第2話 推測と検討

 それから、めるこに話を聞いてみたが、大した情報は増えなかった。


 8月13日の夜、彼は私の実家の最寄り駅、そこからほど近い交差点で事故死した。持ち物は財布と絵本。どこへ行こうとしていたのか、あるいはどこからの帰りだったのかはわからない。ただ、事故現場は、普段彼が立ち寄るような地域ではなかったらしい。


「うーん……あの辺りは一番の繁華街だから、目的地は絞れないね……飲食だろうがアパレルだろうが百貨店だろうが、ほんとになんでもあるし」

「なんでそんなとこに実家なんか……もっと辺鄙だったらわかりやすかったのに」

「人んちの立地にまで文句言わないでよ。とにかくあの日、彼はあの絵本を持ち歩く必要があった。絵本であればなんでもいい、というわけでもない。だって、めるこさんの絵本は持っていかなかったんだから。どうしても『あの絵本』でなければならなかった」

「だからそれは、アンタの実家の住所を知りたかったとか、流星群の日だから思い出がどうとか、そういうことじゃないの?」

「仮に私が浮気相手なら、わざわざ絵本に書かれた住所なんか見なくても、直接私に聞けばいいじゃない。それにもし流星群が重要なら、あんな明るい繁華街には向かわない」

「む……じゃあなんでよ。あんな子供向けの本、大人が持ち歩く理由なんかない。大きいし、かさばるし、邪魔なだけじゃん」

「そこだよね……絵本を持って歩く理由……本だから、まずは『自分が読む』ってのが思い付くけど」


 そう言うと、めるこは顎に指先を押し当てて考え込んだ。


「違うと思う。智くんは実家暮らしだったけど、自分の部屋があった。智くんの家族は読書の邪魔なんかしない。普通に家で読めばいいだけだよ」

「でもあなたなら、構ってほしさに邪魔するんじゃないの」

「うっ……でも、智くんならあたしの邪魔が嫌でこっそり外に出るなんてしない! 誠実にあたしを説得するはずだもん!」

「まあ、めるこさんが言うならそうなんだろうね」

 ふむ、と息をつく。それなら、別の仮説を立てるまでだ。

「なら、誰かに読ませるため、とか」

「誰か?」

「そう。その夜、彼は誰かと会って、その絵本を見せる、あるいは渡す予定だったの」


 めるこが眉をひそめる。


「それも、なんか変だよ。智くんが死んじゃったのは日曜日だった。お仕事はない。プライベートで、夜に会って、絵本を読むような相手でしょ? それくらい仲良かったら、普通は名乗り出ない?」

「なるほどね。あの夜、彼と会う予定だったとか、絵本についての心当たりがあったとか……葬儀のときやその後、誰かからそういう話は聞いてないの?」

「ない。あたしも、智くんの家族も、誰もなにも聞いてない」

「うーん……」


 というかこの子、彼の家族とはわりと良い関係を築いているようだ。彼がこんなことにならなければ、結婚して平和な家庭を築いたかもしれない。そう思うと、かすかに胸が痛んだ。


「自分で読むためでも、誰かに読ませるためでもないとなると……考えられるのはひとつかな」

「えっ、まだあるの?」


 私はうなずく。人差し指をぴっと立てて、言った。


「絵本の内容を、どこか特定の場所で、実際に見て確認する必要があった」

「目の前のなにかと見比べたかった、ってこと?」

「そう。めるこさん、今その絵本持ってる?」


 めるこが頷く。


「内容が思い出せないの。中が見たいんだけど、いい?」

「……うん」


 めるこはかすかにくちびるを噛むと、持っていた大きなショッパーから、ごそりとビジネストートを取り出した。黒いトートバッグを開くと、少し艶のあるネイビーの裏地が見える。中はほとんど空っぽで、男物の財布と本しか入っていなかった。


「……このバッグ、智くんの家族に譲ってもらったの。血で汚れてたけど、一生懸命洗って、ずっと大事に使おうって……」

「……」


 健気だ。思わずぐっと来てしまった。

 めるこは鞄から本を取り出すと、私との間に並べた。


 タイトルは『よぞらのしたに』。かなり細長い縦型の絵本で、表紙は三日月と流れ星と、赤い傘を差した女の子の絵だ。一方の裏表紙には深い夜空だけが描かれている。


「開けていい?」と問うと、めるこが頷いた。


 細い長方形の短辺が綴じてあり、縦に開く形だ。主人公の女の子が、魔法の傘の力を使い、流星とおしゃべりしながら夜空を流れ落ちていく様子が少し切ない物語で描かれている。上から下に視線を移動させると流星が落ちてゆきストーリーが進む、という構図がうまい。


 ストーリーを読み進めながら、めるこがぽつりとつぶやいた。


「……なんだ。わりといい絵本じゃん」

「読んでなかったの?」

「ちらっとしか見てない。だって智くん、これ持って死んでたんだよ。知らない女の名前と住所が書いてあって、実際、そこの近くの交差点で……読む気になんか、ならないよ」

「……そうだね。ごめん」


 小声で謝罪する。めるこは無言で首を左右に振った。


 開いた絵本を間に挟み、私とめるこはその内容を確認していく。キーワードになる単語、あるいは、現実とリンクする風景。そんなものがないかと目を皿のようにして読み進めた。


「この時計台は? 駅前とか、どこかの広場とか」

「そんなのがあったら、待ち合わせの目印になってるはず。あたしが知らないってことは、あの近くにはない」

「じゃあ、この『星のように降る春の花』は? 桜のことだと思うけど」

「あんな人通り多いとこに桜なんか植えたら、虫つくじゃん」

「それもそうか……なら、この丘の上から街を見下ろす構図はどう? 汎用性高いと思うけど」

「もしかしてお姉さん、実家ぜんぜん帰ってない? あの辺、すごい平地だよ。丘どころか、坂すらないって」

「あー……」


 駄目だ。まったく現実との関連が見つからない。


 彼が写真やテキストではなく、絵本の実物を持っていった以上、事故現場の近辺に絵本と呼応する場所があるはずなのだ。

 しかしいくら絵本をめくっても、現実と重なるような場所は見つからない。


 めるこの言う通り、彼が亡くなった付近は広い平地の繁華街で、商業施設の建物以外に高いものは存在しない。しかしこの絵本はといえば、とにかく上下の高低差を強調した作りなのだ。


 流星が落ちる、というテーマのせいだろう。1リットルの牛乳パックのような細長い本を、さらに縦に開いているため、読書というよりは長い短冊を読んでいる風情に近い。描かれた絵も、どこかを見下ろす構図だとか、タワーや煙突、時計台といった高低差を生かしたアイテムばかりが登場する。これでは、あの繁華街との繋がりを見つけるのは難しいだろう。


(でも、きっとなにかあるはずだ)


 ストリートビューを駆使して彼の事故現場付近を巡回していると、めるこがぽつりと呟いた。


「最後のページに貼ってるの、お姉さんの名前と住所だよね」

「え? ああ。幼稚園のときに買ってもらった本だから、親が念のために貼ったんじゃないかな。大好きな本で、中学に上がってもずっと大事に持ってたから」

「そんな本をあげたの?」

「まあそれは、その……色々ありまして」

「なに、いろいろって」


 ぐっ、とめるこが身を乗り出してくる。私は躊躇したが、めるこの視線の圧に負けて──というか、ごまかしの文句を考えるのが面倒になって、白状した。


「うーんと……自分にとって特別大事なものをプレゼントする、ってこと自体にロマンを感じてたのもあるし……それに、ええと……もしかしたら、絵本を読んだ彼が『ペルセウス座流星群を一緒に見ませんか』って誘ってくれるかな、って期待をですね……」

「え? なにそれ」


 きょとん、とするめるこ。目元がじわじわ熱くなる。


「だからその、自分からデートに誘う勇気が、出なくて……」

「それで、絵本? 智くんが絵本を読んで、たまたま流星群の良さに目覚めて、タイミングよくお姉さんを誘ってくれるのを期待して?」

「……そうです……」

「えっ、回りくどすぎない?」

「やめてよ自分でもわかってるってば! だってしょうがないでしょ⁉ 誘うのも恥ずかしかったし断られるのが怖かったの! 中学生の自意識なめんな!」


 羞恥のあまりわっ、と叫ぶ私に、もっと色々言ってくるかと思ったのに。めるこはただ「ふーん」と小さく呟くだけだった。


「めるこさん……?」


 呼びかける。めるこはどこか遠い目をして、長い睫毛を伏せていた。グラデーションリップのくちびるから、とても小さな声がする。


「ううん。なんか、智くんって、そういう世界で育ったんだな、って……」

「そういう?」

「なんていうか、普通の世界? お姉さんとか、智くんが生きてるみたいな、子供のときに絵本を買ってもらったり、好きな人をうまくデートに誘えなかったり、みたいな……純粋な世界? っていうの? いいなあって」


 にこり、とめるこが微笑んだ。眉が少しだけ下がっていた。

 ぐっ、と喉が詰まる。うまく返事ができなかった。


 黙り込んでいる私をよそに、めるこは指先を伸ばして、そっと絵本の星を撫でる。


「流れ星に願いをかけるっていうけどさ。あたしの願い事は、智くんが叶えてくれるはずだったんだよ」

「願い事……?」

「『好きな人と結婚して、幸せな家庭がほしい』」

「……っ」

「でも智くん、あたしがもう少し大人になるまで待とうねって、そればっかり。めるこだってもう19なのに」


 きゅっ、とめるこがくちびるを引き結んだ。


「そりゃ、智くんの立場もあるから我慢したよ。でも、こんなことになるなら……もうちょっと、我儘言っておけばよかったかな、なんてね」

「……そう」


 静かに微笑むめるこの横顔。それに対して、あまりにもつまらない、月並みな私の相槌。本当はもっと言えることがあるはずなのに。けれど今の私に言えることなど、こんな相槌以外、ひとつもありはしなかった。


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