不思議なお面




 その日の昼間、翼妃はある事実に気付いた。


 ――白龍と買った面を付けていると、周囲の人間に存在を気付かれない。


 白龍に買ってもらったものを部屋にある壺の奥にずっと隠していた翼妃は、柊水や屋敷の者がいない時間帯を狙ってこっそり手毬などの玩具を取り出し遊んだ。


 主に絹や紐などの素材を用いて繊細な手縫いで作られたであろう紅色の手毬は、装飾も拘られていてお気に入りだった。勿体なくて外では使えなかったが、時折壺から取り出して眺めるのが好きだった。


 試しに他のものも並べてみようとお面も出した翼妃は、そう言えばこれを付けて屋敷の者に話しかけろと白龍に言われたことを思い出し、面を付けて通りすがりの使用人に声をかけてみた。使用人は無反応だった。


 いつもは無視してくるにしてもこちらを一瞥して不快そうに眉を寄せるのに、完全に翼妃の存在が見えていないような様子だった。他の使用人にも話しかけたが同様だった。


 翼妃は嬉しくなり、お面を付けて普段は行けない屋敷の様々な場所を探索した。茶室や書斎、座敷、台所まで初めて見ることができた。その広さはおそらく一般の家――翼妃が昔住んでいた家の数倍はあり、この屋敷の豪華さを思い知らされた。そもそも翼妃のいた集落にある家には、茶室も書斎もなかった。神鎮の家系は、庶民よりも文化的な生活をしているのだろう。



「いい加減あの忌み子の鍛錬は我々にお任せ下さい」



 面を付けたまま廊下を歩いていると、ある部屋の中から“忌み子”という単語が聞こえてきたため思わず立ち止まる。襖が少し開いていたのでこっそりとその隙間から中を覗き込んだ。この面を付けている限り、襖を動かさなければこちらの存在には気付かれないはずだ。


 中に居るのは昔翼妃の鍛錬を担当していたこの屋敷の神鎮の一人と、柊水だった。もう一人の神鎮は柊水よりも三十歳は年上だろう。しかし、柊水は年上相手でも物怖じしない様子だ。少しも姿勢を正さずに体を倒して寛いでいる。



「お前、しつこいね。そんなに翼妃ちゃんを殺すのが好き? 酔狂なやつ」

「貴方様は次期ご当主です。あのような下劣な者のお相手をする必要はない」

「下劣? 翼妃ちゃんが?」



 柊水が薄く笑ってゆっくりと問いかけると、もう一人の神鎮が青ざめぐっと黙り込んだ。何十歳も年上の大人の人が柊水に怯える様子は何だか不思議に思えた。



「翼妃ちゃんを下劣だと言っていいのも、踏み躙っていいのも、あの心を手折っていいのも、僕だけだよ」

「っしかし! 貴方がしているのは“鍛錬”ではない! 我々は忌み子の力を確認するため定期的に鍛錬をしなければならないのです。これは神に捧げる儀式です。歴史的に見ても行われてきたことです。それは柊水様だってご存知のはずです。このような生温いことを続けていて龍神様がお怒りになったらどうするのですか。死なない程度の暴力を鍛錬とは言いません」

「翼妃ちゃんを傷付ければいいんでしょ。一応儀式の形にはなっているはずだよ」



 いつしか柊水が行うようになった鍛錬。あれは神鎮たちの間で意図的に決めたことではなく、柊水が無理を言って行っていたことのようだ。



(……何なの?)



 翼妃は不審に思った。そこまでして翼妃を自らの手で苦しめたいのか、それとも――。


 考え込んでいたその時、ふと柊水の二つの眼がゆっくりとこちらに向けられる。ぞくりと寒気が走った。



「――そこに誰か居るの?」



 気付かれた。神鎮の誰も気付かなかった翼妃の存在に彼だけが気付いた。翼妃の指先が震える。


 もう一人の神鎮も翼妃の方を見てくるが、難しい顔をしてまた柊水に向き直る。



「誰もいないではありませんか。話を逸らすのはおやめください」



 やはり他には見えていない。翼妃は急いで走り出し、その部屋から遠ざかった。


 翼妃の姿が完全に見えていたわけではないだろうが、気配は感じ取られたのだ。柊水は他の神鎮よりも優れている。だからこそ次期当主なのだ。その事実をこんな場面で思い知らされるとは思わなかった。


 このお面も万能ではない。柊水には気を付けなければならないと翼妃は思う。




 ◆



 その後、翼妃は蔵で管理されている古い書物をこっそりと持ち出し、部屋で読み漁った。復讐をすると言っても異能力を持つ神鎮たちに自分一人で太刀打ちできるとは思えない。神鎮の弱点を焙り出すため、復讐のための手掛かりを得るため、隅から隅まで書物に目を通した。柊水には頑なに廻神家の歴史や龍神のことについて知ろうとすることを許されていなかったため、翼妃にとってはどれも新鮮な情報だった。



 庭の川の音が聞こえる畳の部屋で夜遅くまで灯りをつけて書物を読んでいた翼妃は、外から足音がしたのに気付いて振り返る。


 卯の花色の着物を着た月白の髪の男性が月明かりに照らされている――白龍だった。



「こんばんは。月の綺麗な夜だな」



 翼妃は書物を閉じて立ち上がり、とたとたと移動して白龍を迎えた。二人で庭を眺める形で並んで縁側に座る。



「早速会いに来てくれたの?」

「お前が会いたいと言うからな」



 いつの間にか翼妃にとって白龍が亡くなった兄の代わりのような存在になっていた。屋敷の人間にどんなに酷いことをされても、白龍と話せると思うと耐えられた。



「白龍、このお面凄いね」

「気に入ったか?」

「うん。神様は何でもできるんだね」

「“何でも”は少し違うな。あまりうつつには積極的に干渉できない。俺にできるのは、物や人に力を与えたり、自然を動かしたり、生死を操作したりすることだけだ」

「十分凄いと思うけど……」



 目の前に居る美しい男性がそのような強大な力を持っているという実感が湧かない。しかし、生死を操作できるということは……と、翼妃はふと良からぬ希望を抱いてしまった。



「――白龍は、その気になればこの屋敷の神鎮たちを殺せるってこと?」



 そう口にすると、白龍との間で長い沈黙が走った。翼妃は遅れてはっとした。自分は何を言っているのだと。



「……ごめんなさい。何でもない」



 発言を撤回して俯いた翼妃の隣で、白龍がようやく口を開く。



「神鎮と神は古来より契約を結び、協力し合って生きてきた。神鎮の家系の者に手を出すことは如何なる神にも許されていない。神鎮の家系の者たちは、我々が唯一生命を脅かすことのできない人間だ」

「……」



 それを残念に思った自分と、いつの間にかこんなにも廻神家への憎悪が蓄積していた自分に驚いた。翼妃はこんなにも他人を憎んでいる自分が醜いように感じ、そんな姿を少しでも白龍に見せてしまったことを恥ずかしく思った。



「……今日は、もう寝る」

「一緒に寝るか?」



 立ち上がろうとした翼妃の手首を掴み、白龍が甘く囁いてくる。白龍が急に触れてきたことに何故か動揺してしまった翼妃は、慌ててその手を振り払った。



「大丈夫だよ。一人で眠れないほど子供じゃない」



 まだ小さな体の翼妃がそんなことを言うのが可笑しかったのか、白龍はくっくっと喉を鳴らして笑った。



「では、お前が眠りにつくまでは傍に居てやろう」



 そしてそう言って、部屋の中にある布団に入った翼妃の横に座り直した。


 実を言うと、昨日あの悪夢を見たせいで翼妃は少しだけ眠るのが怖かった。また無意識のうちに奥宮まで歩いていってしまうのではないかという不安があった。そんな翼妃の気持ちを全て見透かすように、白龍は躊躇いなく傍にいることを提案してくれたのだ。


 布団の横のちゃぶ台の上に置かれた書物に気付いた白龍が問いかけてくる。



「何を読んでいたのだ」

「白龍についてのことだよ」

「俺?」

「この神社の起源とか調べてた」



 ふと書物の内容を思い出す。そうだ、白龍なら知っているはずだ、と。



 ――白龍、黒龍ってどんな龍だった?



 しかし、口を開くまではいいが、何故かその問いを言葉にできなかった。“黒龍”という名を出そうとすれば息が詰まるような心地がした。翼妃は黙り込み、白龍に其の質問を投げかけるのはやめにすることにした。



 それを聞けば、自分と白龍の間の何かが変わってしまう気がして。







 目を覚ますと白龍は消えていた。悪夢は見なかった。


 朝の光が障子越しに入ってくる。目を擦りながら布団から起き上がり、ふとちゃぶ台の上に書物を置きっぱなしであることに気付いた。面を被り、慌てて蔵に戻しに行く。屋敷の使用人に見つかっては大変だ。


 蔵は変わらず錠がかけられていなかった。見回りの者がここまでは来ていないのだ。長い間放置されているのだろう。こっそり持ち出した書物を元の場所に戻して戸を閉めた。


 庭園の中の石組みの小径を歩いて部屋へ戻る。草花の香りと風の爽やかさが心地よく、朝露に濡れた草地がまるで緑色の宝石のように輝いている。遠くには山々の輪郭が見える良い朝だった。



 履物を脱いで屋敷に上がり、自室の襖を開けた時――中に既に誰かが居た。


 そろそろ面を外そうと紐を解いていたところだったので、思わぬ存在に驚いて面を手から落としてしまった。からんと面が床にぶつかる音がする。部屋に風が入り込み、自室の壁に掛けられた掛け軸が揺れる。



 ゆっくりと翼妃を振り返ったその人物は、柊水だった。その前方には割れた壺と散乱した玩具がある。全て白龍と宿場町に行った時に買った物だ。翼妃は絶句した。



「なあに? これ」



 柊水が、不気味な程に優しく笑いかけてくる。硬直していると、柊水が床に散らばった物の一つである手毬を踏み付けた。



「随分と上質な手毬だね。翼妃ちゃんはこんな物を買える身分じゃないでしょう」



 宿場町からの帰り道、白龍に手毬は民の間で身分を誇示する物でもあると聞いた。手毬は装飾が豪華な物ほど高価で、庶民にはなかなか手が出せないのだと。翼妃が選んだ手毬はとても上質だった。外の世界に出たことがなく金銭感覚のない翼妃には分からなかったが、もしかしたら凄く高い買い物だったのかもしれないと後から申し訳なく思っていた。


 貨幣を持たされていないはずの翼妃がそんな物を所持しているのは、柊水からしてみれば明らかに不自然だろう。


 翼妃は思わず柊水の足に飛び付き、無理矢理手毬から足を退かせた。白龍が翼妃のために買ってくれた物だ。粗末に扱ってほしくなかった。――しかしすぐに、深く考えるより先に体が動いてしまったことを後悔した。柊水は翼妃の大事な物ほど奪っていく。この手毬が大事だと悟らせるべきではない。


 おそるおそる柊水を見上げると、柊水は冷たい目で翼妃を見下ろしていた。



「……龍神のこうの匂いがする」



 ぽつりと呟かれたその言葉が恐ろしく、慌てて柊水から離れる。昨夜眠るまで白龍は翼妃の傍にいた。匂いが移っていてもおかしくはない。



「龍神と会ってる?」



 何も答えられず黙り込む。翼妃も薄々感じているのだ。柊水にとって、龍神と自分が顔を合わせることは地雷だと。



「――また閉じ込められたい?」



 黙っていると、脅しのようにそう聞かれた。


 瞬時に幼少期の記憶が蘇る。狭い物置に閉じ込められ、米俵と共に泣きながら眠った嫌な思い出。あの時の恐怖を思い出すと、翼妃は柊水に逆らうことができなかった。



「……会っ、てる……」



 俯きながら掠れた声で答えた次の瞬間、ちっと柊水の忌々しげな舌打ちが聞こえた。柊水は翼妃の胸倉を掴み、無理矢理顔を上げさせてくる。



「言ったよね。君は僕の玩具だって」



 目の前にあるのはぞっとするほど美しい顔。こんなにも綺麗な見た目をしているのに、中身は暴力や脅しで言うことを聞かせようとする凶悪な男なのだから、人は見かけに依らない。



「翼妃ちゃんはいつの間に、僕の言うことが聞けない悪い子になっちゃったのかな」

「龍神と会うななんて、言われてない……」



 途切れ途切れ、小さな声で必死に言い返した。怖くて体が震えていた。日頃から心では強気に思っていても、柊水に付けられた心の傷は翼妃を蝕み弱気にさせる。実際に柊水を前にした時は特にそうだ。



「ああ、そう。もう龍神に絆されちゃったわけだ」



 口答えしたのが気に食わなかったのか蹴り飛ばされた。床に頭がぶつかり痛みが走る。柊水は恐怖でやり返せない翼妃の髪を引っ張り、屈んで目線を合わせて問うてくる。



「龍神にはどんな風に遊ばれた?」



 柊水は一切笑っていない。微塵も口角を上げずに、無表情で翼妃を見つめている。



「あれは相当鬼畜でしょ。もう体は触られた?」

「……白龍はそんなことしない」

「ふーん?」



 柊水が翼妃の髪を離した。そして翼妃を押し倒すかのように覆い被さってくる。



「翼妃ちゃんは頭が弱いから、簡単に他者を信じてしまうんだね。悪い男は悪い顔をして寄ってくるわけじゃないんだよ?」

「ひ、ゃ……っ」



 柊水の冷たい手が寝間着の中に入ってきて直接翼妃の肌に触れる。翼妃は怯えて身を更に固くした。また体を噛まれて虐められる。翼妃が悪いことをした際、柊水は時折この仕置きをしてくるのだ。



「やだっ! やだ……!」

「やめてと言えば龍神はやめてくれた?」



 首を横に触って抵抗するが、五つ年上の柊水の体はもうがっしりしていて大きく、翼妃の抵抗でどうこうできる重みではない。力の差を思い知らされ悔しかった。


 絶望しているうちに信じられないことを告げられる。



「忌み子は代々龍神の慰み物だよ。その小さな身体で龍神を受け入れる覚悟がないなら、容易く気を許さないことだね」



 ――慰み物。一時の愉しみのために弄ばれる者。主に性的対象とされる者を言う。


 そんなことを言われても簡単には呑み込めない。白龍は常に優しく、妹のように翼妃を可愛がってくれる。性的な目で見ている素振りを見せたことは一度もない。



「嘘つき……そんなこと信じない」

「幼い頃から一緒に居た僕よりも龍神を信じるの?」

「白龍はここへ来るもっと前から私のこと守ってくれてた!」



 そう叫ぶと柊水の動きが止まった。そしてぷっと馬鹿にしたように嘲笑してくる。



「本当、お気楽な頭」



 片側の口角を上げてそう言う柊水が、顔は整っているのに醜く見えた。興が冷めたのか、柊水は翼妃の上から退いて手毬や他の玩具を拾い上げる。



「これは燃やしておくから。龍神に絆されるほど退屈していたのなら今後は君専属の使用人を付けるよ」

「嘘……やめてよ。お願い、やめて」



 それは白龍との大切な思い出の品なのに――。それに専属の使用人なんて、見張りと同じだ。





「言ったよね。翼妃ちゃんの大事なものは、一つ残らず奪ってあげるって」




 嗚呼、結局こうなるのか。


 宿場町で買ってもらった物を全て奪われ、一人畳の間に残された翼妃は、乱された寝間着の裾をくしゃりと握った。






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