうか。
だから、筆者の親のように兄を通常のコースに戻そうと必死になるようなことがなく、それが再燃を防いだと想像されるのだ。
兄にくらべてS君の症状が軽いこと(の一部)は、これで説明できるかもしれない。
けれどももう一つ、そもそもなぜ筆者ではなくS君が発病したのかという、別の疑問が持ち上がってくる。
これは、S君が統合失調症だと初めて聞いた時に、まっさきに浮かび上がった疑問だった。
S君は快活で多弁で体格も小太りだった。口先の議論では人に負けたことがない、という。
それに比べて筆者は陰気で無口で、議論で勝ったためしがない。顔も体つきもモヤシのようだと言われたものだった。
若い頃は「生きづらいだろうね」「それでよく生きて来たね」などと、半分憐れみの言葉を掛けられることもあった。中年になってからの職場の大規模なトラブルの時にも、同僚に「気が狂わないのがふしぎだよ」などと言われたことがある。
もし、学生のころのS君と筆者を精神科医がならべて観察する機会があったとして、その精神科医に「どちらかが統合失調症になるとして、どっちだと思いますか」と質問したとしたら、ほぼ百パーセント筆者の方を指したに違いないと思われるのだ。
第27話でも挙げたが、「控えめ・内気・おとなしい人や神経質な部分と無頓着な部分を持ち合わせている人、人からの言動等に傷つきやすいといった性格の人、人とコミュニケーションが苦手な人」が病前性格ということになっているのだから。
この問いはひとまず棚上げにして、S君の話を締めくくっておこう。
最後の手紙では、かかっている国立の病院外来では、医学部を出たばかりのような精神科医が多く、それも3年ぐらいで転勤になってしまう。みんな、昔からの薬を出してくれて、あまり会話もなく、生活に話をつっこんでくるようなこともなかった。
ところが昨年来た若い男性の精神科医は、一見親切そうだが、いままでの薬を止めて新しい薬を処方するようになった。副作用はひどくないが、手先がふるえて文字を書きにくいので、元の薬に戻してくれと頼んだが、一粒を半分に割り、一日半錠ということになった。今は、転勤をまつのみだという。
そんな手紙を貰って8カ月が過ぎた。返事を出したが、筆まめなS君には珍しく、なかなか次の便がこない。
親の遺してくれた家に長い間ひとり住んで、健康状態が悪化したのかもと、案じている。
何といっても、手紙とはいえこんな話のできる友人は、S君しかいないのだから。
「少しでも良いことがありますように。」という、祈りにも似た手紙の最後の言葉が、印象に残っている。
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